吉田秀和著 『現代の演奏』新潮社より抜粋
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私は、ブダペスト弦楽四重奏団の演奏をきく。
いわゆる中期のベートーヴェン、
たとえば作品59のラズモフスキー四重奏をきく。
こういうベートーヴェンには、
なんというか、
構築的なものに重点があって、
それ自身は、ひどく散文的な走句がつづく場合がある
(ピアノ曲でいえば、ワルトシュタイン・ソナタもそうである)。
これをひくブダペスト四重奏団の演奏は、
まことに〈豪快〉である。
豪快であって堅実。
かつての横綱朝潮が、
相手をがっちりおさえて、一方で浅く横みつをひき、
一方をはずに、有無をいわさず、押しこんでゆくような、
豪快さがある。
それは、
一見、無造作で味気ないようでいて、
実はその正反対、
小手先の芸でない、
完璧な演奏である。
ラズモフスキーの第三番のフガートの演奏など、
まさに、この朝潮が、
相手を土俵際に持ちこんだ末、
腰をガッチリ下ろして、ポンと突き飛ばす時みたいな余裕があって、
しかも実に力強い演奏になっている。
私はラズモフスキー四重奏曲がこう弾かれなければならないというのでなくて、
こういう演奏こそまさに完璧な、内容ある演奏だと感じる。
私は、これによって、学ぶ、
演奏とは何かということを。
それは音がそろっているとか、
きれいだとか、
速度が適正であり、
アクセントづけもフレージングも正しいというだけでなくて、
その上に、その音楽のもつ様式と風格を正しく音に実現するものでなければならない。
いや、
これも抽象的分析的形容でしかない。
ここには、
高度な技術と見識のほかに、
こういう力強さをまって初めて生まれてくるものがあり、
作品はそれを持っている。
同じベートーヴェンの後期の四重奏をきいてみる。
この相手は、前者に比べて、
はるかに手ごわい。
一気にはさみつけて、押し込み、
突き放すのは、不可能に近い。
ベートーヴェンの生前時はもちろん、そのあとも、
長い間、とうてい完全には演奏しきれない曲と考えられていた。
これは、ラズモフスキーに比べてはるかに詩的であって、
しかも膨大な規模にわたって広がっているくせに、
各楽器の受けもちがたがいに細かい綾織りのように入り組み、
ぶつかり合い、呼応し合う。
それは、あまりがっちり演奏されただけでも足りないし、
さればといって、
錯綜した線たちを平板に並べただけでは、
音の模様は浮き上がらない。
そうかといって、適当に整理して、
透明な音像に変えてしまっては、
独特の詩味はうすれてしまう。
こういった要求は、
それぞれ一つずつでも困難な上に、
おたがい同士で矛盾しあう。
この怪物的傑作を相手に、
演奏家たちは、
自分たちの最善をつくす。
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私は、ブダペスト弦楽四重奏団の演奏をきく。
いわゆる中期のベートーヴェン、
たとえば作品59のラズモフスキー四重奏をきく。
こういうベートーヴェンには、
なんというか、
構築的なものに重点があって、
それ自身は、ひどく散文的な走句がつづく場合がある
(ピアノ曲でいえば、ワルトシュタイン・ソナタもそうである)。
これをひくブダペスト四重奏団の演奏は、
まことに〈豪快〉である。
豪快であって堅実。
かつての横綱朝潮が、
相手をがっちりおさえて、一方で浅く横みつをひき、
一方をはずに、有無をいわさず、押しこんでゆくような、
豪快さがある。
それは、
一見、無造作で味気ないようでいて、
実はその正反対、
小手先の芸でない、
完璧な演奏である。
ラズモフスキーの第三番のフガートの演奏など、
まさに、この朝潮が、
相手を土俵際に持ちこんだ末、
腰をガッチリ下ろして、ポンと突き飛ばす時みたいな余裕があって、
しかも実に力強い演奏になっている。
私はラズモフスキー四重奏曲がこう弾かれなければならないというのでなくて、
こういう演奏こそまさに完璧な、内容ある演奏だと感じる。
私は、これによって、学ぶ、
演奏とは何かということを。
それは音がそろっているとか、
きれいだとか、
速度が適正であり、
アクセントづけもフレージングも正しいというだけでなくて、
その上に、その音楽のもつ様式と風格を正しく音に実現するものでなければならない。
いや、
これも抽象的分析的形容でしかない。
ここには、
高度な技術と見識のほかに、
こういう力強さをまって初めて生まれてくるものがあり、
作品はそれを持っている。
同じベートーヴェンの後期の四重奏をきいてみる。
この相手は、前者に比べて、
はるかに手ごわい。
一気にはさみつけて、押し込み、
突き放すのは、不可能に近い。
ベートーヴェンの生前時はもちろん、そのあとも、
長い間、とうてい完全には演奏しきれない曲と考えられていた。
これは、ラズモフスキーに比べてはるかに詩的であって、
しかも膨大な規模にわたって広がっているくせに、
各楽器の受けもちがたがいに細かい綾織りのように入り組み、
ぶつかり合い、呼応し合う。
それは、あまりがっちり演奏されただけでも足りないし、
さればといって、
錯綜した線たちを平板に並べただけでは、
音の模様は浮き上がらない。
そうかといって、適当に整理して、
透明な音像に変えてしまっては、
独特の詩味はうすれてしまう。
こういった要求は、
それぞれ一つずつでも困難な上に、
おたがい同士で矛盾しあう。
この怪物的傑作を相手に、
演奏家たちは、
自分たちの最善をつくす。
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