「遠い世界に」という歌は誰もが知っていると思う。
遠い世界に旅に出ようか それとも赤い風船に乗って
もはや教科書にも載って久しい。僕の頃はさすがに教科書とまではいかなかったが、合唱コンクールの定番曲であり、先生の指導によってハモリパートに配され、実につまらなかったことを憶えている。だいたい学校でみんなで歌う曲などというのはなんとなしに陳腐な感じがしてしまうものであり、それで名曲を嫌いになってしまう場合がある。もったいない話ではあるのだが。
自分の中で「再評価」されてきたのは、深夜ラジオを聴きだした頃だった。高石ともやさんの番組など、関西という土地柄フォークソングが流れる機会が多く、その中でライブ版の「遠い世界に」が流れた。ボーカルをとっていたのはフー子さん(藤原秀子)ではなくて西岡たかしさんだった。
普通に流布しているオートハープが奏でられるバージョンと違って実に静かに歌われていて、じんわりと胸に沁みた。ああ「遠い世界に」は、こんなにいい曲だったのか。
力をあわせて生きる事さえ 今ではみんな忘れてしまった
だけど僕たち 若者がいる
青春時代にはこういうのが琴線に触れるのである。それから僕は五つの赤い風船を聴きだした。
「五つの赤い風船」は1967年に結成されている。僕は2歳だ(汗)。西岡たかしさんと中川イサトさんが中心となって活動を開始した。
当時は安保闘争そして反戦フォークの時代。岡林信康さんらが活躍する中で、さほど反戦色を全面に出さずむしろ若者の生き方、恋することなどもテーマとして唄っていたように思う。今となってはその方が馴染み深さが出る。「まぼろしの翼とともに」「遠い空の彼方に」などの反戦歌ももちろんあるが、そういう歌もストレートではなくもっと翻弄される若者の心情を唄っていたように思う。「明日はきっと晴れておくれ!」と暗い世界に向けて叫んだ(てるてる坊主)。1972年解散。その間に数々の名曲を生んだ。
荒い風に吹かれても続くこの道を僕らの若い力で歩いてゆこう
今も昔も変わらないはずなのに何故こんなに遠い…(これが僕らの道なのか)
それは私のこのくにの歌 既に私に甦るときを待って
私は出よう この汽車に乗って 私の生まれた街をあとに… (母の生まれた街)
「花と空に…」は70年代終わりに一度再結成されたときの曲だった。なんとも切ない歌だった。
後に北海道を旅するようになったときにもこの曲は旅人の間で歌い継がれていて、真っ青な北の大地の空とまたオーバーラップして印象深いものになっている。
優しさを見せるために 髪を長くしたのなら
優しさは心のもの 顔やかたちではつくれない
青春の深層は傷つきやすい。当時遅ればせながら恋をしたりして青春の真っ只中にいた僕も、人の心を知ることはなんて難しいことだろう…などと悩み暮らしていた。人の心とは…。
人はみんな外見を取り繕ろい心を曝け出そうとはしない。でも、それは人を傷つけないための思いやりなのか。だとしたら、人の本当の心を知ることは傷つくために知るのだろうか。
実に青かった。
大空の青さだって人の作ったものじゃなくて
青空は心の中に生き続けてゆくものでしょうか
五つの赤い風船は2000年にまた再結成した。TVで見る西岡たかしさんはもう老年(ごめんなさい)の風貌だが、気骨は全く衰えていないような気がする。いつまでも名曲を歌い続けていって欲しい。
遠い世界に旅に出ようか それとも赤い風船に乗って
もはや教科書にも載って久しい。僕の頃はさすがに教科書とまではいかなかったが、合唱コンクールの定番曲であり、先生の指導によってハモリパートに配され、実につまらなかったことを憶えている。だいたい学校でみんなで歌う曲などというのはなんとなしに陳腐な感じがしてしまうものであり、それで名曲を嫌いになってしまう場合がある。もったいない話ではあるのだが。
自分の中で「再評価」されてきたのは、深夜ラジオを聴きだした頃だった。高石ともやさんの番組など、関西という土地柄フォークソングが流れる機会が多く、その中でライブ版の「遠い世界に」が流れた。ボーカルをとっていたのはフー子さん(藤原秀子)ではなくて西岡たかしさんだった。
普通に流布しているオートハープが奏でられるバージョンと違って実に静かに歌われていて、じんわりと胸に沁みた。ああ「遠い世界に」は、こんなにいい曲だったのか。
力をあわせて生きる事さえ 今ではみんな忘れてしまった
だけど僕たち 若者がいる
青春時代にはこういうのが琴線に触れるのである。それから僕は五つの赤い風船を聴きだした。
「五つの赤い風船」は1967年に結成されている。僕は2歳だ(汗)。西岡たかしさんと中川イサトさんが中心となって活動を開始した。
当時は安保闘争そして反戦フォークの時代。岡林信康さんらが活躍する中で、さほど反戦色を全面に出さずむしろ若者の生き方、恋することなどもテーマとして唄っていたように思う。今となってはその方が馴染み深さが出る。「まぼろしの翼とともに」「遠い空の彼方に」などの反戦歌ももちろんあるが、そういう歌もストレートではなくもっと翻弄される若者の心情を唄っていたように思う。「明日はきっと晴れておくれ!」と暗い世界に向けて叫んだ(てるてる坊主)。1972年解散。その間に数々の名曲を生んだ。
荒い風に吹かれても続くこの道を僕らの若い力で歩いてゆこう
今も昔も変わらないはずなのに何故こんなに遠い…(これが僕らの道なのか)
それは私のこのくにの歌 既に私に甦るときを待って
私は出よう この汽車に乗って 私の生まれた街をあとに… (母の生まれた街)
「花と空に…」は70年代終わりに一度再結成されたときの曲だった。なんとも切ない歌だった。
後に北海道を旅するようになったときにもこの曲は旅人の間で歌い継がれていて、真っ青な北の大地の空とまたオーバーラップして印象深いものになっている。
優しさを見せるために 髪を長くしたのなら
優しさは心のもの 顔やかたちではつくれない
青春の深層は傷つきやすい。当時遅ればせながら恋をしたりして青春の真っ只中にいた僕も、人の心を知ることはなんて難しいことだろう…などと悩み暮らしていた。人の心とは…。
人はみんな外見を取り繕ろい心を曝け出そうとはしない。でも、それは人を傷つけないための思いやりなのか。だとしたら、人の本当の心を知ることは傷つくために知るのだろうか。
実に青かった。
大空の青さだって人の作ったものじゃなくて
青空は心の中に生き続けてゆくものでしょうか
五つの赤い風船は2000年にまた再結成した。TVで見る西岡たかしさんはもう老年(ごめんなさい)の風貌だが、気骨は全く衰えていないような気がする。いつまでも名曲を歌い続けていって欲しい。