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存在の不思議、無常の力

キャリアコンサルタント、田中道博のブログです。
こちらもご覧ください。→http://www.ashimira.jp/

危険って言うけれど…

2014年06月11日 | たわいない話
○○が危険、○○が毒…
そんな記事がSNS等で頻繁にシェアされている。

もちろんすべてが間違いではないと思う。鋭くて妥当なものがあるのかもしれない。

でも、それがどうしたのか?危険だから何か?毒だから何か?

少し極論に聞こえるかもしれない。けれども世界最高峰の寿命を誇る日本人。

これ以上長く生きることがどれほどの意味を持つのか?

生きとし生けるものは必ず死を迎える。その命の意味を証明する手段は命の長さでは断じてない。

長生きこそが価値だという考えの一部は、長生きだけが価値だという歪んだ価値観に走る。

○○が危険、○○が毒…の奥にはそのことが隠れている。

けれども、危険とか毒とかよりもっと奥に潜む問題がある。

なぜ危険や毒を売るのか…

一方で、なぜ危険だからいけないのか、なぜ毒はダメなのか…

人間の心の闇、ズルさ。そんなものを考える題材としてこれは良い。そう感じた。

気になったので…

2014年06月11日 | たわいない話
猫派とか犬派とか、そんなのがあるみたい。私はどちらでもない。

あえて言うならば「人派」か。

猫好き犬好きの方を否定する気持ちはない。かわいいのだろう。

けれども許せないことがある。

それは飲食店でありながら、猫や犬が店にいること。

触ったその手で調理してない?と疑ってしまう。いや、してるでしょ!毛も飛散してる。

勝手に可愛がるのはいいけれど、客まで巻き込むなと言いたい。

同様に美容院や衣料品店も。行かないし買わないよ。

客を失ってることに気づかないのかな…

以上、知らない人がいたらかわいそうだから記事にしました。

夏は夜。しかし今年は朝か…

2014年06月04日 | たわいない話
四国は梅雨に入った。
この時期はほんとうに鬱陶しいと思うけれども、日本人は古来付き合ってきた季節であり、その過ごし方も心得てきたはずだ。

枕草子の序段から…

夏は夜。

月の頃はさらなり。
闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。
また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。
雨など降るもをかし。

今宵は月夜ではないが雨の予報である。傘をさしながらほろ酔いで街をそぞろあるくもをかし。早目に帰宅しての読書もをかし。庭の紫陽花を愛でるもをかし。

そういえば幼少の頃の記憶にある蛍。あれだけのインパクトある景観はさほどない。眠さに耐えながらも見た無数の光の記憶だ。

昨今は蛍の数も少なくなったと聞く。今の子どもたちは自然を通しての経験を積みにくくなっている気がする。

さて、話題は変わるが間もなくワールドカップサッカーが始まる。ブラジルで行われる今回。時差は12時間と聞く。

ブラジルの夜は日本の朝だ。試合は日本時間の朝行われる。

雨で多少の不自由があるこの季節ではあるが、その中での楽しみとしてブラジルでの日本の活躍を期待したい。そして自身の朝の過ごし方も考えていかなければ。

つまり具体的には、それぞれの試合のときにどこにいるか…。まず第1戦目は15日の日曜日。これはなんとか観戦しようと思い手帳に書いた。

今年に限っては「夏は朝」がをかし。

「ありのまま」っていうけれど

2014年06月02日 | たわいない話
巷で流行っているそうで「ありのまま」という言葉についてSNS上でもこれに関する記事をよく見かける。

そのうちに使われなくなるのはわかっているけれど、少し考えてみようと思った。

記事についてはそれぞれにごもっともで、さすがにプロの書き手さんだ。様々な切り口から論じられていてどれも正しいと思う。

私はそこまでの言語力もないし説明力もないので、ここでは誤解されやすいと思われる点について触れてみたい。

例えば職場でこんな会話が生まれるはしないか。

上司  「Aさん、チームワーク良く仕事してくれよ。報連相もきちんと!」
Aさん 「えっ?私は私です。ありのままでやってるんです。何か?」
上司  「…」

この「ありのまま」の使い方はどうだろう?

この話題を取り上げたのは、なんだかこんな事例がたくさん出て来そうな予感がしているからだ。

「ありのまま」と「自分勝手」は違う。「ありのまま」と「傍若無人」は違うのだ。

「ありのまま」とは英語歌詞の語源はさておき、アサーションに通じる気がする。素直に自分自身であり続けることは大切なことだ。

しかし、その前提にはお互いを尊重する姿勢が必要だと思う。一方の都合を無理矢理に押しつけることでは断じてない。

職場で肩の力を抜き自由でありながらも、お互いが仕事を前に進めやすいように思いやりを持って接すること。

これが「ありのまま」の本質ではないかと感じている。相互尊重の謂だと私は思う。

登山と人と

2014年05月08日 | たわいない話
今年のゴールデンウィークも複数の山岳遭難事故がニュースになった。

もしかすると毎年のようにこの類いの文章をアップしているかもしれないが、今年も書いてみようと思った。

登山はある意味「麻薬」のようなところがある。

一定のレベルをクリアすると、人は必ず高次の目標にチャレンジしようとする。アブラハム・マズローがいう「自己実現の欲求」のことだ。

これは人が元来持つ特性であり、もちろんよい点でもある。この山を登ったから次はあの山を…。このルートから登ったから次は少し難しいあのルートから…。

これが繰り返されることになる。そしてそれをクリアする都度自己効力感が高まり、エスカレートしていく。止められなくなるのだ。

しかし人はほぼ例外なく加齢とともに衰える。次の…、次の…の積み重ねを想像すればわかるだろう。

そこには自らの実力を過信した老人が居る。

登山の実績と体力が反比例し、一定のところで不具合な事態が生じることもあろう。

このようなことは日常にいくらでも散見される。

時代の変化を学ばず経営力を過信した経営者。毎日運転してきたからと齢80を過ぎても運転し続けるおじいちゃん。子供の運動会で骨折するお父さんなど…。

笑い話ではない。人は元来そういった存在である。だからこそ自己を客観視する目が必要だ。そして、そのために他者の存在がある。

これからは山へ行く老人に勇気を持って言おう!
「もうやめた方がいいのではないか?」と。