江藤新平の人物像など簡単に語れるほど勉強もしていないし、とても言及など出来ないのだが、それを承知で、僕はこの人が嫌いではない。もちろん現代に生きていたとしても親しみが沸くわけでもないしとても友達にはなれないとは思うが。
巷間言われるところによれば、彼は理念先行であり融通が利かない印象がある。だが、それほど策を弄せる人物ではなかったのではないか。その征韓論抗争の中で西郷を担いだのも、「薩摩閥分断」を謀ったのだろうと言われるが、そこまで考えていなかったようにも見える。大久保の政権構想とは著しく異なる部分はあって、彼に政権を主導させたくないという意識は十分に持っていたとは思うが、それがために西郷を持ち上げた、とはなんだか思えないのだ。そういう派閥抗争などには無頓着だったのではないか。
同様に、司法制度を確立させたのも、長州閥の汚職(井上馨の尾去沢銅山や山県有朋の山城屋事件)を摘発ないしは追及しようとしたのだ、との意見もあるが、そうではなかろう。もしも佐賀閥の要人に汚職疑惑があればかまわず摘発したに違いない。単純に「曲がったことが大嫌い」ではなかったのか。
自身は清廉潔白であったと思うし、清濁併せ呑むという政治家に必要な資質がなかったためにああいう末路となってしまったのではないかと思っている。極めて優秀な人物だったと思う。こういう人物を使いこなせる度量のある人物が首班として政権運営出来ればよかったのだが。
方向性としては、民権重視志向であったと思う。四民平等に尽力し、民法典編纂に力を注ぎ、司法の独立を目指した。その民権思想家で文官だった江藤が、士族蜂起の旗頭となって擁立されてしまうというのも実に皮肉な歴史の流れである。
板垣退助という人物は、そもそも軍人であり戊辰戦争で司令官として大いに名を上げ、明治政府に土佐藩閥を作る基となった。軍人的素養は大いにあったとされ、征韓論の場でも派兵を主張したことで知られる。これだけを捉えれば、在野の大物では最も武力蜂起に近い人物のように思えるのに、実際はこの板垣が、日本の自由民権運動を推進していく原動力となるのであるから、これも皮肉と言えば皮肉である。
征韓論を葬った明治六年の政変の後に、士族の武力蜂起と民権運動の流れが同時に起こってくるが、これはもしかしたら表裏一体のものではなかったのだろうか。字面だけ追えば全く反対の思想のように(少なくとも現代的視点で見れば)思えるが、これは方法論が違うだけで根のところでは繋がってくるのではないだろうか。
ちょっと乱暴な話になってしまった。
佐賀の乱に始まる士族の武力蜂起と、自由民権運動には共通の敵が居た、と考えれば、少し繋がりが見えてくる。その敵とは、有司専制を敷く明治政府であり、特に明治六年の政変の後、独裁政権を担った大久保利通ということになる。
士族、特に官軍側士族に不満が鬱積するのはよく理解できる。倒幕のために頑張ったのに、廃藩置県により失業させられ、そして四民平等の政策の下、武士という身分も失った。廃刀令はその象徴である。特権は徐々に失われ、後に秩禄処分というリストラも待っていた。また、徴兵令によって、さむらいとしての矜持も奪われたとも言える。
この「明治維新」という名の革命は、幕府を薩長が倒すということによって成し遂げられたものであり、敗れたのも支配階級であるなら勝利したのも支配階級という構造であったことは以前にも書いた。その支配階級による政府が廃藩置県や四民平等という「勝利者である支配者階級」潰しをやらなければならなかったところに、壮大な矛盾が生じてしまうことは自明であったとも言える。
俺たちは革命戦争に勝ったのに何故冷や飯を食わされなくてはいけないんだ。この思いが明治政府、特に大久保に集中したと言ってもいい。
こういう状況を見ると、大久保というのはよく耐えたなと感嘆の思いも浮かぶ。その使命感と責任感を支えていたものはなんだったのだろうか。国を植民地にしたくないとの一念だったのだろうか。権力欲だけでは計り知れない。
