夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

性犯罪の前科の扱い

2005年01月29日 | profession
立て続けに、仕事以外の書き込みをしてしまった。
いくら銀行員時代のことも入っているといっても、遊んでばっかりいるみたいだ。
(趣味と仕事が一致していればよかったのだが、それでは満足できず、文科三類からわざわざ法学部に進学し、法学教師になってしまったのは私の選択だから。)

それで、仕事のことも書くことにする。

現在、「ジェンダーと法」でレイプ裁判を扱っているが、奈良の女児殺害事件をきっかけに、性犯罪の前科のある者の情報を公開することの是非が問題になっている。

ここで参考にされているのが、アメリカのメーガン法だ。
1994年にNew Jerseyで、7歳の少女メーガンちゃんが性犯罪の前科者に強姦され殺されたが、この犯人が被害者の向かいに住んでいたことから、できた法律である。
多くの州で同様の立法がされており、詳細は州によって違うが、性犯罪の前歴がある者の、住所、氏名、写真が、ネット等で公開されている。州によっては、再犯の危険度まで公開されている。
むろん、こうした情報には、「前科があることのみを理由とするあらゆる嫌がらせは犯罪に該当する」という警告文もついているが。

ここで、アメリカ法の性犯罪に対する態度について、見てみよう。
1.レイプ・シールド法
日本では、レイプの裁判において、被害者が受けるセカンド・レイプが問題になっている。
つまり、「貞淑な女性が夜道で見知らぬ男に襲われるのが強姦」という強姦伝説が司法関係者にすら信奉されているため、貞淑でない女性は、本件でも性交に合意したに違いないという論理を導くために、被害者の過去の男性との交際等が、事細かに、加害者側の弁護士によって暴露され、いわれのない辱めを受けるのである。

男にも女にも、誰といつどんなふうに性交渉をもつかを選ぶ、性的自己決定権がある。
だから、過去にどんな性行為があったかどうかは、その時同意したかどうかには関係ないはずである。
そもそも、強姦罪177条等、性犯罪の、日本の刑法における位置をみると、虚偽告訴罪と賭博罪に挟まれた、社会的法益を害する罪という性格付けになっていること自体が問題で、個人の自己決定権こそ保護法益だという観念が欠けているのだ。

アメリカのレイプ・シールド法は、このようなセカンド・レイプを防ぐため、被害者の過去の性的な経験を証拠として取り上げることを原則禁止している。

2.他の証拠法
アメリカの証拠法では、陪審制度のために、定型的に、素人が偏った結論を導きやすい証拠を出すことを、関連性のない証拠として禁止している。そのためのそれはそれは細かいルールがある。
(この点、日本では、証拠法がそれほど厳密でないことから、裁判員が誤判に導かれやすいのではないか、と私は危惧している)
たとえば、車を修理したこととか、和解交渉をしたこととかは、原則として証拠とすることはできない。また、被告人の前科についても、原則として、同種の犯罪の証拠には出せないことになっているが、性犯罪に関してだけは、出してもいいことにしている州が多い(NYは採用していないが)。

以上のように、プライバシー権の保護や、証拠の関連性についてのルールの厳格なアメリカでさえ、性犯罪についてだけは、被害者保護に大きく傾いていることは大いに参考になるだろう。

少なくとも、裁判員制度実施の前に、レイプ・シールド法だけは制定すべきではないかと考える。

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江戸川乱歩の土蔵公開

2005年01月29日 | 読書
去年の8月のことだから、だいぶ前になるが、友人と、池袋の東武デパートでやった江戸川乱歩展と、公開された土蔵を見に行った。

これは、豊島区が区をあげてやっていた乱歩関連のイベントに、乱歩の家を買い取り、保存・補修をしている立教大学が協賛してやっていた催しだ。大學と地域の理想の関わり方の一例を見たような気がした。

江戸川乱歩は、小学生の頃から愛読していたが、「パノラマ島綺譚」や「陰獣」のような耽美怪奇ものが好きだった。『黒蜥蜴』は三島が戯曲化し、両立しない生と美の関係を描く傑作だが、
明智小五郎もののミステリーの中にははどうも、トリックの説明がきちんとなされないものが多いのが気持ち悪かった。私はなんであれ、全ての謎にいちおうきちんとした説明がなされないといやなのだ。
だから、本格推理の横溝正史にはすぐのめりこんで、中学時代には全著作を読破した。
後輩に当たる横溝は、乱歩にずいぶん苦言を呈していたようだが。

