最近はあんなこんなで、
リストの《ソナタh-moll》の思わぬ影響から
ショパンの《幻想ポロネーズ》の方にも目が向くこととなり、
すっかりこちらの曲にも熱が入ってしまったのですが、
今日の発見、
いや以前から、この後期ショパンの音楽に
「ベートーヴェンの影響」を色濃く見ることができるなぁと
考えてはいたのですが、
やはり、その考えは間違ってはいなかったかと
今日は確信するにいたったのでした。
◇◆◇◆
ひとつの具体例をここに挙げますと、
ショパン《幻想ポロネーズ》、
コラールを経て寂しげな歌をたどり、そして
冒頭の幻想的な音楽に再現するちょっと前あたりに、
非常に印象的な「多重Tr.(トリル)」による
音楽の静止・緊張状態が起こります。
これ、
ベートーヴェン最後のソナタ《32番op.111》のII楽章に
同じような音楽が現れなかったか!?と思ったのです。
ベートーヴェンの《op.111》においては、
Variation(変奏)が厳格な変奏曲形式を離れて一端終始し、
音楽が自由に流れ始めたその直後、
この印象的な「多重Tr.」が現れるのです。
●このベートーヴェン《op.111》II楽章においては、
譜例、始まりからの右手の絶え間ないTr.に導かれ、
あらゆる声部でこの楽章冒頭から奏でられる
あの有名なモチーフ(動機)の「ド~ソソ~~」が鳴り、
(「あの有名」と書きましたのは、トーマス・マンの著作『Dr.Faustus(ファウスト博士)』において、この曲のことが実に詩的な迫力を持って描かれていることを差します)
ついには
譜例、上段右の部分(第112小節)から
問題の「多重Tr.」が始まります。二小節に渡る多重Tr.は
クレッシェンドとデクレッシェンドを経て上声部一声のみとなって、
さらに高く、さらに高く、緊張度を増して、
ついには低音Bassと共に「sf」に到達して
緊張が緩和される・・・この音楽の鳴り響くさま、
なんと形容したことか・・・
ただごとではない、とでも申しましょうか。
●ショパン《幻想ポロネーズ》においては、
上声部一声のみのTr.にはじまり、徐々に声部が増えて
ニ声、三声、そして四声(ピアニスト・ショパンのおそらくは
ピアノ美学的な高い感性からか、この四声Tr.においては、
音の少々の省略があるのがうれしいところです)
と、
次第に増えゆくTr.の様を楽譜上からも見ることができましょうし、
この高まる緊張感は・・・この音楽の鳴り響くさま、
なんと形容したことか・・・
ただごとではない、とでも申しましょうか。
演奏技術的に、どちらもなかなか弾きづらい箇所です・・・
しかし、
その音楽が一体何を物語っているのか、どんなファンタジーが
作曲家にそのような音楽を書かせるに至ったのか、
これを想像することは、技術的に困難な音楽の現実的束縛を離れ、
音楽そのものに到達せんと願う意思から、その演奏を可能せしめる、
・・・ようになれればなぞと願うばかりなのですが。
◇◆◇◆
面白いことに、
ショパンとベートーヴェンをつなぐ非常に興味深い証言があります。
ショパンの無二の友人の一人である画家のドラクロワ、
彼はショパンと会っては音楽論議や芸術論に花が咲いたという
芸術家同士としての密接なつながりのあった二人だそうです。
そんなドラクロワの1846年8月19日の手記、
「ショパンはわたしのためにベートーヴェンを神々しく
ひいてくれました。美学についてのどんなおしゃべりより、
この方がずっとすばらしいです。」
・・・いったい、どのベートーヴェンのソナタを
ショパンは弾いたのでしょうか。
この手記の1846年という時期的は、
ジョルジュ・サンドと別れる前、
ショパン後期の大作《幻想ポロネーズ》や《舟歌》も書き終えた頃、
そしてこのショパンのベートーヴェン演奏は、
晩年のノアンでの出来事だったようです。
私の勝手に想像するところでは、
ショパンの弾いたベートーヴェンというのは、
たぶん、後期の三つのソナタだったのではないかな、
と思うのですが。
もしかするとショパンは、
このベートーヴェンの「ただごとでない」音楽《op.111》を
一人の人間として素直に「ただごとでない」と感じ、さらには
とてつもなく高い音楽的感性の境地に至った音楽家として、
その思いの一端を、自身の作品《幻想ポロネーズ》に
反映させたのではないかと、
勝手な想像を胸を躍らせて巡らせた今日この頃でした。
