ちょっと間が開きましたが池田の話の続きです。
伊居太神社に怪しい猪名津彦神社があり、そこには古墳から出土した骨が埋まっているとのことでした。
その古墳は今では失われてしまっているのですが、ちゃんと猪名津彦神社としてその痕跡が残っています。
猪名津彦神社の名前は延喜式にも載っているのですが、別の場所の猪名津彦神社が式内社として有力みたいです。
ちなみに伊居太神社では猪名津彦のことをアヤハ姫・クレハ姫を連れてきた阿知使主と同じとしていて、こちらが式内社だとしているそうです。
猪名津彦神社は住宅街の真ん中で太い道路に面していないので土地勘の無い人が行くのは苦労しそうです。
こじんまりした神社で拝殿も狛犬も新しいものでしたが、拝殿の横にひと際目を引く巨石がありました。
ほかにも所々に大きな石があります。
実はこれらの石はここにあった古墳の石室の石だったといわれていて、鉢塚古墳と同時代の古墳がここにあったそうです。
そしてここから出土した人骨を猪名津彦のものとして伊居太神社に祀ってあるのだそうです。
う~ん・・・鉢塚古墳は古墳時代後期のものなので阿知使主とは時代が合わないと思うのですが・・・
池田の歴史がなぜこれほどややこしいくなってしまったか?・・・
それには理由もあります。
それは次に向かった場所に関係があるのです。
池田城です!
私が池田に住んでいた頃はただの原っぱだったのですが今は公園になり天守らしき物まであります。
説明書きにもあるのですが、今の天守は当時を再現したものですらなくww城跡公園には天守が必要だろうとの考えで造られた不思議な天守です・・・
城があった当時に建っていたのは天守というより館に近いもので今では礎石だけが残っています。
この池田城の名前が歴史に出てくるのは織田信長の時代です。
池田城は信長によって攻め滅ぼされ、その後の本願寺攻めの折に信長が陣を張った場所とされています。
ここで信長が指揮を執っていたと思うとなんだか感慨深いものがありますが、悲しい事に信長に攻められた時に池田城のみならず周辺の寺社がことごとく焼かれてしまい、古い資料がなくなってしまったそうなのです。
残念・・・
真実は闇の中・・・
伊居太神社に怪しい猪名津彦神社があり、そこには古墳から出土した骨が埋まっているとのことでした。
その古墳は今では失われてしまっているのですが、ちゃんと猪名津彦神社としてその痕跡が残っています。
猪名津彦神社の名前は延喜式にも載っているのですが、別の場所の猪名津彦神社が式内社として有力みたいです。
ちなみに伊居太神社では猪名津彦のことをアヤハ姫・クレハ姫を連れてきた阿知使主と同じとしていて、こちらが式内社だとしているそうです。
猪名津彦神社は住宅街の真ん中で太い道路に面していないので土地勘の無い人が行くのは苦労しそうです。
こじんまりした神社で拝殿も狛犬も新しいものでしたが、拝殿の横にひと際目を引く巨石がありました。
ほかにも所々に大きな石があります。
実はこれらの石はここにあった古墳の石室の石だったといわれていて、鉢塚古墳と同時代の古墳がここにあったそうです。
そしてここから出土した人骨を猪名津彦のものとして伊居太神社に祀ってあるのだそうです。
う~ん・・・鉢塚古墳は古墳時代後期のものなので阿知使主とは時代が合わないと思うのですが・・・
池田の歴史がなぜこれほどややこしいくなってしまったか?・・・
それには理由もあります。
それは次に向かった場所に関係があるのです。
池田城です!
私が池田に住んでいた頃はただの原っぱだったのですが今は公園になり天守らしき物まであります。
説明書きにもあるのですが、今の天守は当時を再現したものですらなくww城跡公園には天守が必要だろうとの考えで造られた不思議な天守です・・・
城があった当時に建っていたのは天守というより館に近いもので今では礎石だけが残っています。
この池田城の名前が歴史に出てくるのは織田信長の時代です。
池田城は信長によって攻め滅ぼされ、その後の本願寺攻めの折に信長が陣を張った場所とされています。
ここで信長が指揮を執っていたと思うとなんだか感慨深いものがありますが、悲しい事に信長に攻められた時に池田城のみならず周辺の寺社がことごとく焼かれてしまい、古い資料がなくなってしまったそうなのです。
残念・・・
真実は闇の中・・・
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