今年の大河の原作というので、年末年始に全4巻を読んだ。
といっても義経はあまり出てこない。
弁慶との出会いの場面もなく、第4巻でいきなり弁慶が1シーンだけ出てきたりする。
別途「義経」という小説もNHK出版から出るらしい。
以下、思いつくままに。
1.清盛が、権謀術数家というよりは、人情に厚く、同族・友達思いで、強運による栄華を彼らとshareしているうちにああなった人物、という描き方をされていたこと。
有名な「頼朝の首をわが墓前に供えよ」という遺言も、一族を発奮させるための時子の捏造であったという解釈が、女性作家らしく斬新だった。
2.平家の血筋を絶やさぬため、二位の尼(時子)と西海に沈んだのは、安徳天皇でなく、異腹の弟守貞親王で、安徳天皇は守貞親王を装って生き延びた。
3.ドラマではいつもすごく美化されている、建礼門院徳子が、わりとボーっとしたあまり賢いとはいえない人物に描かれているのも新鮮だった。
4.木曽義仲がものすごい野蛮人、uncivilized personとして描かれているが、木曽は当時信州の一部、信州人ってやっぱり歴史的にこんなものなのか?と思った。
5.お徳という狂言回し的に使える人物が出てくる。これを大河でナレーションも兼ねて白石加代子がやるのが一番の楽しみ。
6.でも、なぜ肝心な大原御幸がカットされているのだろう。最後の方で作者が息切れしてしまったとしか思えない。これが平家の白眉と思うのに。
7.知盛の人間的魅力をもっと描いてほしかった。個人的には木下順二『子午線の祀り』の知盛が大好き。1999年に野村萬斎(同じ高校の後輩。姉上が同学年で隣のクラスだったので、父兄会で万作氏をよくみた)が新国立で演じた時、「見るべきほどのものは見つ」という科白に鳥肌がたった。
8.敦盛と熊谷直実のエピソードももう少し詳しく書いてほしかった。私は名前が似ているので、昔からこの場面には執着がある。ちなみに、通信販売等で「名前の漢字を教えてください」と電話で聞かれるたび、いつも「敦盛の敦です」といっているのだが、わかる人はめったにいないのが非常に嘆かわしい。最近信長がドラマに出るたびに舞っている「人間五十年下天(化転ともいう)のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生を得て滅さぬもののあるべきか」は幸若舞(司馬遼太郎は「謡曲」と誤記しているが)『敦盛』だし、現に「敦盛をひとさし」なんて科白もあるのに。「新平家物語」では勘九郎がやっていたが、今回は誰がやるのだろう。
9.電車のキセルのことを薩摩守忠度から「薩摩守を決め込む」といったりしたが、もう死語になっているようなのは残念(斬り?!)。でも、西に落ちる前に俊成に和歌を託したというエピソードには毎度泣ける(『新平家物語』では中尾彬がやっていたのよね)
10.滝口入道と横笛のエピソードは、20年前嵯峨野の滝口寺に行ったとき、えらく感動して、入道の「剃るまでは恨みしかども梓弓、まことの道に入るぞうれしき」という歌を絵皿に描いたりしたな(今もリビングに飾ってある)と思い出した。
11.義経は義朝の八男だが、叔父鎮西八郎為朝(滝沢馬琴の名作で、三島由紀夫が歌舞伎にした「椿説弓張月」の主人公)既に八郎を名乗っているので、九郎にしたとこれで初めて知った。
それにしても、あの、親子兄弟で殺し合う時代を、巧みな権謀・裏切りで泳ぎきった後白河法皇のあの節操のない政治力、あれこそ現在の私が最も見習うべきものなのだろう、とわかってはいるのだが…。
【おまけ】
大河の義経と静といえば、
『義経記』の尾上菊五郎:冨司純子(これが縁で結婚)
『新平家物語』の志垣太郎
『草燃える』(1979年)の国広富之:友里千賀子(『おていちゃん』ヒロイン。朝ドラのヒロインは一度は大河で使ってやるという暗黙の了解があるらしい(今回の静も『てるてる家族』の石原さとみ、中越典子も建礼門院役で出ている。「新選組!」おその役の小西美帆もそのせいだろう)が、このキャスティングはあんまりだという声が高かった)。源義時役で松平健がブレイクした作品でもある。その恋人で大場景親(加藤武)の娘・茜が松坂景子。最初は伊東祐親(まだブレイクしていない滝沢栄)の思われ人で頼朝との確執の理由として設定されている。
当時はビデオなど自宅になかったから、修学旅行中に困ったことを覚えている。
『武蔵坊弁慶』(かつてNHKでは水曜日も歴史ドラマをやっていた)の川野太郎。
弁慶は中村吉右衛門で、その妻が荻野目慶子、娘が高橋かおりで、那須与一の標的になるという設定。荻野目も当時は清純派だったが、男を死に追いやるくらいの凄みが女優の仕事にはプラスに働くこともあると思う。高橋も後に三田村邦彦との不倫報道があってちょっとびっくりした。
『炎立つ』の野村宏伸
などがあるが、歴史的には『炎立つ』のちょっと軽薄な義経像が最も実像に近いらしい。
あと、ドラマになると、主人公の女関係を奇麗事にしすぎるのがいや。
跡継ぎがなければ滅びるのが武家社会なのだから、また、息子もいつ死ぬかわからない乱世なのだから、たくさんの子供を作るために蓄妾するのは当時の常識であり棟梁の義務。それを、現代の一夫一婦制イデオロギーから合理化するための不自然な設定を作ったりするのがどうも苛つく。
「常盤御前判決」という裁判例は今考えるとものすごいジェンダーバイアスむき出しの考え方だ。やっぱり司法界ってジェンダー的には遅れている。