ともかくも、単純に考えれば大久保の有司専制を「あいつらだけおいしい目をしやがって」と恨む一群が士族蜂起に繋がる。
さて、自由民権運動である。この運動とはいったい何か。
民権思想というものは、幕末よりずっと存在している。江藤新平も民権思想に傾斜していたことは前述した。その思想が具体化するのは、明治六年の政変のすぐ後である。明けて七年正月、下野した板垣ら前参議たちは、政治結社「愛国公党」を結成する。
後藤象二郎は、そもそも坂本龍馬とともに大政奉還の立役者であり、公議政体論を主眼としていた。もともと議会制政治推進の中心人物であったとも言える。その後藤の下に、イギリス留学で議会制を研究して帰った古沢滋(土佐)と小室信夫(徳島)が出入りしており、板垣退助にこの二名を紹介した。この両名の意見を取り入れ、板垣は政党結成を考えるのである。
この愛国公党は、結成すると即座に「民撰議院設立建白書」を提出する。
建白に名を連ねたのは、板垣、後藤、古沢、小島以外に、江藤新平、副島種臣、由利公正、岡本健三郎の8名。西郷を除く下野した参議4名とブレーンの2名の他に由利(つまり三岡八郎)と岡健。これらの名前を見ると、どうしても坂本龍馬を思い出してしまう。龍馬はんが存命であれば、この名簿のトップに居ただろうか。それとも、こんな建白書を出さずとも既に政府を議会制民主主義体制にしていただろうか。
感慨はともかく、自由民権運動の端緒も、経緯を見ると結局これも「反有司専制」「反大久保」であったことがわかる。士族挙兵と同じ動機だ。
但し、その「民撰議院設立建白書」は高邁なものである。
「夫人民、政府ニ対シテ租税ヲ払フノ義務アル者ハ、乃チ其政府ノ事ヲ与知可否スルノ権理ヲ有ス。是天下ノ通論…」
ここに謳われている事柄は現代でも十分通用する。完全な「民権」である。士族も平民もなんも関係ない。納税者は政治に口出しできるはずだ、という論理。
ただ、「今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司ニ帰ス」と有司専制を批判し、それじゃいかんのだと繰り返す。根底に「反大久保」が貫かれている。しかし「お前じゃダメだ引っ込め」では全く説得力がないために、高邁な民権論を持ってきたとの見方も出来る。
建白したのは士族である。しかしこの時点では建前は四民平等であり、士族が建白したからと言って「士族寄り」と一概には言えないところがミソなのでは、とも思う。
(よくよく考えてみればこの時点ではまだ「所得税」の概念もなく、税は地租、つまり農民に完全に頼っており、商工業者や士族は納税者ではないとの見方も成り立つので面白いのだが。士族は秩禄から天引きも行われたので納税しているとの見方も出来るが、ありゃ天引きと言うより引き下げとも言えるので、納税者かどうか…)
さて、有司専制に対する反政府運動は、士族蜂起と民権運動が大きなものだが、もうひとつの核を忘れることが出来ない。一揆である。
一揆は農民の蜂起であり、徴兵令、学制、太陽暦なども反対の対象ではあったが、特に地租改正反対一揆がかなりの勢力を擁した。このことについて僕は教科書以上の知識を持たなかったのだけれども、ちょっと調べて驚いてしまった。相当な広範囲である。実数は掌握しにくいのだが、もっとも凄かったとされる明治九年の伊勢暴動は、東海各地に飛び火し鎮台兵が出動、処分者だけで五万人を超えている。
実際地租改正は、税制としては不十分な制度であり、幕藩時代と比較しても税の軽減にはならず農民には不条理であったと言える。また金納であり米価が下がるとさらに負担増となる。民衆運動の壮大なうねりが起ころうとしていた。
この動きは、一部自由民権運動と結びつく。この連携は組織化を孕み、各地で一斉蜂起の可能性も有り得た。木戸孝允は「一揆の竹槍は士族の刀よりも恐ろしい」と警戒感をありありと述べている。
これらの反政府活動は、連携して起これば間違いなく政府を転覆させるだけの力を秘めていたと言えよう。第二革命の萌芽は確実に存したのである。
