このブログは、基本的なところは思い出ブログである。音楽やプロレスの話もするが、身近なところで言えば、主として酒と旅について書いてきた。
これは、日常的な自分の趣味が酒と旅だったからに他ならないが、その酒と旅という趣味が脅かされる事態となって久しい。言うまでもなく、コロナ禍のせいだ。
僕は居酒屋が大好きだが、一応、酒は引きこもっていても呑める。だが、旅にはなかなか出られない。
この新型コロナウィルス、COVID‑19というやつは、まことにやっかいな感染症である。どんどん変異していくため実態をつかみにくいが、とにかく恐るべき感染力であるということ。人はみなマスクをして手洗い消毒を行い密を避け換気をしアクリル板を立て対策した。そのため、僕などは年に2,3回は風邪を引いていた弱い人間だったのだが、あれ以来一切風邪なんぞ引いていない。どころか、例年猛威をふるうインフルエンザまでもが、日本からほぼ撲滅されてしまった。いかに、従来型の風邪やインフルエンザが、感染力において雑魚だったかということか。それでもCOVID‑19は第6波だの第7波だのと襲ってくる。
もちろん、厳しい病気であるということは間違いないが、さらに社会をややこしくしているのは、ワクチンの接種有無は除いたとしても、人によって感染症状に大きく差があり、「無症状」なる状態もかなりの場合出てしまうということ。これは困る。
自分がリアルタイムで感染しているかどうかがわからない。インフル君にも潜伏期間はあったが、その比ではない。自分が媒体者となっているかもしれない怖さ。最初は検査抑制論もあり(今もある)、近い距離で頻発し出したときは本当に自衛に徹した。僕は、今はワクチンも打ち、仮に感染しても死に至ることはおそらくないだろう。だが、同居人である妻には基礎疾患がある。油断できない。
なので、旅にはなかなか出られない。
コロナ禍の中で、いろんなことを考えていた。
政府は「GoToトラベル」というよくわからない施策を打ち出した。そんな税金を投じて感染拡大に寄与することをせずとも感染症が収束すれば人はまた旅に出るさ、現に2022年は「行動制限のない夏」というキャッチコピーだけでこんなに人は動いてるじゃないか(全然収束してないけど)。
そんな政治的な話はまた分断を煽ることにも繋がるので措く。僕がこのキャンペーンを見ていて思ったのは、旅とは、僕がしてきた旅行とはいったいなんだったのかということだ。
基本的に、GoToトラベルという施策は、指定旅行代理店を通じてのパッケージツアーに「半額税金で補助するよ」というもの。ネット予約のホテル代も対象になる場合があるが、いずれにせよ、ふらり旅派にはほぼ寄与しない。
僕は、旅行代理店を使ったことは過去に、新婚旅行で外国に行ったときくらいである。厳密にいえば修学旅行や社員旅行とかは代理店が入っていたのだろうけれども、個人の旅行では代理店に世話になる発想がなかった。
税の再分配の不均衡さについては、例えばふるさと納税などと同じで、今に始まったことではなく、ここで語ることでもない。それよりも。
僕が趣味にしていた、大好きな国内旅行は、世間的には旅行という範疇ではなかったのだろうか。自転車を漕ぎ、周遊券や18きっぷを大いに活用し、野宿をしたり夜汽車に乗ったりクルマで車中泊をするような旅は。
そして、連想は続く。
若かった頃。よくユースホステルを泊まり歩いていた時代に、いわゆる「ベテランの旅人」に遭遇することがあった。もう何年もバイトしつつ旅を続けているような人たち。
たいていはいい人で、これから行く先の見どころなどのアドバイスをくれたり、旅の面白い話をしてくれたりする。ネットもない時代、そうした口コミは有難い。だが、時々は面倒くさい人もいたりした。
「あーあ、あそこ行ったの(笑)。有名ってだけのとこだったろう? 本当にいいのはその奥なのにね」「知床の真価は夏じゃわからんよ。冬を見ずして語るなかれだ」「東雲湖も行ったことないんじゃ話になんない」「今日どこで泊まるかなんて夕方になんないと決められないじゃん」「最初にスケジュール決めてその通り動くなんてシロート」うっせーよ!
うざいベテランには本当に閉口するが、そういう鼻持ちならない人がよくいうセリフがあった。
「旅と旅行とは違うんだよ。わかる?」
くだらない話で、彼の人たちはつまりスケジュール管理された団体旅行等をバカにし、あれは旅ではない、我々がやっている風来坊的な在り方こそが本当の「旅」だと言いたかったのだろう。言葉遊びとしても、対象を見下している段階で品がないし、なにより的外れに気取っている様には、こっちまで恥ずかしくなってくる。
こうしたつまんない話は、いまから約40年前にチラホラと聞こえていた言説であり、とっくに記憶の奥底に沈んでいた。いまこんなこと言う人なんていないだろう。僕だって、「旅」と「旅行」を特に気取って使い分けたりはしていない。
しかしながら、コロナ禍は人を鬱にする。そんなはるかむかしの話まで記憶の沼から掬い上げ、あろうことにか「もしかしたら旅行と旅とは違うものなのか?」などと思いはじめる。嫌味なベテランの馬鹿説まで肯定しはじめた。GoToに該当するのが旅行で、恩恵をうけないのが旅か。こんなことを考えたりするのは、精神がやられている証拠である。
これはいかんな。いかんのはわかっているが、こういう時にさらに考えたくなるのが僕の悪癖である。
まずは日本国語大辞典を引く。「旅行」は第一義として「旅に出ること」となっている。当然だろう。旅と旅行は基本的には同義だ。しかし注釈をみると、「視察、観光、保養、社寺参拝などの目的で、よその土地にでかけて行くこと」と。「目的」が出てきた。日国辞典は「旅」についても詳細に解説しているが、そのなかに目的に関する文言はない。
だがあくまで辞書の説明であって、目的アリが旅行でナシが旅とはさらに言えない。そもそも、人の行動にはほぼ目的があるというのが僕の持論であって、旅にも目的はあるはず。その目的が具体的事象ではなくとも「失恋を癒しに」「ストレス解消」だって目的だ。あてもなくふらりと旅に出た、と言えば目的がないみたいだが、実は深層に「現実逃避」という目的がある。