江戸川乱歩展を見て、気づいたことは、乱歩が無類の整理魔・記録魔で、かつ自分大好き人間だと言うことだ。自分の名前が出ているものは、新聞の書籍広告欄にいたるまで全て切抜きしてスクラップし、詳細なコメントまでつけている。そういうスクラップ・ブックがすごい数残されている。

古今東西のミステリーに使われたトリックを細かく分類し解説した「トリック分類表」というものも作成している。非常におたっきーな細かさなのだが、これを見て、私がどうしても解せなかったのは、「動物が犯人」という分類のところに、エドガー・アラン・ポーの古典中の古典『モルグ街の殺人』[オランウータンが犯人)が記載されていなかったことだ。

この作品がどれくらい古典中の古典かというと、たとえば、
昨年、初めて本格推理に挑戦した貴志祐介の『硝子のハンマー』を読むとそのことがよくわかる。
介護会社の社長が密室の社長室で殺されるという、本格ミステリーの王道を行く作品なのだが、
[以下、ネタばれがあるので、注意してください)

開発途中の介護猿と介護ロボットが、犯行現場にあったのだ。
これが実際に犯行に使われたのではないが、これは、目くらましと同時に、貴志が本格推理に初挑戦するに際し、偉大な先達にささげたオマージュなのだろうと、誰でもピンと来る。
ちなみに、介護ロボットの方は、京大SF研出身の夫に聞いてわかったが、最近映画化されたアシモフの『わたしはロボット』へのオマージュなのだろう。

何より、ポーは乱歩がペンネームももらった作家、読んでいないはずはないのだが…。

土蔵の方は、長蛇の列に並んだ末、ほんのとば口しか見せてくれないのはちょっとがっかり。
でも、乱歩はレタリングも得意で、整理した資料の箱に見事な文字でタイトルをつけているのにも感心した。

この西池袋の家は、1934年に引越し、ついの住処となったところ。
ちょうどその直前に、久世光彦の『1934年冬ー乱歩』を読んでいたので、「あの失踪のあと、心機一転引っ越したのがここか…」と感慨深かった。

乱歩は、1934年はじめ、大スランプだった。
1933年11月に「新青年」に連載を開始した『悪霊』は、とうとう謎ときの答えを思いつかず、1934年2月に連載休止と謝罪文を出したくらいだ。
それで、家族にも編集者にも告げずに失踪し、麻布の外国人専用ホテルに滞在していた、という設定の小説が、『1934年冬ー乱歩』である。
そこで乱歩が書いた劇中小説も、久世のオリジナルなのにまるで乱歩そのものだし、なぞのアメリカ人女性客が、当時誰も気づかなかった、エラリー・クイーンとバーナビー・ロスが同一人物だと見抜いたり、すばらしい傑作小説で、それまで、向田邦子がらみのエッセイしか読んだことのなかった久世光彦を本当に見直した。

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なにわバタフライ

2005年01月29日 | 演劇
三谷幸喜の新作、ミヤコ蝶々を主人公にした、戸田恵子の一人芝居を夫と見に行ってきた。

思えば、年末に『ロミ&ジュリ』の千秋楽で会ったときは、この芝居の休演日だったのだった。

戸田が、楽屋で取材を受けるという設定で、カレンダーやテーブルクロスといった楽屋にある身の回りのものを使って、扮装し、子供の頃からの生い立ちをライブで話すという芝居だが、とても面白かった。

一人芝居の平板さをカバーするために、2人の女性演奏家によるパーカッションの演奏が舞台の上部で行われたりする斬新な試みもあった。
また、スポットライト等を使って、前夫を畳3畳分も背丈のある大男、父親を目玉親父並みの小男という設定にしたことが、奥行きを与えていたと思う。

ミヤコ蝶々といえば、なくなる直前に日経で「私の履歴書」を連載していたな。
それを読んで、夫の芸名南都雄二が、本名が「何という字ですか?」と聞かれることが多いから名づけたと知った。