つづく
リストの《ソナタh-moll》の思わぬ影響から
ショパンの《幻想ポロネーズ》の方にも目が向くこととなり、
すっかりこちらの曲にも熱が入ってしまったのですが、
今日の発見、
いや以前から、この後期ショパンの音楽に
「ベートーヴェンの影響」を色濃く見ることができるなぁと
考えてはいたのですが、
やはり、その考えは間違ってはいなかったかと
今日は確信するにいたったのでした。
◇◆◇◆
ひとつの具体例をここに挙げますと、
ショパン《幻想ポロネーズ》、
コラールを経て寂しげな歌をたどり、そして
冒頭の幻想的な音楽に再現するちょっと前あたりに、
非常に印象的な「多重Tr.(トリル)」による
音楽の静止・緊張状態が起こります。
これ、
ベートーヴェン最後のソナタ《32番op.111》のII楽章に
同じような音楽が現れなかったか!?と思ったのです。
ベートーヴェンの《op.111》においては、
Variation(変奏)が厳格な変奏曲形式を離れて一端終始し、
音楽が自由に流れ始めたその直後、
この印象的な「多重Tr.」が現れるのです。
●このベートーヴェン《op.111》II楽章においては、
譜例、始まりからの右手の絶え間ないTr.に導かれ、
あらゆる声部でこの楽章冒頭から奏でられる
あの有名なモチーフ(動機)の「ド~ソソ~~」が鳴り、
(「あの有名」と書きましたのは、トーマス・マンの著作『Dr.Faustus(ファウスト博士)』において、この曲のことが実に詩的な迫力を持って描かれていることを差します)
ついには
譜例、上段右の部分(第112小節)から
問題の「多重Tr.」が始まります。二小節に渡る多重Tr.は
クレッシェンドとデクレッシェンドを経て上声部一声のみとなって、
さらに高く、さらに高く、緊張度を増して、
ついには低音Bassと共に「sf」に到達して
緊張が緩和される・・・この音楽の鳴り響くさま、
なんと形容したことか・・・
ただごとではない、とでも申しましょうか。
●ショパン《幻想ポロネーズ》においては、
上声部一声のみのTr.にはじまり、徐々に声部が増えて
ニ声、三声、そして四声(ピアニスト・ショパンのおそらくは
ピアノ美学的な高い感性からか、この四声Tr.においては、
音の少々の省略があるのがうれしいところです)
と、
次第に増えゆくTr.の様を楽譜上からも見ることができましょうし、
この高まる緊張感は・・・この音楽の鳴り響くさま、
なんと形容したことか・・・
ただごとではない、とでも申しましょうか。
演奏技術的に、どちらもなかなか弾きづらい箇所です・・・
しかし、
その音楽が一体何を物語っているのか、どんなファンタジーが
作曲家にそのような音楽を書かせるに至ったのか、
これを想像することは、技術的に困難な音楽の現実的束縛を離れ、
音楽そのものに到達せんと願う意思から、その演奏を可能せしめる、
・・・ようになれればなぞと願うばかりなのですが。
◇◆◇◆
面白いことに、
ショパンとベートーヴェンをつなぐ非常に興味深い証言があります。
ショパンの無二の友人の一人である画家のドラクロワ、
彼はショパンと会っては音楽論議や芸術論に花が咲いたという
芸術家同士としての密接なつながりのあった二人だそうです。
そんなドラクロワの1846年8月19日の手記、
「ショパンはわたしのためにベートーヴェンを神々しく
ひいてくれました。美学についてのどんなおしゃべりより、
この方がずっとすばらしいです。」
・・・いったい、どのベートーヴェンのソナタを
ショパンは弾いたのでしょうか。
この手記の1846年という時期的は、
ジョルジュ・サンドと別れる前、
ショパン後期の大作《幻想ポロネーズ》や《舟歌》も書き終えた頃、
そしてこのショパンのベートーヴェン演奏は、
晩年のノアンでの出来事だったようです。
私の勝手に想像するところでは、
ショパンの弾いたベートーヴェンというのは、
たぶん、後期の三つのソナタだったのではないかな、
と思うのですが。
もしかするとショパンは、
このベートーヴェンの「ただごとでない」音楽《op.111》を
一人の人間として素直に「ただごとでない」と感じ、さらには
とてつもなく高い音楽的感性の境地に至った音楽家として、
その思いの一端を、自身の作品《幻想ポロネーズ》に
反映させたのではないかと、
勝手な想像を胸を躍らせて巡らせた今日この頃でした。
つづく