しかしながら、旅行と旅の違いがここに出ているような気もする。「あてもなくふらりと旅行に出てみたんだけど…」ってなんか座りが悪い。ふらりと出るのは語感からして旅だよなあ。また人数もあって「ひとり旅」はあっても「ひとり旅行」とは言わないな。「個人旅行」という言葉はあるけどそれは団体旅行との対比であって、必ずしも一人を意味しない。定義は難しい。
だいたい「たび」というのは古来からある日本語だろう。万葉集の「旅にしあれば椎の葉に盛る」は有間皇子のであるが、この場合、旅と詠んでいるが実際は「連行」であって…話がそれすぎますな。
比して「旅行」はそもそも外来語。いつから日本に入っていたのか。知識層は別として、日葡辞書には「リョコウ」という項目が既にある。意味は「タビニユク」。室町期には口語として広まっていた。
江戸時代には、旅と旅行は使い分けられていたんだろうか。東海道中膝栗毛はどうだったかな。
このあと僕は辞書や文献にハマって数時間。全てをここに書くわけにもいかない。例えば神輿の渡御にともなう「御旅所」という言葉なんかは実に興味深いのだが、措いて。
分厚い漢和辞典なども見たのだけれど、旅という字は、「㫃(ハタアシ 旗の意味)」に「从(二人もしくは多数の人)」からなっていて、旌旗の下に集まる大軍のことらしい。おーそうだったのか。具体的には500人で一旅となるそうな。前から、軍隊用語で連隊とか師団とか旅団とか出てきて、他はともかく何で「旅」なんだろうと思っていたのだが、旅とはそもそも軍隊のことだったのか。その軍隊は列を組んで移動するので、そこから「たび」の意味が生じた由。
じゃ中国だと、旅という文字に団体の感じがしてくるのかなあ。「旅懐」「旅情」「旅愁」なんて言葉も漢和辞典にはあったので、そうではないのかもしれないけど。
そもそも旅にもいろいろあるわけで、「たび」「旅行」に全てを負わせるのは大変なのではないか。例えば英語だとTripだのJourneyだのTourだのSafariだのVoyageだの…Travelももちろんある。もう少し日本語もなんとかならないか。
旅の定義は、狭くは居住地を離れて他の場所へゆくこと、としていいだろう。さすれば、他にも言葉はある。
いちばんつまんないのは「出張」だろうな。楽しそうではない。
最近は「遠征」という言葉もつかう。最初は軍隊用語だったのかな。「ヒマラヤ遠征」なんて用法を経て、今なら例えば、ミスチルの福岡ドーム公演に行くのは「遠征」という言葉を用いる。
「巡礼」もある。宗教用語だが、転じて今はロケ地やアニメの舞台をめぐる旅の意味となった。これはたぶん、「聖地」という言葉が先に、ゆかりの地を示すために生まれたんだろう。そして聖地巡礼。日本には近い意味で「遍路」という言葉もあったのだが、それは採用されなかった。語感かな。
「放浪」も旅の一形態としてつかうな。さすらい。前述のうざいベテラン旅人なら「あなたのは旅ではなくむしろ放浪でしょう」と言えば喜ぶにちがいない。「彷徨」もあるが、声に出してもベテラン旅人に教養がないと伝わらない可能性もある。
そうして思えば「流離」「流浪」とどんどんデラシネ的要素が増す。これは旅だろうか。「居住地を離れて…」というより居住地がそもそも無いような。映画「砂の器」で親子が流れ流れてゆく光景を思い出す。広義ではこれも旅の一形態かもしれないが。
「漂泊」は使わないかな。芭蕉は「漂泊の思いやまず」片雲の風に誘われて東北へ旅に出たのだけど。
言葉あそびはこのくらいにしようか。飽きてきた。GoToなんかどうでもよくなってきたが、出張、遠征、巡礼くらいまでは補助がもらえただろうか。「GoTo放浪」「GoTo漂泊」なんてギャグでもつかえない。
僕もいい歳になって、若かった頃のようにのべつ幕無しに旅行に出ているわけでもない。せいぜい夏に少し長い旅、そして年末に妻の実家の帰省にかこつけて幾泊か動く。あとは、2、3泊の旅を何回か、といったところ。虫養いみたいなものだ。
2019年は、夏に身体を悪くしてしまいほぼ旅に出られなかった。それでも年末には癒えていたので、少し動いた。
成田には、真夜中についた。
早暁、お不動さんに参拝しようと思っている。関東の人がこぞって初詣にゆく成田山新勝寺には、僕はまだ行ったことがなかった。
夜明けまで4,5時間ある。ホテルに泊まるほどでもなく、ネットカフェに入ろうと思ったのだが、満員で断られた。そうか、成田空港の早朝便を待つ人でいっぱいなのだ。仕方なく、深夜営業のラーメン屋で軽く呑み、駅前のマクドで時間を潰した。これではGoToには引っかからない(そもそもコロナ禍以前の話だが)。
白々としてきたので新勝寺へ。何日か後にはごった返すはずの成田さんも、今は誰もいない。
そのあと、水郷と伊能忠敬で有名な佐原を散策。さらに香取神宮。利根川を渡って鹿島神宮を細かく歩き、鹿島臨海鉄道に乗って水戸へ。
以前、このブログでも書いたが、尊王攘夷と水戸学についてはかなり詰めて勉強したことがある。そのときから水戸をゆっくり歩きたかったのだが機会を得られずにいた。
史跡中心にじっくりと歩き、幕末に思いを馳せ、黄昏時になったので、最後に偕楽園へとやってきた。
ここに来るのは、約30年ぶりとなる。あの時は、梅が盛りだった。関東に住んでいた女友達と一緒だった。
僕はそのとき、彼女に言った。「結婚しようか」と。
今は冬。閑散としている偕楽園のベンチに座り、昔のことを思い出していた。思いついて、既に先に実家へ帰っている妻にメールをした。今、偕楽園にいる、と。
返信には、特に感慨深いことは何も書かれてなかった。内容を要約すれば「あっそう」。まあそうだよな。時はよどみなく流れている。僕は莞爾として、夜の水戸の町へと繰り出した。
なかなかいい旅をしたと思った。あちこち旅をしてきたけれど、北関東はあんまり歩いていない。関西人あるあるだろう。来年はどこへ行こうか。今回は成田から始めたが、同じパターンで佐野あたりまで来ておいて、早暁厄除け大師、そして栃木、足利、桐生、前橋なんてコースがいいんじゃないか。若いころ萩原朔太郎にはまったことがある。渡良瀬橋の上で森高千里も歌おう。そんな鬼が笑うようなことをぼんやりと考えていたら、そのあとすぐ新型コロナウィルスが世界を席巻してしまった。
