「和声の勉強をする」というのは、音楽する実に数多くの人々にとって「面倒くさい、億劫(おっくう)」なことと思われているでしょう。(そうではない人も沢山いるでしょうが!) 自分の向かい合っている音楽の和声を考え始めることは、ブレーキをかけられるような感がありましょうか
和声を考えてみると、最初はその曲のテンポで、正確に和声を解ってゆくことは、きっと出来ないでしょう、だからブレーキをかけられているよう感じがしましょうか。しかし、和声は、音楽の真実。勉強の最中、ちょっと立ち止まってその姿をしっかり見届け考えることは大事でしょう
しかし、せっかく上手く流れている演奏を、立ち止まって和声を考え始めたら、流れが悪くなってしまった・・・という場合もあるかもしれません。感覚は、大事。よいと思われるなら、信じてそれを続けてみることも、価値あると思われます。「和声を考えればよい」というわけではない
「和声を考えればよい、考えなければいけない」という偏った意見ではなく、和声を考え、感じ、更なる音楽的充実感が得られるよう勉強をすることが、ひとつの有意義なことなのは、確かでしょう。感覚と知性を照らし合わせながら、更なる芸術の高みを目指したいものです!
敢えて言うなら、音楽において、最近の私は「感覚が最も大事」とすら思っています。「知性」や「技術」は、大事なれど、最終的には感覚が最も大事、と。その感覚が充実し、洗練し、実現できるために、知性や技術は不可欠、と今の意見をまとめてみたいと思います。
そしてしかし最後にもう一言!「感覚が最も大事」と思ってもいますが、しかし感覚とは・・・曖昧なもの・・・よいと思っていても、それが後日同じようによいと思えるかどうか・・・?このような危うい落とし穴のある感覚、用心深く注意する必要があると思います。
・・・嘆きの歌(ベートーヴェン《ピアノソナタop.110》)の前にあるわずか三和音(低音)のために書かれた「Andante」の意味・・・「行く」ということ・・・これ、「逝く」ということ!? 誰が?自分が?いや、誰かが・・・ 自分は、まだ・・・だからこその《嘆きの歌》
嘆きの歌に神を見る。「3」はキリスト教文化における神を表す数字。これを念頭に、《嘆きの歌》の序奏は3連符、3度、3和音と「3」だらけ!しかし・・・それは暗く不吉で重々しい短調の音・・・この男は神を呪っている!!?