しかし、「私の履歴書」を書くと、亡くなる、というジンクスが否定できない。(すみません、執筆後もお元気な方はたくさんいらっしゃいますが)
淀川長治もそうだったし、つまり、その機会を逃したらもうチャンスがなかったわけで、日経のこの欄の担当記者って、独特の嗅覚があるのかな、と思うことがある。

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アンコール遺跡・偉大な石澤良昭先生

2005年01月29日 | 旅行
「世界不思議発見!」の正月特番で、アンコール研究の第一人者上智大学の石澤良昭教授が出ていた。

石澤先生は、学問的業績はもちろん、人間としてもすばらしい人だ。
専門外だが、三島由紀夫の晩年の戯曲「癩王のテラス」の舞台なので、アンコール遺跡には非常に興味があった。

三島由紀夫の作品の舞台になった場所は、できるだけ訪れるようにしている。

国内では、銀行員時代、大阪出張の帰りに『潮騒』の舞台になった神島に連絡船で行って、観敵廠に道なき道を、虫刺されだらけになりながら登ったし、職場旅行で堂ヶ島温泉に行ったときは、出発前の早朝にタクシーを頼んで、黄金崎の『獣の戯れ』の文学碑まで行った。
そうそう、その時、松崎出身の国鉄マン石田禮吉を描いた城山三郎の『粗にして野だが卑ではない』を読んだばかりだったので、運転手さんにその話をしたら、「でも、あの人の意見で、新幹線が沼津じゃなく三島に停まるようになったんですよ。その方が松崎に行くのは便利だから」というので、「十分卑じゃないか!!」と憤慨した。確かに、沼津じゃなくて三島というのは謎だった。

清水の美保の松原はいいけど、安永透の勤めていた港の通信所の跡地は、正式な文学碑じゃなくて、料理屋の手書きの剥げかけた看板に、「珠玉の名作、三島由紀夫の『豊饒の海』の舞台!」
と書いてあったのに、かなり落胆した。

バンコクのワット・ポーにも『暁の寺』を片手に登ったし、
香港のタイガー・バーム・ガーデンも、『美に逆らうもの』というエッセイを持ってったし。

インドは、三島由紀夫がその人生観を変えたところだ。
1998年に旅行したとき、バラナシで、ガンジスを船から体験したとき、流れてきた子供の死体[子供は火葬してもらえないことが多い)を見たときも、アジャンタ・エローラの遺跡を見たときも、『暁の寺』を読みながら、「滝の位置が現実と違うな」などとチェックしながらだった。
また話が逸れるが、この時の現地ガイドがカーンさんという、『河童が覗いたインド』の妹尾河童のガイドを勤めた人だった。「妹尾先生に日本語習いました」といって、「これは法隆寺の蓮華手菩薩像の原型になったものでごじゃいまっすー」という変な丁寧語が面白かった。
アジャンタは、仏教遺跡だったものが、時代を経るにしたがってヒンズー教のものになっていくが、レリーフの人物の彫り方[体がS字型)が共通しているなど、自然な移り変わり、それが日本の仏教美術につながっていく歴史が実感できた。
エローラのカイラーサナータ寺院の、どうやってもカメラに収めきれない巨大さ(3代以上の石工が彫り続けたのだという。孫の代に完成するものを彫り続ける石工たちの気持ち、想像しただけでドラマだな)にも驚嘆した。

2000年3月にアンコール遺跡にツアーで行く前も、『癩王のテラス』を読み返したし、遺跡見学の前はいつもそうだが[1994年12月にペルーに行く前も3冊くらい読んだ)、石澤先生の研究書も2冊読んだ。

実物のアンコール遺跡は、本当にすばらしいものだったが、改めて三島の天才ぶりを再認識した。
取材期間は短かったはずなのに、遺跡の随所にレリーフが刻まれている、さまざまの伝説や、ジャヤバルマン2世の時代の歴史を、その本質まで完璧に理解した上で、彼独特の精神と肉体の二元論に昇華させている。もちろん、戯曲としての結構も完璧だ。