生活が、変わった。
あれから長らく、外で呑むということをしていない。宴席ではなく一人で呑む、あるいは同居人となら問題ないだろうけれども、それならわざわざ出かけなくてもいい。そして「ウィルス家に持ち込みたくない脳」をぼんやりと外向けに匂わせる。いやーもう何年も外で呑んでないよ。
こうした「過剰に恐れる馬鹿なオヤジ」という緩いアピールが、歯止めになる。いまや緊急事態宣言の頃のような雰囲気は全くなく、普通にあちこちで宴会は行われているが、そういう席には元来行きたくないのであって、うまく断る口実ともなっている。この歳になって、今更コミュニケーションをはからずともよく、嫌われたり陰口を叩かれてももう何も支障はない。守るべきものは、他にある。
ただ、旅には行きたい。
僕の両親も、妻の両親もまだ健在である。人生90年時代。永らえてくれているのは有難いことだが、疾患だらけの高齢者がコロナ禍を迎えるというのも、なかなか大変である。
妻は年に2回は帰省していたが、それも出来ない。感染の心配もさることながら、田舎には「村人の視線」というものがある。おいそれとは行けないのだ。
僕と田舎の義兄で相談して、リモート環境を整えた。なので週に一度は、母娘がテレビ電話で話している。しかしそういうことを続けると、つのる思いもまた増幅したりするのはわかる。歳を重ねれば気弱にもなる。生きてるうちにはもう会えないのかい?
とうとう妻は帰省を決断した。そして、正月でも盆でもないシーズンオフに、一人空路で東北へと向かった。直前にPCR検査をして、僕が空港まで車で送り、向こうでは兄に空港に来てもらい、最低限ドアtoドアで。
滞在は半月程度だったが、後からみればちょうど波と波の間だった。うまい時期に動いたと言える。果たして、次はいつになるか。
ところで、「出張」「遠征」「放浪」「流離」などと同様、「帰省」もまた旅の一形態か。さっきは忘れていたな。
僕も旅に出たいのだが。
我慢の限界にきた。
結局、感染は人を媒体にしておこる。なら、人に会わなければよかろう。
個人で旅をするようになって何十年。目的は、他の人と同様に主として観光である。しかしながら、若い頃に有名観光地などはずいぶんと行った。今はむしろ、目的が「素晴らしい風景をみる」ではなく「その場所に立って思いを馳せる」に移行してきている。分類すれば「歴史散策」「文学散歩」か。観光は観光だが、あまり一般には需要がないところを細かく歩いて喜んでいる。時期は問わない。シダレザクラやラベンダーも目的にしていない。写真を撮っているのは石碑や墓がほとんどだ。
前述した旅行においても、例えば藤田東湖生誕の碑の前で佇んでいるのは僕くらいである。同じ碑でも、観光客が行列を作る宗谷岬の日本最北の碑とは様相が全く異なる。また、新年になれば何万人の初詣客でギュウギュウの成田山新勝寺だって、年末の夜明けには僕一人しかいない。梅の咲いていない冬の夕方の偕楽園を歩いているのは僕だけだ。そもそも、そういう旅行をしているのである。
あとは、列車に乗らずに自家用車で(ガソリンはしっかり消毒してセルフで)、「土地のうまいものと酒」さえ切り捨ててしまえば、いくらでも旅はできるのではないか。
そうして僕はシーズンオフ、車に食料と酒と自炊道具と布団を積み、2泊3日のショートトリップに出た。
夜明け前、大阪湾に沿うように南下した。堺をすぎ、早朝の和泉国一宮の大鳥神社に参拝して、観光を始める。泉大津のロシア人墓地などは、あまり人も来ない。岸和田城を車中から眺め、いくつか古墳を過ぎて、泉佐野の樫井古戦場跡へ。ここには塙団右衛門の墓もある。
和歌山に入り、加太の深山砲台跡へとゆく。ここが、本日の午前中のメイン。友が島の砲台は有名だが、こちらは比較的マイナーである。しかし壮観。細やかに見て歩く。
淡島神社にも立ち寄ろうとしたが人が多そうに見えたのでパスし、今度は山に向かって進路をとる。
伊太祁󠄀曽神社や粉河寺などあちこち寄りつつ、高野山の麓まできた。
九度山の眞田庵は2度目なので一瞥にとどめ、慈尊院や丹生酒殿神社などに時間をとり、そこから山へ。丹生都比売神社(ここの板碑は見たいと思っていた)を経由して、高野山の結界の中へと入る。
高野山は2度目なのだが、以前来た時には宝物館を中心にした寺院観光だったため、今回はじっくり歩いてみたかった。有難いことに、高野山には参拝客向けの大型駐車場がいくつもある。清潔なトイレもある。そこに車を止め、車中泊とする。連泊の予定。
日も暮れたころ、持参した酒を飲み、缶詰などをいくつも空けて一人宴会。この旅行では飲食店はもちろん、スーパーにさえ寄る予定はない。ちょっと徹底してみようと思った。まあね、高野山の町に泊まる人はだいたいが宿坊であり、夜の飲食店は少ない。酩酊して就寝。
翌朝。夜明け前から読経が聞こえてくる。さすが高野山。僕は湯を沸かし、一杯のコーヒーを喫する。この時間が本当に好き。
夜が完全に明けたら高野山の町を歩き回る。史跡だけではなく、人々が暮らす路地などにも入りこんでみる。山頂の台地がそのままひとつの自治体であり、小中高大と学校が揃い、数々の寺院が中心ながら、生活の色も濃く、なんだか離島を旅しているような感覚になる。楽しい。比叡山延暦寺とはそこが違う。
半日は、奥の院の墓石群で過ごす。ここは飽きない。時間を忘れる。日が暮れるまでずっと墓を巡り続ける。
翌日。行きは和泉、和歌山経由だったので帰りは河内経由。千早赤阪村の楠木正成関係の史跡や、西行終焉の地弘川寺などあちこちを回り、夕刻には自宅へ戻った。
接触無しでも旅は可能だな。確かにガス以外金はつかっていないし、料金のかかる施設にも入っていない。経済を回す、というGoTo的視点でゆけばけしからんと言われるだろうが、そもそも平時の旅とやってることはあまり変わらないし、申し訳ないが日本経済の為に旅に出たいわけでもない。
困ったことは、風呂に入れないことくらい。たいていは一日の観光が終われば、どこかの温泉に寄ってあふうぅぅ…というのが楽しみだったのだが、それを今回は省いた。濡れタオルで体を拭けばそれなりにさっぱりはするが、物足りない。
それ以外は、だいたい満足である。いい旅をした。