だが、これらは一斉蜂起することなく、最終的に鎮火してしまった。何故か。
統合する核が無かったからである。
フランス革命に擬してはかえって話がややこしくなるかもしれないが、革命の道筋は多少似ている。日本の倒幕、戊辰戦争と同様、フランスも王政打破を叫び国民会議が人権宣言を採択、革命政権が樹立される。しかし、ルイ16世をギロチンにかけた革命政府は、ジロンド派とジャコバン派が対立し、権力を握ったジャコバン派が独裁恐怖政治をしいた。日本でも明治六年の政変で征韓論派が下野し大久保の独裁が始まった。大久保をロベスピエールに例えては思想が違いすぎるが、道筋はなんとなく似ている。
このロベスピエールは後に倒される。専制政治は行き詰るのだ。人々は新たな指導者を求め、ついにナポレオン・ボナパルトが登場、第一帝政が生まれる。
日本にもこのナポレオンに該当する人物が現れれば、士族蜂起、民権運動、そして農民一揆が連携統合して一大勢力になる可能性があったが、残念ながらナポレオンは出てこなかった。江藤新平や前原一誠、板垣退助では求心力に欠けたのだ。
もちろん、僕が何を書こうとしているのかはもう分かっていただけていると思うが、日本にもナポレオンに相当する人物は居たのである。陸軍大将西郷隆盛。かの御仁が動けば日本はひっくり返る、と。
西郷は、明治六年以来、反政府運動を展開する全ての人々の希望の星であったことはまず間違いない。皆「大西郷起ちせば」と考えていた。虚像崇拝的な部分もあったにせよ。
だが、結果として西郷は最後まで起たなかった。
板垣は、自由民権運動を発足させる際に、西郷を誘っている。これに対し西郷は冷たく断ったという。
これは、従来の説明だと、西郷は武闘派であり、言論での打倒政府には興味がなかったのが原因、とされているが、本当だろうか。士族蜂起も自由民権も根のところでは同じであり、現に江藤新平も建白に名を連ねている。西郷が民権に理解を示さなかったという説もあるが、留守政府の首班として開化路線を走った西郷が全くの士族偏重、議会否定であったとも思えない。廃藩置県にも直ぐに賛成し、徴兵令にも理解を示したのに。この拒絶には何の意味があるのか。
また、士族蜂起にも全く呼応しない。皮切りは江藤新平の「佐賀の乱」であるが、これを全くの見殺しにする。江藤は戦い敗れた後、西郷を頼って鹿児島まで逃げるが、これを冷たく突き放す。江藤は大久保によって梟首という法治国家としては考えられない刑に処される。
江藤は何故西郷を頼ったのか。何故西郷が呼応してくれると信じたのか。
それは、当時西郷が鹿児島に軍事政権を布いていたからであると見ていいだろう。鹿児島は、当時中央政府に全く応じておらず武装解除もしていない。後に「鹿児島私学校」が設立され、それは県庁の上位にあり、地租改正も無視した一種の独立国の様相を呈する。いつでも西郷は起てる準備をしていたのだ。
ここで、ちょっとだけ言葉遊びをしてみたい。
西郷隆盛は、政府から下野する以前は、参議であり、兼近衛都督・陸軍大将であった。近衛都督とは廃藩置県の時に国軍として組織された親兵の発展系である近衛兵の統括者である。宮城護衛の役割を持つ。まず古来の官職に例えれば近衛大将であろう。
そして陸軍大将というのは、後に言う陸軍の階級のひとつではない。この当時は日本でたった一人であり、西郷のために作られた役職であったと言ってもいい。日本国軍全てを統括し得る特別職である。これはつまり、武士の総大将である征夷大将軍に該当すると言っていい。
西郷は、下野するとき(つまり参議を辞任するとき)、近衛都督と陸軍大将も辞任を申し出た。しかし、政府は参議と近衛都督辞任は受理したものの、陸軍大将は辞職を許さず、西郷は陸軍大将現職のまま鹿児島へ帰った。
この経歴を見て、どうしても思い出す事柄がある。源頼朝は、前右近衛大将・征夷大将軍として鎌倉に幕府を開いた。西郷も前近衛都督、陸軍大将である。「遠征軍の司令官が現地で政庁を持つ」ことを幕府の定義とするならば、この鹿児島私学校という名の軍事政権は、まさに幕府ではないのか。