といっても義経はあまり出てこない。
弁慶との出会いの場面もなく、第4巻でいきなり弁慶が1シーンだけ出てきたりする。
別途「義経」という小説もNHK出版から出るらしい。
以下、思いつくままに。
1.清盛が、権謀術数家というよりは、人情に厚く、同族・友達思いで、強運による栄華を彼らとshareしているうちにああなった人物、という描き方をされていたこと。
有名な「頼朝の首をわが墓前に供えよ」という遺言も、一族を発奮させるための時子の捏造であったという解釈が、女性作家らしく斬新だった。
2.平家の血筋を絶やさぬため、二位の尼(時子)と西海に沈んだのは、安徳天皇でなく、異腹の弟守貞親王で、安徳天皇は守貞親王を装って生き延びた。
3.ドラマではいつもすごく美化されている、建礼門院徳子が、わりとボーっとしたあまり賢いとはいえない人物に描かれているのも新鮮だった。
4.木曽義仲がものすごい野蛮人、uncivilized personとして描かれているが、木曽は当時信州の一部、信州人ってやっぱり歴史的にこんなものなのか?と思った。
5.お徳という狂言回し的に使える人物が出てくる。これを大河でナレーションも兼ねて白石加代子がやるのが一番の楽しみ。
6.でも、なぜ肝心な大原御幸がカットされているのだろう。最後の方で作者が息切れしてしまったとしか思えない。これが平家の白眉と思うのに。
7.知盛の人間的魅力をもっと描いてほしかった。個人的には木下順二『子午線の祀り』の知盛が大好き。1999年に野村萬斎(同じ高校の後輩。姉上が同学年で隣のクラスだったので、父兄会で万作氏をよくみた)が新国立で演じた時、「見るべきほどのものは見つ」という科白に鳥肌がたった。
8.敦盛と熊谷直実のエピソードももう少し詳しく書いてほしかった。私は名前が似ているので、昔からこの場面には執着がある。ちなみに、通信販売等で「名前の漢字を教えてください」と電話で聞かれるたび、いつも「敦盛の敦です」といっているのだが、わかる人はめったにいないのが非常に嘆かわしい。最近信長がドラマに出るたびに舞っている「人間五十年下天(化転ともいう)のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生を得て滅さぬもののあるべきか」は幸若舞(司馬遼太郎は「謡曲」と誤記しているが)『敦盛』だし、現に「敦盛をひとさし」なんて科白もあるのに。「新平家物語」では勘九郎がやっていたが、今回は誰がやるのだろう。
9.電車のキセルのことを薩摩守忠度から「薩摩守を決め込む」といったりしたが、もう死語になっているようなのは残念(斬り?!)。でも、西に落ちる前に俊成に和歌を託したというエピソードには毎度泣ける(『新平家物語』では中尾彬がやっていたのよね)
10.滝口入道と横笛のエピソードは、20年前嵯峨野の滝口寺に行ったとき、えらく感動して、入道の「剃るまでは恨みしかども梓弓、まことの道に入るぞうれしき」という歌を絵皿に描いたりしたな(今もリビングに飾ってある)と思い出した。
11.義経は義朝の八男だが、叔父鎮西八郎為朝(滝沢馬琴の名作で、三島由紀夫が歌舞伎にした「椿説弓張月」の主人公)既に八郎を名乗っているので、九郎にしたとこれで初めて知った。
それにしても、あの、親子兄弟で殺し合う時代を、巧みな権謀・裏切りで泳ぎきった後白河法皇のあの節操のない政治力、あれこそ現在の私が最も見習うべきものなのだろう、とわかってはいるのだが…。
【おまけ】
大河の義経と静といえば、
『義経記』の尾上菊五郎:冨司純子(これが縁で結婚)
『新平家物語』の志垣太郎
『草燃える』(1979年)の国広富之:友里千賀子(『おていちゃん』ヒロイン。朝ドラのヒロインは一度は大河で使ってやるという暗黙の了解があるらしい(今回の静も『てるてる家族』の石原さとみ、中越典子も建礼門院役で出ている。「新選組!」おその役の小西美帆もそのせいだろう)が、このキャスティングはあんまりだという声が高かった)。源義時役で松平健がブレイクした作品でもある。その恋人で大場景親(加藤武)の娘・茜が松坂景子。最初は伊東祐親(まだブレイクしていない滝沢栄)の思われ人で頼朝との確執の理由として設定されている。
当時はビデオなど自宅になかったから、修学旅行中に困ったことを覚えている。
『武蔵坊弁慶』(かつてNHKでは水曜日も歴史ドラマをやっていた)の川野太郎。
弁慶は中村吉右衛門で、その妻が荻野目慶子、娘が高橋かおりで、那須与一の標的になるという設定。荻野目も当時は清純派だったが、男を死に追いやるくらいの凄みが女優の仕事にはプラスに働くこともあると思う。高橋も後に三田村邦彦との不倫報道があってちょっとびっくりした。
『炎立つ』の野村宏伸
などがあるが、歴史的には『炎立つ』のちょっと軽薄な義経像が最も実像に近いらしい。
あと、ドラマになると、主人公の女関係を奇麗事にしすぎるのがいや。
跡継ぎがなければ滅びるのが武家社会なのだから、また、息子もいつ死ぬかわからない乱世なのだから、たくさんの子供を作るために蓄妾するのは当時の常識であり棟梁の義務。それを、現代の一夫一婦制イデオロギーから合理化するための不自然な設定を作ったりするのがどうも苛つく。
「常盤御前判決」という裁判例は今考えるとものすごいジェンダーバイアスむき出しの考え方だ。やっぱり司法界ってジェンダー的には遅れている。