調子に乗った僕は、また旅に出た。今度は丹後半島を中心として2泊3日。これも前回同様、非接触を旨とした旅である。
立ち寄っているところは、山椒大夫の安寿姫の塚とか、静御前生誕の地とか、細川ガラシャ夫人の幽閉地とか。全然他の観光客と出会わない。
しかしマイナー観光地(失礼)だけではない。丹後最大の景勝地である「日本三景」天橋立にも、実は行った。
結局これも、方法と時間帯なのである。天橋立といえば「股のぞき」であり、たいていの観光客は山に登る。そして、観光スポットは駅のある南西側に集中している。日本三文殊である智恩寺があり、大天橋が架かる。それに付随して門前町があり、旅館が林立し土産物屋が並ぶ。
股のぞきは昔やったことがあるのでパスし、日も暮れたあと、逆の北東側、籠神社のあたりからアプローチした。大砂州の根もとあたりに小さな駐車場があり、そこで一夜を明かした。
そして早朝。天橋立縦断ウォーキングを試みた。約3.6km。朝5時から歩いている人などいない。さわやかな松並木の散歩。この巨大砂州は、日本の道100選ともなっている。また砂州の途中に鎮座する橋立明神の脇には、名水100選の「磯清水」もある。
小一時間かけて大天橋を渡り智恩寺まで来ても、6時くらい。それでもさすが日本三景、ぼつぼつ観光客が姿を見せてきた。頃合いになったので、僕は踵を返して戻った。
「非接触」「感染防止策の徹底」などと大上段に構えずとも、こんな旅ならなんら問題はない、と思う。前述したように、もともとの今の僕の旅のスタイルを大きく変えているわけではない。そもそも日常生活のほうがよっぽど感染機会が多く、危険といえる。
メシと風呂だけは少し難ではあるが、2度目の旅は、買い出しを解禁した。高野山の旅は山上2泊だったが、今度は日本海沿岸2泊である。スーパーで刺身くらいは買う。やっぱり新鮮なものはうまい(笑)。食べているのはもちろん車中である。
こんなふうに、自分の交通手段を用いての旅だと、ほぼリスクは回避できる。だが、電車に乗って自由に旅をする、というところまでは、まだリスク無しには難しい。
もうひとつ、考えることがある。
「旅と旅行とは違う」と同じ文脈で語られることが多い言説がある。曰く、
「旅ってやっぱり出会いだよ」
出会い。もちろん広義には「素晴らしい風景に出会う」「おいしいものに出会う」なども含まれるだろうが、意味合いの大半は、人との出会いを指すだろう。うざい旅人なら「出逢い」と書けとか言うだろう。
僕も、旅の中での人との出会いについては、数多くの思い出をブログ内で書いている。
幾多の場面で、いろんな人に助けられたし、いろんな人と笑ったし、いろんな人と語り合った。それは人生においてかけがえのない追憶として今も胸に生きている。人生が思い出の集合体であるとするならば、旅における彼の人たちとの出会いがもしも無かったとすれば、僕の人生なんて本当にスカスカだったろう。現実的に見ても、今の妻とも出会ったのは旅の空の下であり、旅がなければ人生そのものが別のものになっていたはずだ。
利己的に言えば、今の僕にはもう特に出会いは必要ない。ひとり旅であれば、ここ何年も非接触の旅をしていたのと同じだった。もうこの歳になれば、寂しくもない。むしろ気楽であって、誰とも出会わない旅を謳歌していた。なので、コロナ禍においても少しの修正と考え方の変更によってなんとかなった。
しかし、もしも僕の青春時代がコロナ禍だったとすれば。
本当にゾッとする。もちろんこれは旅行に限ったことではなく、旅行をしなくとも青春時代は大きく形を変えていただろうし、また「もしも僕の青春時代が戦時下だったなら」などというifとも通じるものがあるが、今の若者はどう思って日々を過ごしているのだろうか。
無論のこと、今の若い人の価値観は僕とは異なるだろうし、また若者にも多様性がある。さらに時代が違う。「もしも僕の青春時代にスマホとネット環境があったなら」というifも考えたくなる。でも可能性が狭められているのは間違いない。なんとか充実した青春を送ってくれ、と切に願う。
もはや、もとの世界に戻ることはないのだろうか。なんだか、今の様相をみていると絶望的な気もしている。検査の充実と、インフルエンザにおけるタミフルのような特効薬があれば、とは思うが、同じコロナウィルスである風邪の特効薬もないのにこれは相当に難しい。おそらく、なし崩し的にこのまま日常を取り戻したふりをして生きていくのだろう。
思い切り利己的に考えれば、家族の内臓疾患が寛解し、さらに身内から高齢者がいなくなったときが、ひと段落なのだろう。しかし、その頃には僕も高齢者になっているような。さすれば、自らを切り捨てる哲学を持たなくてはならなくなる。
電車に乗って駅弁を食べたり酒を呑んだりすることが、何か人に影響を及ぼす可能性のない世の中に、いつかは戻ってほしい、と願っている。空を見上げてため息ひとつ。
これは、日常的な自分の趣味が酒と旅だったからに他ならないが、その酒と旅という趣味が脅かされる事態となって久しい。言うまでもなく、コロナ禍のせいだ。
僕は居酒屋が大好きだが、一応、酒は引きこもっていても呑める。だが、旅にはなかなか出られない。
この新型コロナウィルス、COVID‑19というやつは、まことにやっかいな感染症である。どんどん変異していくため実態をつかみにくいが、とにかく恐るべき感染力であるということ。人はみなマスクをして手洗い消毒を行い密を避け換気をしアクリル板を立て対策した。そのため、僕などは年に2,3回は風邪を引いていた弱い人間だったのだが、あれ以来一切風邪なんぞ引いていない。どころか、例年猛威をふるうインフルエンザまでもが、日本からほぼ撲滅されてしまった。いかに、従来型の風邪やインフルエンザが、感染力において雑魚だったかということか。それでもCOVID‑19は第6波だの第7波だのと襲ってくる。
もちろん、厳しい病気であるということは間違いないが、さらに社会をややこしくしているのは、ワクチンの接種有無は除いたとしても、人によって感染症状に大きく差があり、「無症状」なる状態もかなりの場合出てしまうということ。これは困る。
