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「西洋vs東洋」思索し続けた日本人、諸外国にはロングスパンでこういった問いを育んできた国はあるのか?

2024-07-27 | ビッグマウス(砕けた文体)(仮)

日本の思考風土の中には、鎖国の時代、幕末混乱期、西田幾多郎の時代から「西洋vs東洋」といったテーゼを繰り返し繰り返し古くから現代まで問い続けていきましたが、ほかの諸外国、米国や中国については古来からのこういった問いというもので思索する文化が育まれてきているといった話は聞いたことがありません。
外国には、そういった問いというのは果たしてあったのでしょうか?
最近でこそ、日本文化ブームの波で世界は日本に対する問いを相次いで立ててきているといった時流がありますがロングスパンで自国と他国、あるいは自国と世界といったフレームでものを見ている他国の事例を知りたいです。
この例について、アメリカの立ち位置は特殊です。
なにせ80年前戦争をした国ですから相手にとっては憎き敵国ですから動機や文脈は峻厳なものになってしまいますがそういった意味ではシビアに日本というものを研究して問題点を看破したものであろうと察します。
その時の情勢の応時性もあるので、やはりその時点においての一定の結論を出したものだと思いますが、その時点での日本をどこまで見切っていたのか
どう看破したのか、日本の限界は見えていたのか?
そのへんが気になります。
シンガポールやイランなどの国は割と古くから日本に注目してカルチャーを入り口に価値観や社会観にも影響を及ぼしていると聞いたことがあります。
最新の動向は詳しくはわかりませんが思考フレームの軸が
東洋⇔西洋 っていう軸から
日本⇔世界 っていう風に微妙に変化しているなと感じます。
あるいは私が浅学なだけで、個々の国と別の国との歴史的背景や地政学の個別条件いうものも当然あることでしょう。

このテーゼは対立はしているが両価値観を併存して持っていると多くの日本人は自認しています。
外国勢の方々は軸足を自陣営に置いて、対岸の日本の要素をうかがい知る、または極端な神聖視、いいところだけ吸収
…などのように元アイデンティティを毀損しない形態で日本文化を受容しているようですが
日本側の人の受容の仕方は両方とも等価で単純に思考フレームの種類が2倍に増えたという選択性を実際にもっているのが大きな特徴であると思います。
実際に取り入れて、選ぶことが可能である、言うは簡単ですが諸外国にとっては日本式をそのまま取り入れるというのには少なからず抵抗がある、と言ったところでしょうか。
「日本人は、未来を生きているよ…」という驚嘆の言葉を聞いたことはありますが
「○○人は、未来を生きているよ」という他の国の言い回しがミーム化してもあまり流行らないだろうと思います。
あるいは、今だ謎のベールに包まれた理解を拒む不可侵の領域といったものが仮にあるとでもいうのでしょうか?
他の国の人々には日本文化の核心に至ることはないだろう、と能天気に楽観視しているのは世界のイナカモノ国家の日本人だけかもしれないですよ。
もう世界の人々は日本の事細かな文化のエッセンスをほぼ完ぺきに理解しているんじゃないでしょうか。十分と言えるほど。

年寄りの愚痴みたいで醜悪なことを承知で言いますが、最近の日本人は外国知識をカタログ的知識、wikipedia的知識、tiktok的知識、ネットあるある的知識、
…ようするにワントピックで表面的にしか理解していないんじゃあないでしょうか?
端的に言うとわれわれ自身の思索のアンテナも薄くなって小粒化して立体的に物事を見れなくなってきているのではないか。
この言い方だと若者がかわいそうですから、環境や経済的情勢の制限が接触機会をすこしづつ奪いはじめている、という同情的な目線の言い方にあらためます。
この円安だし海外旅行へ気軽に行けなくなってきているし海外留学できる余力のある家庭も猛烈な勢いで減少してきています。
昔は日本語のできる人材は重宝されていましたが今では海外で日本人を見かけることがぐっと少なくなって顧客価値すら薄らいでいます。
そりゃここまで愚痴ってきてでもでも外国の人たちは「日本人すごい」ってホメてくれるじゃないか!って異論をぶつけたい人たちもいるかもしれませんが
こういうのはうれしいですけれど体よくいってしまえば
「異文化カマトト」しぐさ
で片付く現象だと思うのですよ。

外国との接触の多いグローバルスタンダードではリップサービスして相手をいい気分にさせて交渉や統治をやりやすくさせるっていうのは常套手段で
悪いわけではないですけれど彼らなりの処世術なのですよ。彼らは欠点も注意深く見ています。
昨今の情勢は混迷を極めていて対応先がとにかく多くて、昔みたいに1国to1国みたいに濃密に寄り添って交流を深めていく事がちょっと困難になってきた感じがします。接触チャンネルが1対多なんですよね。
でも相互理解の基本は時間をかけて関係を育てて、時系列の理解が必要なわけです。
でもそれがなかなか難しい。
私が以前に言ったかもしれないですが
「プロミネンス」で理解しちゃダメなんです。アテンションエコノミーの惹句に踊らされてしまうのは御免です。
じゃあどうすればいいのかというと
「バイブス」を理解しなきゃならないということなんです。
バイブスは言語化されていなくて、ハイコンテキストで、身体性があり、リニアな時間の中で一定のスパンがある。
エラソーなことを言って私自身もネット知識くらいしかないのですが場所と時間を共有することなしには理解は進まないっていうのは痛いほどわかります。
ああしろこうしろって私たちへの注文ばかり多いじゃないか!インド人を右に!うちはうち、よそはよそ!
っていう声も聞こえてきますが逆に理解のされ方も「プロミネンス」から入ってくる人が今や大勢を占めているわけなのですよ。
向こうも向こうで、へんてこなエキゾチズムやクレージージャパンを求めてきているわけなのです。
こんな時私の知己や親族にも外国との交流がひとエピソードでもあれば骨太になれるのになぁ、と嘆いてもしょうがないですがないものはしょうがない。

でもね、「異文化カマトト」なんてひねくれた造語をくりだすことを許容する懐の深さってモノもあってもいいと思うんですよ。それが多様性です。
今日本は曲がり角に来ていると思うんです。
ロシアにはダーチャがあって、華僑には縁故ネットワークがあって、アメリカには移民の多様性がある。
日本にそれらに相当するセーフティネットはあるのか?
何か新しい拠り所をここから未来にかけて、見つけ出していかなければならない。

「西洋vs東洋」っていう命題は今はもう古いものなのかもしれませんが、連綿と受け継がれた思索の灯火は形を変えて現代でも普遍性を持って存続している。
借り物ですみませんが、
「伝統とは火を守ることであり、灰を崇拝することではない」
という言葉でこの記事を締めたいと思います。



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