ちなみに、同行するはずだった夫は直前に仕事でドタキャンした。
旅行から戻ってきて、友達とやっている三島の読書会で発表した際に作ったレジュメは以下の通り。

「らい王のテラス」とアンコール遺跡
2000.4.19
1. アンコール時代とは
802年   ジャヤバルマン2世が創始。
1150年頃  スールヤバルマン2世がアンコールワットを建立。ヒンズー教(ヴィシュヌ神    信仰)に基づく。
1181年   ジャヤバルマン7世(戯曲の主人公)がチャンパ王国に勝利。
       アンコール・トムの建立。大乗仏教に基づく。
2. 当時の王政
必ずしも世襲でなく、力のある者が王になった。王が変わるたびに新しく建造物を建立するが、その大きさ、豪華さが王の権力を象徴するが、前王からの正統性の継承という面もあったため、一部前の建造物の特徴を引き継ぎながらも、独自性を出さねばならなかった。→「余はアンコールワットにひけをとらない独特の寺を建てたいのだ」p37(1-2)
3. 王即身崇拝(デヴァラージャ)
 王を、神の化身と考え、死後はその神そのものになるという考え方であり、その意味で、アンコールワットやアンコールトムは王の墓所であるともいえる。
スールヤバルマン2世はヒンズー教のヴィシュヌ神の化身、ジャヤバルマン7世は観世音菩薩の化身と考えられていた(p39、1-2)。
4. ナーギとの契り(p26、1-2、p82,2-3)
(1) ピミアナカス神殿(写真:アンコールへの道p101)
(2) 建国伝説(p25、1-2)
(3) 毎晩妻妾と同衾する前にナーギと交接しなければならない。←1290年代に滞在した中国人周達観の「真蝋風土記」が典拠(アンコールの遺跡p60)
(4) カンボジアの土着の蛇信仰がヒンズー教のナーガ信仰と結びついたもの。→ここから、ライ病罹患の伝説(5.参照)にもつながる。
5. ライ病伝説の根拠
(1) アンコールトムにある、毒蛇の血を受け、手当てを受けているレリーフ←アジアの至宝p33、アンコールの遺跡p121)
(2) ライ王のテラスの像が裸身でしかも性器がないこと
←ただし、ヤショーバルマン1世、シバ神像という諸説があり、現在は閻魔大王とする説が有力。(閻魔大王はアンコールワットのレリーフ「天国と地獄」にも出てくる。)
(3) ニャック・ポアン(アンコールの遺跡p169)等の施療院を実際にジャヤバルマン7世がたくさん建設していたこと。
(4) 以上から、ジャヤバルマン7世はライ病でなく、戦没したという説が有力になっている。
6. 繰り返し出てくる月のイメージ(p25、1-2、p49、2-1)
バンテイアイスレイのレリーフ(アジアの至宝p42):太陽に組み伏せられる月のイメージ。太陽がライ=精神の象徴か?
7. 遺跡の様式、建設の実際
金箔を施したもの:p18、1-1
手抜きがあった:p19棟梁の科白←歩き方p41
8. 精神と肉体の二元論(p67,p110~)
肉体の崩壊と引換に作品が完成される=「豊饒の海こそ私のバイヨン」(宗谷真爾の解説)
9. 他の三島らしいところ
(1) 第一王妃,第二王妃の科白のシンメトリー(p75とp81)
(2) 宰相の冷感症(p58)←「沈める滝」の城所昇を思 わせる。

最近、南野法務大臣が「らい」という言葉を使ったからといって謝罪していたが、らいという言葉は使ってはいけないから、この名作が上演できないのか?
この戯曲を見ると、三島が既に死を決意していたことがわかるのだが。
初演では北欧路欣也が主人公を演じたが、彼のインタビュー番組できいたところ、楽屋でシャワーを浴びていたら、突然三島が入ってきてびっくりしたそうだ。

「らい」という言葉さえ使わなければいいのか?
それよりも、名前も奪われ、強制的に不妊手術をされたり(中絶や産後の殺害の対象となった胎児やえい児のホルマリン漬けが大量に発見されたと27日の日経新聞に出ていた)、人権を奪われた事実のほうが重要ではないのか?
興味ある人は、北條民雄『いのちの初夜』、高山文彦『火花』を読んでください。

それにしても、南野法相へのバッシング、明らかに看護師という職業の軽視や女性差別に関係がある、絶対に許せない現象だ。担当官庁についての専門知識がない大臣ならほかにいくらでもいるだろう(それがいいといっているのではありません)。