自分がリアルタイムで感染しているかどうかがわからない。インフル君にも潜伏期間はあったが、その比ではない。自分が媒体者となっているかもしれない怖さ。最初は検査抑制論もあり(今もある)、近い距離で頻発し出したときは本当に自衛に徹した。僕は、今はワクチンも打ち、仮に感染しても死に至ることはおそらくないだろう。だが、同居人である妻には基礎疾患がある。油断できない。
なので、旅にはなかなか出られない。
コロナ禍の中で、いろんなことを考えていた。
政府は「GoToトラベル」というよくわからない施策を打ち出した。そんな税金を投じて感染拡大に寄与することをせずとも感染症が収束すれば人はまた旅に出るさ、現に2022年は「行動制限のない夏」というキャッチコピーだけでこんなに人は動いてるじゃないか(全然収束してないけど)。
そんな政治的な話はまた分断を煽ることにも繋がるので措く。僕がこのキャンペーンを見ていて思ったのは、旅とは、僕がしてきた旅行とはいったいなんだったのかということだ。
基本的に、GoToトラベルという施策は、指定旅行代理店を通じてのパッケージツアーに「半額税金で補助するよ」というもの。ネット予約のホテル代も対象になる場合があるが、いずれにせよ、ふらり旅派にはほぼ寄与しない。
僕は、旅行代理店を使ったことは過去に、新婚旅行で外国に行ったときくらいである。厳密にいえば修学旅行や社員旅行とかは代理店が入っていたのだろうけれども、個人の旅行では代理店に世話になる発想がなかった。
税の再分配の不均衡さについては、例えばふるさと納税などと同じで、今に始まったことではなく、ここで語ることでもない。それよりも。
僕が趣味にしていた、大好きな国内旅行は、世間的には旅行という範疇ではなかったのだろうか。自転車を漕ぎ、周遊券や18きっぷを大いに活用し、野宿をしたり夜汽車に乗ったりクルマで車中泊をするような旅は。
そして、連想は続く。
若かった頃。よくユースホステルを泊まり歩いていた時代に、いわゆる「ベテランの旅人」に遭遇することがあった。もう何年もバイトしつつ旅を続けているような人たち。
たいていはいい人で、これから行く先の見どころなどのアドバイスをくれたり、旅の面白い話をしてくれたりする。ネットもない時代、そうした口コミは有難い。だが、時々は面倒くさい人もいたりした。
「あーあ、あそこ行ったの(笑)。有名ってだけのとこだったろう? 本当にいいのはその奥なのにね」「知床の真価は夏じゃわからんよ。冬を見ずして語るなかれだ」「東雲湖も行ったことないんじゃ話になんない」「今日どこで泊まるかなんて夕方になんないと決められないじゃん」「最初にスケジュール決めてその通り動くなんてシロート」うっせーよ!
うざいベテランには本当に閉口するが、そういう鼻持ちならない人がよくいうセリフがあった。
「旅と旅行とは違うんだよ。わかる?」
くだらない話で、彼の人たちはつまりスケジュール管理された団体旅行等をバカにし、あれは旅ではない、我々がやっている風来坊的な在り方こそが本当の「旅」だと言いたかったのだろう。言葉遊びとしても、対象を見下している段階で品がないし、なにより的外れに気取っている様には、こっちまで恥ずかしくなってくる。
こうしたつまんない話は、いまから約40年前にチラホラと聞こえていた言説であり、とっくに記憶の奥底に沈んでいた。いまこんなこと言う人なんていないだろう。僕だって、「旅」と「旅行」を特に気取って使い分けたりはしていない。
しかしながら、コロナ禍は人を鬱にする。そんなはるかむかしの話まで記憶の沼から掬い上げ、あろうことにか「もしかしたら旅行と旅とは違うものなのか?」などと思いはじめる。嫌味なベテランの馬鹿説まで肯定しはじめた。GoToに該当するのが旅行で、恩恵をうけないのが旅か。こんなことを考えたりするのは、精神がやられている証拠である。
これはいかんな。いかんのはわかっているが、こういう時にさらに考えたくなるのが僕の悪癖である。
まずは日本国語大辞典を引く。「旅行」は第一義として「旅に出ること」となっている。当然だろう。旅と旅行は基本的には同義だ。しかし注釈をみると、「視察、観光、保養、社寺参拝などの目的で、よその土地にでかけて行くこと」と。「目的」が出てきた。日国辞典は「旅」についても詳細に解説しているが、そのなかに目的に関する文言はない。
だがあくまで辞書の説明であって、目的アリが旅行でナシが旅とはさらに言えない。そもそも、人の行動にはほぼ目的があるというのが僕の持論であって、旅にも目的はあるはず。その目的が具体的事象ではなくとも「失恋を癒しに」「ストレス解消」だって目的だ。あてもなくふらりと旅に出た、と言えば目的がないみたいだが、実は深層に「現実逃避」という目的がある。
しかしながら、旅行と旅の違いがここに出ているような気もする。「あてもなくふらりと旅行に出てみたんだけど…」ってなんか座りが悪い。ふらりと出るのは語感からして旅だよなあ。また人数もあって「ひとり旅」はあっても「ひとり旅行」とは言わないな。「個人旅行」という言葉はあるけどそれは団体旅行との対比であって、必ずしも一人を意味しない。定義は難しい。
だいたい「たび」というのは古来からある日本語だろう。万葉集の「旅にしあれば椎の葉に盛る」は有間皇子のであるが、この場合、旅と詠んでいるが実際は「連行」であって…話がそれすぎますな。
比して「旅行」はそもそも外来語。いつから日本に入っていたのか。知識層は別として、日葡辞書には「リョコウ」という項目が既にある。意味は「タビニユク」。室町期には口語として広まっていた。
江戸時代には、旅と旅行は使い分けられていたんだろうか。東海道中膝栗毛はどうだったかな。
このあと僕は辞書や文献にハマって数時間。全てをここに書くわけにもいかない。例えば神輿の渡御にともなう「御旅所」という言葉なんかは実に興味深いのだが、措いて。
分厚い漢和辞典なども見たのだけれど、旅という字は、「㫃(ハタアシ 旗の意味)」に「从(二人もしくは多数の人)」からなっていて、旌旗の下に集まる大軍のことらしい。おーそうだったのか。具体的には500人で一旅となるそうな。前から、軍隊用語で連隊とか師団とか旅団とか出てきて、他はともかく何で「旅」なんだろうと思っていたのだが、旅とはそもそも軍隊のことだったのか。その軍隊は列を組んで移動するので、そこから「たび」の意味が生じた由。