日本の幕府機構の歴史は、平泉幕府に始まり、この鹿児島幕府を最後とする。
もちろん、これはただの言葉遊びであり、こんなことを真面目に主張している人は居ない。僕は実は半分真面目なのだが(その実かなり真面目なのだが)、一応笑ってすませておく。私学校は遠征軍ではないではないか、と反論が当然あるだろうが、僕は実は遠征軍であったと思っている。
閑話休題。
士族蜂起は、一種のモグラ叩きであったと言える。一斉に起これば当然政府は対応しきれなかったと考えられるが、これは少しづつ起こるためにその度政府軍に鎮圧される。神風連の乱。秋月の乱。萩の乱。まだおこる可能性もあったが未然に防がれている。
神風連の乱を除き、これらの士族蜂起は皆西郷挙兵をあてにしていたと言ってもいい。西郷は今度こそ呼応してくれるのではないかと。しかし、西郷は全く動かなかった。
何故西郷は動かなかったのか。通説では「時期を見ていた」「雌伏していた」と言われる。しかし、いったい何の時期を見ていたのか。残念ながら満足いく解説に出会ったことがない。
しかし、西郷は確かに時期を待っていたのだ、と僕も考えている。その時期とはいったい何か。
次回、最終話。西南の役。
巷間言われるところによれば、彼は理念先行であり融通が利かない印象がある。だが、それほど策を弄せる人物ではなかったのではないか。その征韓論抗争の中で西郷を担いだのも、「薩摩閥分断」を謀ったのだろうと言われるが、そこまで考えていなかったようにも見える。大久保の政権構想とは著しく異なる部分はあって、彼に政権を主導させたくないという意識は十分に持っていたとは思うが、それがために西郷を持ち上げた、とはなんだか思えないのだ。そういう派閥抗争などには無頓着だったのではないか。
同様に、司法制度を確立させたのも、長州閥の汚職(井上馨の尾去沢銅山や山県有朋の山城屋事件)を摘発ないしは追及しようとしたのだ、との意見もあるが、そうではなかろう。もしも佐賀閥の要人に汚職疑惑があればかまわず摘発したに違いない。単純に「曲がったことが大嫌い」ではなかったのか。
自身は清廉潔白であったと思うし、清濁併せ呑むという政治家に必要な資質がなかったためにああいう末路となってしまったのではないかと思っている。極めて優秀な人物だったと思う。こういう人物を使いこなせる度量のある人物が首班として政権運営出来ればよかったのだが。
方向性としては、民権重視志向であったと思う。四民平等に尽力し、民法典編纂に力を注ぎ、司法の独立を目指した。その民権思想家で文官だった江藤が、士族蜂起の旗頭となって擁立されてしまうというのも実に皮肉な歴史の流れである。
板垣退助という人物は、そもそも軍人であり戊辰戦争で司令官として大いに名を上げ、明治政府に土佐藩閥を作る基となった。軍人的素養は大いにあったとされ、征韓論の場でも派兵を主張したことで知られる。これだけを捉えれば、在野の大物では最も武力蜂起に近い人物のように思えるのに、実際はこの板垣が、日本の自由民権運動を推進していく原動力となるのであるから、これも皮肉と言えば皮肉である。
征韓論を葬った明治六年の政変の後に、士族の武力蜂起と民権運動の流れが同時に起こってくるが、これはもしかしたら表裏一体のものではなかったのだろうか。字面だけ追えば全く反対の思想のように(少なくとも現代的視点で見れば)思えるが、これは方法論が違うだけで根のところでは繋がってくるのではないだろうか。
ちょっと乱暴な話になってしまった。
佐賀の乱に始まる士族の武力蜂起と、自由民権運動には共通の敵が居た、と考えれば、少し繋がりが見えてくる。その敵とは、有司専制を敷く明治政府であり、特に明治六年の政変の後、独裁政権を担った大久保利通ということになる。