この旅行で、実物を見て、石澤先生の著書では解決できない、いくつか考古学上の疑問点が生じた。
また、三島由紀夫がアンコール遺跡に取材に訪れたときの、遺跡のそばで撮った写真が、1979年伊勢丹で開催された「三島由紀夫展」で買ったカタログ(私は高2で月3000円の小遣いの中から捻出したのである)に載っており、その場所を突き止めたいとコピーを持っていって、ずっと探していたのだが、とうとうそれらしい場所がわからなかったので、なんと、会ったこともない石澤先生に、それらの質問と、三島の写真のコピーを入れて、「この場所はどこでしょうか?」という質問を書いた手紙を、上智大学宛に出してしまった!!

そうしたら、なんと、すぐに、大変丁寧な回答が来たのだ。
三島のいた場所については、先生も見覚えがなく、ポルポト時代の内戦で、遺跡がかなり破壊されたり盗掘されたので、[三島が行ったのは1960年代でその前)もうその当時の原型をとどめていないのだろう、とのことだった。

アンドレマルローが仏像を持ち出したエピソードは有名だが、アンコールの遺跡の盗掘が現在も組織がかりで行われていることは、三留理男「悲しきアンコールワット」(光文社新書)に詳しい。

非常に感動した。
今まで、著者に質問を送っても(パラサイトの山田昌弘とか、小谷野敦とか)返事など来たことがない。(それはそれで仕方ないだろう)
それが、教え子でもOGでもなく、ましてや同学者でもない、ただの銀行員に、そんなに誠実に対応してくれるなんて!!

以来、先生の大ファンになり、年賀状をやりとりさせていただいている。

「世界不思議発見!」でも紹介されていたが、今年の年賀状によると、先生は、COEプログラムで、カンボジアの青少年が遺跡の補修という仕事で身を立てられるように、専門学校を現地に作ったそうだ。すごいなー、と素直に思う。
援助って、一時的に金を出せばすむものでなく、かといって、外国人ボランティアが現地で作業するにもやっぱり限界がある。やっぱり、現地の若い人たちが、永続的・発展的な仕事をもつようにする、ということが一番無理なく安定し、しかもプライドを傷つけない援助だろう。しかも、その仕事が、遺跡という、国の歴史に理解と誇りを持てるようなものだったらなお素敵だ。
大学にいてつくづく思う、COEって、その件数で大学間が競争したり、本当に「ためにする」議論みたいになっているが、こういう石澤先生のような、国際社会で意味のある試みってできないのだろうか?

それにしても、ポルポト時代というのは、同じ毛沢東主義でも、中国の文革よりもずっと悲惨だ。
「最初に父が殺された―飢餓と虐殺の恐怖を越えて」
ルオン・ウン (著), [無名舎)を読んで、本当に泣いた。
完成度は『ワイルド・スワン』ほど高くないが、ぜひたくさんの人に読んでほしい。

インテリだからという理由で命を奪われるなんて、人類の発展への犯罪じゃないか、と思う。
なんせ、法務支援プロジェクトでカンボジアの民法制定で活躍された早稲田大学の鎌田薫教授によると、法律文書は全て焼かれており、法学者や法曹もほとんど殺されたか亡命したので、元々民法がどんな条文だったか(おそらくナポレオン法典の系譜を引くものなのだろうが)誰一人正確に知らない、というのだ。

親から仕送りを受け、勉強に集中できる境遇が、どんなに幸せなのか、この時代の日本に生まれたことがただの偶然なのだとわかっていない学生が多いのにいらつくことがある。(私自身が学費も本代も全部バイトでまかなった僻みも入っているが)

私は70カ国近く旅行に行ったが、その度に、1960年代に日本という国で生まれたことは、ただの偶然にすぎないのだ、と謙虚な気持ちになる。もし、ちがう時代、ちがう国に生まれたら、たとえば、カンボジアに生まれるということだってありえたのだ。
そうしたら、法学部の学生だというだけで命を落としていたのだ。

カンボジアに前記の旅行に行ったとき、現地ガイドの若い男性が、遺跡の上で、泣きながら、家族が殺されたときのことを話したことを、沈みかけた西日に、彼のクメール人独特の目からあふれた涙が反射して光った光景を、私は一生忘れない。

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