夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

1月17日の涙

2005年01月22日 | 読書
1月17日に、東京から移動中のバスの中で、文章を読んでいて2度、人目もはばからず泣いてしまった。

一つは、阪神淡路大震災から10年目ということで、元神戸消防署長という人が日経新聞の文化欄に書いていた文章だ。
助けを呼んでいる人全員を助けることができないという状況下で、消防士たちは、トリアージュ(被救助者の優先順位の選択)、つまり、誰を助け、誰を見殺しにするか、という残酷な選択を余儀なくされ、彼ら自身がPTSDに苦しんでいる、という事実に、涙が出た。
9.11以来、消防士という職業に人気が集まっている。昨年も、「火消屋小町」や「め組の~」という消防士を主人公にしたドラマが放映されていたが、つくづく、消防士というのは本当に立派な職業だなと思う。警察官も危険を冒すが、権力もまた行使できる。消防士は危険だけで、権力はなく、体もきつい。つまり、本当に犠牲的精神がないと務まらない仕事だ。
私が小学生のときも、お父さんが消防士で殉職した同級生がいたなあ。

そんな消防士の方々の心の痛みを思い、災害が人類に与える試練にまた思いを致した。
この大學に赴任するとき、「地震の危険だけは減ったな」と思ったらとんでもなかった。
活断層が真下を通っていて、ものすごくリスクが高く、市の広報で、耐震構造に建て替えれば補助金が出ると言う告知もしていた。
私は、それまで何の縁もゆかりもなかったこの地に一人で来て、夫を東京に残して大地震で命を落とす運命なのだろうか?

もう一つは、柳美里の「8月の果て」の、従軍慰安婦の悲惨という言葉では言いつくせないような地獄を読んで、涙が止まらなくなった。

NHKと朝日新聞の泥仕合、肝心の放映されたものの編集前とあとの違いを知りたいのだが。
本当の敵は政治的圧力なのに。

これは、作者の祖父で、戦争で中止されなければオリンピックでマラソン金メダルまちがいなしといわれた李雨哲とその一族の物語だ。
私は小学生の頃、ベルリンオリンピックで金メダルを取ったのに、日本の国旗を付けさせられた朝鮮人マラソン選手のことを描いた「消えた国旗」を読んで、衝撃を受けたが、その孫選手のことも出てくる。
また、「恨」を増幅させていく一族の運命を見て、柳美里の激しい生き方が宿命的なものなのだとわかったりした。
また、美里(みり)は、雨哲の故郷密楊(ミリヤン)からとっていることもわかった。

雨哲の弟雨根は、太平洋戦争後に、共産主義活動のために生き埋めにされ殺されるが、その淡い初恋の相手英姫が、戦争中騙されて従軍慰安婦にさせられたという設定。

柳美里、芥川賞受賞の「家族シネマ」はそれほど感心しなかったが、父親を殺す在日の少年を描いた「ゴールド・ラッシュ」で、才能を確信した。
その後、未婚の母になると同時にかつての恋人東由多加の末期がんを看取るというすさまじい生活を描いた「命」シリーズもとてもよかった。ただし、東との間にできて堕胎した水子のいくつもの位牌に拝む姿はちょっとついていけないものがあった。
確か「男」という古いエッセイに、「自分が子供をもつと想像したとき思い浮かぶのは、団地のベランダから赤ん坊を投げ捨てる自分の姿だ」なんて書いていたのに、実際に母親になるとちがうのだな、と思った。

プライバシー裁判の記者会見のとき切迫流産しそうだったという事実にも驚いたが、「石に泳ぐ魚」は、法と文学というテーマでいつか三島由紀夫の「宴のあと」と比較して論文を書いてみたい。

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Idealism Costs You Your Life

2005年01月22日 | profession

タイトルは、私がハーヴァード・ロー・スクールに留学中に出版され、愛読していたRichard D. Kahlenberg "Broken Contract - A Memoir of Harvard Law School" の中の、一番印象に残っている文。

昨日の夜中、酔った学生から、「学内のタバコのマナーに関する私の行動」について、議論したいという申し出があった。
その学生に注意したわけでもないのに、議論をしたいといってきたのだ。
「あなたに利害関係はないし、しらふの時に出直せ,酔っ払いは相手にしない」ということもできたが、これはじっくり聞いた方がいいと思い、彼のゼミの先生も交えて徹夜で議論した。

2003年5月1日に施行された健康増進法で、公共の場所の管理者が、利用者が受動喫煙の被害を受けないように対策を講ずる義務がある。教職員も管理者の一部であり、大學の利用者に対しそうした配慮をすべきである。
また、市の条例でも、ポイ捨てや歩きタバコは禁止されており、大學でも喫煙場所以外の禁煙や歩行喫煙は禁止されている。

こうした状況を踏まえ、大學の構成員として、教員としてなすべき義務をしゅくしゅくと果たしているだけなのである。(多くの教員がしないことについては別に批判するつもりはない)

それによって学生の反発を買うのも覚悟の上だったが、社会科学を勉強する学生なら、感情的には注意されたことを不快に思っても、理屈の上では、私の行動が正しいことは理解してくれていると思っていた。その上で、憎まれ役になっても、「なにくそ」と思い、マナーを守るようになってくれるなら本人にとっても利益のあることだと信じてやってきた。

しかし、その理屈の部分ですら、一晩かかって諄々と諭さないと理解できないというのは、ショックだった。

そもそも、私は学生に注意するときも、相手を対等の論者として民主的に扱っている。つまり、健康増進法が違憲の法律だと確信している等、自分なりに合理的な理由で歩きタバコをしている学生もいるだろう、と「なぜ禁止されていると知りながらそういう行動をとったのか、論理的に説明してください」と、相手に反論の機会も与えている。つまり、その反論に筋が通っていれば、認めてやろうという用意もあるのだ。ただ、少なくとも大學のルールはそうなっているのであり、それが理不尽と思うなら、署名運動して大学側に改正を促す等、大學の構成員として民主的な方法でルールの方の変更の努力をすべきだろう。そういう努力もせずに、ルールはおかしいと陰でいったり、それを執行する者を卑劣な方法で弾圧するのは、民主主義に反する、最悪の態度である。

今日のように正々堂々とした(ぶっちゃけ酔っ払って絡まれたということなのだが、でもちゃんと名乗って正面から来たのだ)議論ならどんなに生硬なものでもいつでも受けて立つが、卑劣な方法で意趣返しをする者には、それが刑法に触れる態様で行われた場合、刑事告訴も辞さない覚悟だ。実際、既に警察に告発したケースもあるので、首を洗って待っているように。相手が同僚や学生だからといって絶対に容赦はしない。これも法学教育の一環だと思うし。

それから、誤解している人もいるが、私が学生に注意するという行動は、私自身が嫌煙家であることとは関係ない。
大學の構成員として、法令・規則上の役割を果たしているのだから、仮に私がヘビースモーカーだとしても全く同じように行動するだろう。私は法学者として絶対に公私混同はしない。

翌日は東京で法科大学院関係のシンポジウムがあったので、4時半ごろ話し合いが終わってから、仕事を片付け(締切のある論文の完成)、一睡もしないまま高速バスに乗ることになった。

しかし、大學や学生のことを考え、自分自身がどんなに損をしてもなすべきことを果たすという、ただそれだけのことが、これほどのコストや痛みを伴うものであるということは、今回改めて痛感した。そして馬鹿馬鹿しくもなってきた。こちらの覚悟や意図の1万分の1も理解されることはないのだ。虚しい。


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