じゃ中国だと、旅という文字に団体の感じがしてくるのかなあ。「旅懐」「旅情」「旅愁」なんて言葉も漢和辞典にはあったので、そうではないのかもしれないけど。
そもそも旅にもいろいろあるわけで、「たび」「旅行」に全てを負わせるのは大変なのではないか。例えば英語だとTripだのJourneyだのTourだのSafariだのVoyageだの…Travelももちろんある。もう少し日本語もなんとかならないか。
旅の定義は、狭くは居住地を離れて他の場所へゆくこと、としていいだろう。さすれば、他にも言葉はある。
いちばんつまんないのは「出張」だろうな。楽しそうではない。
最近は「遠征」という言葉もつかう。最初は軍隊用語だったのかな。「ヒマラヤ遠征」なんて用法を経て、今なら例えば、ミスチルの福岡ドーム公演に行くのは「遠征」という言葉を用いる。
「巡礼」もある。宗教用語だが、転じて今はロケ地やアニメの舞台をめぐる旅の意味となった。これはたぶん、「聖地」という言葉が先に、ゆかりの地を示すために生まれたんだろう。そして聖地巡礼。日本には近い意味で「遍路」という言葉もあったのだが、それは採用されなかった。語感かな。
「放浪」も旅の一形態としてつかうな。さすらい。前述のうざいベテラン旅人なら「あなたのは旅ではなくむしろ放浪でしょう」と言えば喜ぶにちがいない。「彷徨」もあるが、声に出してもベテラン旅人に教養がないと伝わらない可能性もある。
そうして思えば「流離」「流浪」とどんどんデラシネ的要素が増す。これは旅だろうか。「居住地を離れて…」というより居住地がそもそも無いような。映画「砂の器」で親子が流れ流れてゆく光景を思い出す。広義ではこれも旅の一形態かもしれないが。
「漂泊」は使わないかな。芭蕉は「漂泊の思いやまず」片雲の風に誘われて東北へ旅に出たのだけど。
言葉あそびはこのくらいにしようか。飽きてきた。GoToなんかどうでもよくなってきたが、出張、遠征、巡礼くらいまでは補助がもらえただろうか。「GoTo放浪」「GoTo漂泊」なんてギャグでもつかえない。
僕もいい歳になって、若かった頃のようにのべつ幕無しに旅行に出ているわけでもない。せいぜい夏に少し長い旅、そして年末に妻の実家の帰省にかこつけて幾泊か動く。あとは、2、3泊の旅を何回か、といったところ。虫養いみたいなものだ。
2019年は、夏に身体を悪くしてしまいほぼ旅に出られなかった。それでも年末には癒えていたので、少し動いた。
成田には、真夜中についた。
早暁、お不動さんに参拝しようと思っている。関東の人がこぞって初詣にゆく成田山新勝寺には、僕はまだ行ったことがなかった。
夜明けまで4,5時間ある。ホテルに泊まるほどでもなく、ネットカフェに入ろうと思ったのだが、満員で断られた。そうか、成田空港の早朝便を待つ人でいっぱいなのだ。仕方なく、深夜営業のラーメン屋で軽く呑み、駅前のマクドで時間を潰した。これではGoToには引っかからない(そもそもコロナ禍以前の話だが)。
白々としてきたので新勝寺へ。何日か後にはごった返すはずの成田さんも、今は誰もいない。
そのあと、水郷と伊能忠敬で有名な佐原を散策。さらに香取神宮。利根川を渡って鹿島神宮を細かく歩き、鹿島臨海鉄道に乗って水戸へ。
以前、このブログでも書いたが、尊王攘夷と水戸学についてはかなり詰めて勉強したことがある。そのときから水戸をゆっくり歩きたかったのだが機会を得られずにいた。
史跡中心にじっくりと歩き、幕末に思いを馳せ、黄昏時になったので、最後に偕楽園へとやってきた。
ここに来るのは、約30年ぶりとなる。あの時は、梅が盛りだった。関東に住んでいた女友達と一緒だった。
僕はそのとき、彼女に言った。「結婚しようか」と。
今は冬。閑散としている偕楽園のベンチに座り、昔のことを思い出していた。思いついて、既に先に実家へ帰っている妻にメールをした。今、偕楽園にいる、と。
返信には、特に感慨深いことは何も書かれてなかった。内容を要約すれば「あっそう」。まあそうだよな。時はよどみなく流れている。僕は莞爾として、夜の水戸の町へと繰り出した。
なかなかいい旅をしたと思った。あちこち旅をしてきたけれど、北関東はあんまり歩いていない。関西人あるあるだろう。来年はどこへ行こうか。今回は成田から始めたが、同じパターンで佐野あたりまで来ておいて、早暁厄除け大師、そして栃木、足利、桐生、前橋なんてコースがいいんじゃないか。若いころ萩原朔太郎にはまったことがある。渡良瀬橋の上で森高千里も歌おう。そんな鬼が笑うようなことをぼんやりと考えていたら、そのあとすぐ新型コロナウィルスが世界を席巻してしまった。
生活が、変わった。
あれから長らく、外で呑むということをしていない。宴席ではなく一人で呑む、あるいは同居人となら問題ないだろうけれども、それならわざわざ出かけなくてもいい。そして「ウィルス家に持ち込みたくない脳」をぼんやりと外向けに匂わせる。いやーもう何年も外で呑んでないよ。
こうした「過剰に恐れる馬鹿なオヤジ」という緩いアピールが、歯止めになる。いまや緊急事態宣言の頃のような雰囲気は全くなく、普通にあちこちで宴会は行われているが、そういう席には元来行きたくないのであって、うまく断る口実ともなっている。この歳になって、今更コミュニケーションをはからずともよく、嫌われたり陰口を叩かれてももう何も支障はない。守るべきものは、他にある。
ただ、旅には行きたい。
僕の両親も、妻の両親もまだ健在である。人生90年時代。永らえてくれているのは有難いことだが、疾患だらけの高齢者がコロナ禍を迎えるというのも、なかなか大変である。
妻は年に2回は帰省していたが、それも出来ない。感染の心配もさることながら、田舎には「村人の視線」というものがある。おいそれとは行けないのだ。
僕と田舎の義兄で相談して、リモート環境を整えた。なので週に一度は、母娘がテレビ電話で話している。しかしそういうことを続けると、つのる思いもまた増幅したりするのはわかる。歳を重ねれば気弱にもなる。生きてるうちにはもう会えないのかい?