士族、特に官軍側士族に不満が鬱積するのはよく理解できる。倒幕のために頑張ったのに、廃藩置県により失業させられ、そして四民平等の政策の下、武士という身分も失った。廃刀令はその象徴である。特権は徐々に失われ、後に秩禄処分というリストラも待っていた。また、徴兵令によって、さむらいとしての矜持も奪われたとも言える。
この「明治維新」という名の革命は、幕府を薩長が倒すということによって成し遂げられたものであり、敗れたのも支配階級であるなら勝利したのも支配階級という構造であったことは以前にも書いた。その支配階級による政府が廃藩置県や四民平等という「勝利者である支配者階級」潰しをやらなければならなかったところに、壮大な矛盾が生じてしまうことは自明であったとも言える。
俺たちは革命戦争に勝ったのに何故冷や飯を食わされなくてはいけないんだ。この思いが明治政府、特に大久保に集中したと言ってもいい。
こういう状況を見ると、大久保というのはよく耐えたなと感嘆の思いも浮かぶ。その使命感と責任感を支えていたものはなんだったのだろうか。国を植民地にしたくないとの一念だったのだろうか。権力欲だけでは計り知れない。
ともかくも、単純に考えれば大久保の有司専制を「あいつらだけおいしい目をしやがって」と恨む一群が士族蜂起に繋がる。
さて、自由民権運動である。この運動とはいったい何か。
民権思想というものは、幕末よりずっと存在している。江藤新平も民権思想に傾斜していたことは前述した。その思想が具体化するのは、明治六年の政変のすぐ後である。明けて七年正月、下野した板垣ら前参議たちは、政治結社「愛国公党」を結成する。
後藤象二郎は、そもそも坂本龍馬とともに大政奉還の立役者であり、公議政体論を主眼としていた。もともと議会制政治推進の中心人物であったとも言える。その後藤の下に、イギリス留学で議会制を研究して帰った古沢滋(土佐)と小室信夫(徳島)が出入りしており、板垣退助にこの二名を紹介した。この両名の意見を取り入れ、板垣は政党結成を考えるのである。
この愛国公党は、結成すると即座に「民撰議院設立建白書」を提出する。
建白に名を連ねたのは、板垣、後藤、古沢、小島以外に、江藤新平、副島種臣、由利公正、岡本健三郎の8名。西郷を除く下野した参議4名とブレーンの2名の他に由利(つまり三岡八郎)と岡健。これらの名前を見ると、どうしても坂本龍馬を思い出してしまう。龍馬はんが存命であれば、この名簿のトップに居ただろうか。それとも、こんな建白書を出さずとも既に政府を議会制民主主義体制にしていただろうか。
感慨はともかく、自由民権運動の端緒も、経緯を見ると結局これも「反有司専制」「反大久保」であったことがわかる。士族挙兵と同じ動機だ。
但し、その「民撰議院設立建白書」は高邁なものである。
「夫人民、政府ニ対シテ租税ヲ払フノ義務アル者ハ、乃チ其政府ノ事ヲ与知可否スルノ権理ヲ有ス。是天下ノ通論…」
ここに謳われている事柄は現代でも十分通用する。完全な「民権」である。士族も平民もなんも関係ない。納税者は政治に口出しできるはずだ、という論理。
ただ、「今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司ニ帰ス」と有司専制を批判し、それじゃいかんのだと繰り返す。根底に「反大久保」が貫かれている。しかし「お前じゃダメだ引っ込め」では全く説得力がないために、高邁な民権論を持ってきたとの見方も出来る。
建白したのは士族である。しかしこの時点では建前は四民平等であり、士族が建白したからと言って「士族寄り」と一概には言えないところがミソなのでは、とも思う。
(よくよく考えてみればこの時点ではまだ「所得税」の概念もなく、税は地租、つまり農民に完全に頼っており、商工業者や士族は納税者ではないとの見方も成り立つので面白いのだが。士族は秩禄から天引きも行われたので納税しているとの見方も出来るが、ありゃ天引きと言うより引き下げとも言えるので、納税者かどうか…)
