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存在の不思議、無常の力

キャリアコンサルタント、田中道博のブログです。
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空海の道

2014年05月06日 | 日記
四国八十八箇所霊場のひとつ善通寺にお参りしたのは既述の通り。その際に朱印帳を購入したが、その後の予定は立てていなかった。

ふとしたきっかけでゴールデンウィークに徳島へ行くこととなったのを縁に、一番札所からお参りすることにした。これも既に書いた。

今日までで十二番札所の「焼山寺」まで順にお参りした。

本来は「歩き遍路」を志していたが現段階では断念。できる限り前に進めるよう車や公共交通機関を利用し、また順番にもこだわらずに進めていこうと考えている。

今日感じたことは、やはりどうしても歩いてでしか感じられないものがあろうということだ。十一番札所の藤井寺から十二番札所の焼山寺までは阿波随一の難所といわれる道だ。

峠をいくつか越えながら900メートルもの標高差を登る。12キロ以上の道のりだ。古来の道そのままが残り、空海も歩いたと言われる道である。

様々な情報を見るにつけ、次回の一巡はどうやっても歩いて巡りたいと感じる。かなりハードなことは承知。この道はやはり自らの足で刻むに限る。

昨日話題にした宇宙旅行。そんなものとは比較にならない重みを感じる。自らと向き合い心を見つめる冒険。ワクワクすることこの上ない。

余談だが、お遍路巡りで感じたこと。それは毎回読む「般若心経」。自分で言うのもなんだが至極スムーズなのだ。こんなところで高校時代の経験が生きるとは…

「全国から人が集まる四国」も再発見。面白い連休だった。

世界の広がり、宇宙の広がり

2014年05月05日 | たわいない話
先般テレビで宇宙旅行について取り上げられていた。

「その日」を心待ちに、すでに予約金を支払っておられる方が多くいるらしく、彼らのネットワークまで出来て盛り上がっているらしい。

それぞれの価値観で日々を生き、どうしても宇宙へ行きたいという思いで過ごされることは自由だが、私にはその感覚がない。

このテレビ番組。セットで思い出した顔があった。

故立松和平氏だ。生前、彼がインタビューに答えこのようにおっしゃっていた。

「旅をすればするほどに、世界は広くなるのです。」

世界中を旅した氏の言葉は重い。

普通に考えれば、知る場所が多くなるほどに知らない場所が減り、世界が狭く感じられると思えるかもしれない。

しかし、そうではなくて広がるというのだ。

立松氏の「世界の広がり」とはつまり、どこまで行っても知り尽くすことはないということだ。なぜならばそこには日常があり、様々な人間模様がうごめいているからだと私は理解している。

宇宙の話に戻ろう。たかだか数分間宇宙から地球を眺めて、なにがわかるのか。そんなちっぽけな世界観・宇宙観で過ごしているのか。私なら想像力だけでそこへ行くことが出来る。

物理的なエリアの広がりよりももっと意味深いものがあるはずだ。

それは例えば「人の心」だったり「存在の不思議」だったりするだろう。

物理的に宇宙へ行くことよりも、内的な問いかけこそが人生の価値だ。こちらの「宇宙」の方が広く深い。

日本人と地震

2014年05月05日 | たわいない話
今朝方、関東で大きな地震があった。しかしさほど目立ってはニュース等で取り上げられなかったようだった。

これが関西圏で起こった地震であれば、かなりの大騒ぎになっていたかもしれないなどと考えていた。

統計的なことは調べていないが、私が暮らす西日本に比べると東の方が地震の頻度は高いように見受けられる。

東日本大震災という未曾有の被害をもたらしたあの地震を経験している関東の方にとっては、今朝の震度4~5弱という揺れはたいしたことがないのかもしれない。

それなりに備えもあってか、街は平静を保っているようにみえた。

日本は「地震大国」だと言われている。この狭小な国に暮らす日本人は古来多くの被害を繰り返し甘受し、都度多くの悲しみや理不尽さに耐え、そして乗り越えてきた。

もちろん関東圏ばかりではなく、西日本にも歴史上数々の被害が記録されている。

800年前の時代には京都を中心に大地震があったそうで、鴨長明の「方丈記」にも記述がある。最近では阪神淡路大震災も記憶に新しい。

それにしても、世代を経ればあまりにも自然災害への備えが出来ない。

しかし考えてみると、この場所を選び暮らす以上自然災害による理不尽な死は避けられない。悲しみの記憶を消し去ることも大切な能力・知恵なのかもしれない。

自然はそれほどまでに偉大なのだ。コントロールはできない。

改めて、無常観が根付いた土壌や、支え合い励まし合って生きる文化など、日本人の清廉さを思う。

お遍路さんのこと

2014年05月04日 | キャリア
今年は四国霊場開創1200年の区切りの年と言われている。

以前から四国遍路に興味を持っていたことや、最近も四国遍路に関して複数の方からのご示唆をいただいたこともあり、私もその真似事をしてみたくなった。

「以前から」と言ったが、これはおそらく高校時代の経験に遡るだろう。

私が通った高校は真言宗を旨とする宗教教育に力を入れていた。朝礼では「般若心経」を読経し、「修養行事」と称する高野山への合宿もあった。

毎日のこと。知らず知らずのうちに般若心経を覚えていたし、密教の不思議な魅力も感じるようになっていたような気がする。

そんな私がここ四国にやってきたことにも意味があるような気がしている。

歴史資料の中のものでしかなかった「満濃池」は自宅から車で30分のところにあり、空海の生家がある善通寺までも自宅から30分程度で行ける。

地域のあらゆる場所に弘法大師空海の痕跡があり、そして改めてここには、全国から人々が目指す「霊場」があった。

自分自身の人生の一時期と歴史の節目ともいえる1200年という時間軸が交錯することに不思議な感覚を覚える。

そこで思い立ってお遍路さんを始めてみることにした。まずは交通手段にこだわらず、車で行ける時は車、歩きたいときは歩き遍路…と気負わず楽しみたい。

秋には四国にキャリアカウンセラーが集まる大会を計画している。「お遍路さん体験」もある。それまでには勉強してご案内出来るようにしておきたい。

生きる場所について

2014年05月01日 | キャリア
ふと、「生きる場所(=物理的な場所)」について頭に浮かんだので話題にしたい。

地方で転職支援をしていると、多くの方の希望条件の上位にこの「場所」が出現する。私はずっと、なぜそれほどまでにこだわるだろう?と不思議に思っているが、明確な回答を得たことはない。

「長男なんです。当たり前じゃないですか。」
「親の面倒を見なければならないから。」

といったことが回答の上位だ。「親の面倒を見る」というのは、ある意味当然のことだ。しかし、同じ場所に暮さなくても出来ることはあろう。

私にとっては当たり前の事なのだが、正社員として会社勤めするということは、「会社の都合でどこへでも行きます」ということだ。

転勤は出来ませんといいながら、給与条件への希望もちゃっかり。それってどうなのだろうか。

「人間(じんかん)至るところに青山(せいざん)あり」

暮す場所も死ぬ場所もいくらでもあるし、親は親で固有の人生がある。子に頼らなくても生きていくし、死ぬときは死ぬ。

冷たい気持ちではない。「個」への、「命」への絶対的な尊重に通じる。親を敬いそして認めれば、暮す場所など問題ではない。そのためには自立や親離れが必要だけれど。

自由に幸福に生きていく道筋は無限にある。もちろん例外はあろうが「場所」ごときに制限をかけて何が幸せか。そんなことを考えていた。

※以上は田中の個人的見解であり、所属する組織とは何ら関係がありません。