とうとう妻は帰省を決断した。そして、正月でも盆でもないシーズンオフに、一人空路で東北へと向かった。直前にPCR検査をして、僕が空港まで車で送り、向こうでは兄に空港に来てもらい、最低限ドアtoドアで。
滞在は半月程度だったが、後からみればちょうど波と波の間だった。うまい時期に動いたと言える。果たして、次はいつになるか。
ところで、「出張」「遠征」「放浪」「流離」などと同様、「帰省」もまた旅の一形態か。さっきは忘れていたな。
僕も旅に出たいのだが。
我慢の限界にきた。
結局、感染は人を媒体にしておこる。なら、人に会わなければよかろう。
個人で旅をするようになって何十年。目的は、他の人と同様に主として観光である。しかしながら、若い頃に有名観光地などはずいぶんと行った。今はむしろ、目的が「素晴らしい風景をみる」ではなく「その場所に立って思いを馳せる」に移行してきている。分類すれば「歴史散策」「文学散歩」か。観光は観光だが、あまり一般には需要がないところを細かく歩いて喜んでいる。時期は問わない。シダレザクラやラベンダーも目的にしていない。写真を撮っているのは石碑や墓がほとんどだ。
前述した旅行においても、例えば藤田東湖生誕の碑の前で佇んでいるのは僕くらいである。同じ碑でも、観光客が行列を作る宗谷岬の日本最北の碑とは様相が全く異なる。また、新年になれば何万人の初詣客でギュウギュウの成田山新勝寺だって、年末の夜明けには僕一人しかいない。梅の咲いていない冬の夕方の偕楽園を歩いているのは僕だけだ。そもそも、そういう旅行をしているのである。
あとは、列車に乗らずに自家用車で(ガソリンはしっかり消毒してセルフで)、「土地のうまいものと酒」さえ切り捨ててしまえば、いくらでも旅はできるのではないか。
そうして僕はシーズンオフ、車に食料と酒と自炊道具と布団を積み、2泊3日のショートトリップに出た。
夜明け前、大阪湾に沿うように南下した。堺をすぎ、早朝の和泉国一宮の大鳥神社に参拝して、観光を始める。泉大津のロシア人墓地などは、あまり人も来ない。岸和田城を車中から眺め、いくつか古墳を過ぎて、泉佐野の樫井古戦場跡へ。ここには塙団右衛門の墓もある。
和歌山に入り、加太の深山砲台跡へとゆく。ここが、本日の午前中のメイン。友が島の砲台は有名だが、こちらは比較的マイナーである。しかし壮観。細やかに見て歩く。
淡島神社にも立ち寄ろうとしたが人が多そうに見えたのでパスし、今度は山に向かって進路をとる。
伊太祁󠄀曽神社や粉河寺などあちこち寄りつつ、高野山の麓まできた。
九度山の眞田庵は2度目なので一瞥にとどめ、慈尊院や丹生酒殿神社などに時間をとり、そこから山へ。丹生都比売神社(ここの板碑は見たいと思っていた)を経由して、高野山の結界の中へと入る。
高野山は2度目なのだが、以前来た時には宝物館を中心にした寺院観光だったため、今回はじっくり歩いてみたかった。有難いことに、高野山には参拝客向けの大型駐車場がいくつもある。清潔なトイレもある。そこに車を止め、車中泊とする。連泊の予定。
日も暮れたころ、持参した酒を飲み、缶詰などをいくつも空けて一人宴会。この旅行では飲食店はもちろん、スーパーにさえ寄る予定はない。ちょっと徹底してみようと思った。まあね、高野山の町に泊まる人はだいたいが宿坊であり、夜の飲食店は少ない。酩酊して就寝。
翌朝。夜明け前から読経が聞こえてくる。さすが高野山。僕は湯を沸かし、一杯のコーヒーを喫する。この時間が本当に好き。
夜が完全に明けたら高野山の町を歩き回る。史跡だけではなく、人々が暮らす路地などにも入りこんでみる。山頂の台地がそのままひとつの自治体であり、小中高大と学校が揃い、数々の寺院が中心ながら、生活の色も濃く、なんだか離島を旅しているような感覚になる。楽しい。比叡山延暦寺とはそこが違う。
半日は、奥の院の墓石群で過ごす。ここは飽きない。時間を忘れる。日が暮れるまでずっと墓を巡り続ける。
翌日。行きは和泉、和歌山経由だったので帰りは河内経由。千早赤阪村の楠木正成関係の史跡や、西行終焉の地弘川寺などあちこちを回り、夕刻には自宅へ戻った。
接触無しでも旅は可能だな。確かにガス以外金はつかっていないし、料金のかかる施設にも入っていない。経済を回す、というGoTo的視点でゆけばけしからんと言われるだろうが、そもそも平時の旅とやってることはあまり変わらないし、申し訳ないが日本経済の為に旅に出たいわけでもない。
困ったことは、風呂に入れないことくらい。たいていは一日の観光が終われば、どこかの温泉に寄ってあふうぅぅ…というのが楽しみだったのだが、それを今回は省いた。濡れタオルで体を拭けばそれなりにさっぱりはするが、物足りない。
それ以外は、だいたい満足である。いい旅をした。
調子に乗った僕は、また旅に出た。今度は丹後半島を中心として2泊3日。これも前回同様、非接触を旨とした旅である。
立ち寄っているところは、山椒大夫の安寿姫の塚とか、静御前生誕の地とか、細川ガラシャ夫人の幽閉地とか。全然他の観光客と出会わない。