さて、有司専制に対する反政府運動は、士族蜂起と民権運動が大きなものだが、もうひとつの核を忘れることが出来ない。一揆である。
一揆は農民の蜂起であり、徴兵令、学制、太陽暦なども反対の対象ではあったが、特に地租改正反対一揆がかなりの勢力を擁した。このことについて僕は教科書以上の知識を持たなかったのだけれども、ちょっと調べて驚いてしまった。相当な広範囲である。実数は掌握しにくいのだが、もっとも凄かったとされる明治九年の伊勢暴動は、東海各地に飛び火し鎮台兵が出動、処分者だけで五万人を超えている。
実際地租改正は、税制としては不十分な制度であり、幕藩時代と比較しても税の軽減にはならず農民には不条理であったと言える。また金納であり米価が下がるとさらに負担増となる。民衆運動の壮大なうねりが起ころうとしていた。
この動きは、一部自由民権運動と結びつく。この連携は組織化を孕み、各地で一斉蜂起の可能性も有り得た。木戸孝允は「一揆の竹槍は士族の刀よりも恐ろしい」と警戒感をありありと述べている。
これらの反政府活動は、連携して起これば間違いなく政府を転覆させるだけの力を秘めていたと言えよう。第二革命の萌芽は確実に存したのである。
だが、これらは一斉蜂起することなく、最終的に鎮火してしまった。何故か。
統合する核が無かったからである。
フランス革命に擬してはかえって話がややこしくなるかもしれないが、革命の道筋は多少似ている。日本の倒幕、戊辰戦争と同様、フランスも王政打破を叫び国民会議が人権宣言を採択、革命政権が樹立される。しかし、ルイ16世をギロチンにかけた革命政府は、ジロンド派とジャコバン派が対立し、権力を握ったジャコバン派が独裁恐怖政治をしいた。日本でも明治六年の政変で征韓論派が下野し大久保の独裁が始まった。大久保をロベスピエールに例えては思想が違いすぎるが、道筋はなんとなく似ている。
このロベスピエールは後に倒される。専制政治は行き詰るのだ。人々は新たな指導者を求め、ついにナポレオン・ボナパルトが登場、第一帝政が生まれる。
日本にもこのナポレオンに該当する人物が現れれば、士族蜂起、民権運動、そして農民一揆が連携統合して一大勢力になる可能性があったが、残念ながらナポレオンは出てこなかった。江藤新平や前原一誠、板垣退助では求心力に欠けたのだ。
もちろん、僕が何を書こうとしているのかはもう分かっていただけていると思うが、日本にもナポレオンに相当する人物は居たのである。陸軍大将西郷隆盛。かの御仁が動けば日本はひっくり返る、と。
西郷は、明治六年以来、反政府運動を展開する全ての人々の希望の星であったことはまず間違いない。皆「大西郷起ちせば」と考えていた。虚像崇拝的な部分もあったにせよ。
だが、結果として西郷は最後まで起たなかった。
板垣は、自由民権運動を発足させる際に、西郷を誘っている。これに対し西郷は冷たく断ったという。
これは、従来の説明だと、西郷は武闘派であり、言論での打倒政府には興味がなかったのが原因、とされているが、本当だろうか。士族蜂起も自由民権も根のところでは同じであり、現に江藤新平も建白に名を連ねている。西郷が民権に理解を示さなかったという説もあるが、留守政府の首班として開化路線を走った西郷が全くの士族偏重、議会否定であったとも思えない。廃藩置県にも直ぐに賛成し、徴兵令にも理解を示したのに。この拒絶には何の意味があるのか。
また、士族蜂起にも全く呼応しない。皮切りは江藤新平の「佐賀の乱」であるが、これを全くの見殺しにする。江藤は戦い敗れた後、西郷を頼って鹿児島まで逃げるが、これを冷たく突き放す。江藤は大久保によって梟首という法治国家としては考えられない刑に処される。
江藤は何故西郷を頼ったのか。何故西郷が呼応してくれると信じたのか。
それは、当時西郷が鹿児島に軍事政権を布いていたからであると見ていいだろう。鹿児島は、当時中央政府に全く応じておらず武装解除もしていない。後に「鹿児島私学校」が設立され、それは県庁の上位にあり、地租改正も無視した一種の独立国の様相を呈する。いつでも西郷は起てる準備をしていたのだ。
ここで、ちょっとだけ言葉遊びをしてみたい。
西郷隆盛は、政府から下野する以前は、参議であり、兼近衛都督・陸軍大将であった。近衛都督とは廃藩置県の時に国軍として組織された親兵の発展系である近衛兵の統括者である。宮城護衛の役割を持つ。まず古来の官職に例えれば近衛大将であろう。
そして陸軍大将というのは、後に言う陸軍の階級のひとつではない。この当時は日本でたった一人であり、西郷のために作られた役職であったと言ってもいい。日本国軍全てを統括し得る特別職である。これはつまり、武士の総大将である征夷大将軍に該当すると言っていい。
西郷は、下野するとき(つまり参議を辞任するとき)、近衛都督と陸軍大将も辞任を申し出た。しかし、政府は参議と近衛都督辞任は受理したものの、陸軍大将は辞職を許さず、西郷は陸軍大将現職のまま鹿児島へ帰った。
この経歴を見て、どうしても思い出す事柄がある。源頼朝は、前右近衛大将・征夷大将軍として鎌倉に幕府を開いた。西郷も前近衛都督、陸軍大将である。「遠征軍の司令官が現地で政庁を持つ」ことを幕府の定義とするならば、この鹿児島私学校という名の軍事政権は、まさに幕府ではないのか。
日本の幕府機構の歴史は、平泉幕府に始まり、この鹿児島幕府を最後とする。
もちろん、これはただの言葉遊びであり、こんなことを真面目に主張している人は居ない。僕は実は半分真面目なのだが(その実かなり真面目なのだが)、一応笑ってすませておく。私学校は遠征軍ではないではないか、と反論が当然あるだろうが、僕は実は遠征軍であったと思っている。
閑話休題。
士族蜂起は、一種のモグラ叩きであったと言える。一斉に起これば当然政府は対応しきれなかったと考えられるが、これは少しづつ起こるためにその度政府軍に鎮圧される。神風連の乱。秋月の乱。萩の乱。まだおこる可能性もあったが未然に防がれている。
神風連の乱を除き、これらの士族蜂起は皆西郷挙兵をあてにしていたと言ってもいい。西郷は今度こそ呼応してくれるのではないかと。しかし、西郷は全く動かなかった。
何故西郷は動かなかったのか。通説では「時期を見ていた」「雌伏していた」と言われる。しかし、いったい何の時期を見ていたのか。残念ながら満足いく解説に出会ったことがない。
しかし、西郷は確かに時期を待っていたのだ、と僕も考えている。その時期とはいったい何か。
次回、最終話。西南の役。
ただ、不満が飽和状態になっていたということは言えるのじゃないかと思うのですね。明治七年~九年くらいは。そして情報量の少ない時代ですから、当然矛先は政府にいくんじゃないかと。
私学校は幕府じゃないかという発想を得たのはもうずいぶん昔のことなのですが、それはもちろん言葉遊びに過ぎないことは分かっていても、何故治外法権の軍事政権を所持していたのかということの解釈は、ここ半年くらいの間に自分の中で熟成してきたような気がしています。
大久保がそれをいくら木戸に突き上げられても黙認してきたということは、もしかしたら島津久光との関係だけではないのではないか、と。おっと書きすぎた。以降は次回記事で書いています。
江藤に対する人物評価も大久保に対する評価とっても賛同できます。
そしてフランス革命と明治維新を並列して頭の中で比較してみる。これも私もやってみました。そしてやはりロベスピエールからナポレオンに考えが及んでいく。そこでやっぱり日本にはナポレオンはいなかった、で止まっていたんですよね。
この記事を拝見してほっぺたを叩かれた感じです。
そうか、西郷はナポレオンになりえた……。
このifは西郷と言う人を考える上で手がかりになりますね。
そして鹿児島幕府。
ここまで自分の発想力で歴史を創造できたら楽しいでしょうね~。
つい西南の役、で物事を見てしまいますが鹿児島幕府を念頭に置くと西郷の目指したものがおぼろげに霧の中に霞んで見えてくるような。
しかしホントに凛太郎さんはスゴイ!
感動モノです♪♪♪