しかしマイナー観光地(失礼)だけではない。丹後最大の景勝地である「日本三景」天橋立にも、実は行った。
結局これも、方法と時間帯なのである。天橋立といえば「股のぞき」であり、たいていの観光客は山に登る。そして、観光スポットは駅のある南西側に集中している。日本三文殊である智恩寺があり、大天橋が架かる。それに付随して門前町があり、旅館が林立し土産物屋が並ぶ。
股のぞきは昔やったことがあるのでパスし、日も暮れたあと、逆の北東側、籠神社のあたりからアプローチした。大砂州の根もとあたりに小さな駐車場があり、そこで一夜を明かした。
そして早朝。天橋立縦断ウォーキングを試みた。約3.6km。朝5時から歩いている人などいない。さわやかな松並木の散歩。この巨大砂州は、日本の道100選ともなっている。また砂州の途中に鎮座する橋立明神の脇には、名水100選の「磯清水」もある。
小一時間かけて大天橋を渡り智恩寺まで来ても、6時くらい。それでもさすが日本三景、ぼつぼつ観光客が姿を見せてきた。頃合いになったので、僕は踵を返して戻った。
「非接触」「感染防止策の徹底」などと大上段に構えずとも、こんな旅ならなんら問題はない、と思う。前述したように、もともとの今の僕の旅のスタイルを大きく変えているわけではない。そもそも日常生活のほうがよっぽど感染機会が多く、危険といえる。
メシと風呂だけは少し難ではあるが、2度目の旅は、買い出しを解禁した。高野山の旅は山上2泊だったが、今度は日本海沿岸2泊である。スーパーで刺身くらいは買う。やっぱり新鮮なものはうまい(笑)。食べているのはもちろん車中である。
こんなふうに、自分の交通手段を用いての旅だと、ほぼリスクは回避できる。だが、電車に乗って自由に旅をする、というところまでは、まだリスク無しには難しい。
もうひとつ、考えることがある。
「旅と旅行とは違う」と同じ文脈で語られることが多い言説がある。曰く、
「旅ってやっぱり出会いだよ」
出会い。もちろん広義には「素晴らしい風景に出会う」「おいしいものに出会う」なども含まれるだろうが、意味合いの大半は、人との出会いを指すだろう。うざい旅人なら「出逢い」と書けとか言うだろう。
僕も、旅の中での人との出会いについては、数多くの思い出をブログ内で書いている。
幾多の場面で、いろんな人に助けられたし、いろんな人と笑ったし、いろんな人と語り合った。それは人生においてかけがえのない追憶として今も胸に生きている。人生が思い出の集合体であるとするならば、旅における彼の人たちとの出会いがもしも無かったとすれば、僕の人生なんて本当にスカスカだったろう。現実的に見ても、今の妻とも出会ったのは旅の空の下であり、旅がなければ人生そのものが別のものになっていたはずだ。
利己的に言えば、今の僕にはもう特に出会いは必要ない。ひとり旅であれば、ここ何年も非接触の旅をしていたのと同じだった。もうこの歳になれば、寂しくもない。むしろ気楽であって、誰とも出会わない旅を謳歌していた。なので、コロナ禍においても少しの修正と考え方の変更によってなんとかなった。
しかし、もしも僕の青春時代がコロナ禍だったとすれば。
本当にゾッとする。もちろんこれは旅行に限ったことではなく、旅行をしなくとも青春時代は大きく形を変えていただろうし、また「もしも僕の青春時代が戦時下だったなら」などというifとも通じるものがあるが、今の若者はどう思って日々を過ごしているのだろうか。
無論のこと、今の若い人の価値観は僕とは異なるだろうし、また若者にも多様性がある。さらに時代が違う。「もしも僕の青春時代にスマホとネット環境があったなら」というifも考えたくなる。でも可能性が狭められているのは間違いない。なんとか充実した青春を送ってくれ、と切に願う。
もはや、もとの世界に戻ることはないのだろうか。なんだか、今の様相をみていると絶望的な気もしている。検査の充実と、インフルエンザにおけるタミフルのような特効薬があれば、とは思うが、同じコロナウィルスである風邪の特効薬もないのにこれは相当に難しい。おそらく、なし崩し的にこのまま日常を取り戻したふりをして生きていくのだろう。
思い切り利己的に考えれば、家族の内臓疾患が寛解し、さらに身内から高齢者がいなくなったときが、ひと段落なのだろう。しかし、その頃には僕も高齢者になっているような。さすれば、自らを切り捨てる哲学を持たなくてはならなくなる。
電車に乗って駅弁を食べたり酒を呑んだりすることが、何か人に影響を及ぼす可能性のない世の中に、いつかは戻ってほしい、と願っている。空を見上げてため息ひとつ。
もう会えないと思っていた旧友に再び巡り会えて衝動的に投稿します。
堀内孝雄「忘れな詩」を偶然見つけたのが5年ほど前だったか。以来,過去に遡って一話一話味わってきました。一度に読むのはもったいなくて,一日一話自分のあの頃と重ね合わせるといろんな場面や人の顔が浮かんできてせつない思いになりました。
長らく中断していたので失礼ですがもう再開は無理かなと思っていましたが,7年ぶりのブログを見つけてご健在を知りました。
無理のないペースで発信していただけるのを心待ちにしています。