魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

宇野浩二「宇野浩二日記」と「思い川」

2013-01-28 00:14:35 | エッセイ 文学
 「宇野浩二日記」と「思い川」」                       

 昨年の夏、私は久しぶりに宇野浩二論を書いた。
 浩二の長い文学生活を前後に分けるとすると、後期の最初の作品と目される「枯木のある風景」について論じたのである。これは長いあいだ私の懸案であったのだが、突然、書こう、書かねばならぬという気持ちに襲われたからである。
 これには外的な要因もあった。

 5月に中野信吉さんの『作家 松岡譲への旅』が刊行されて、その出版記念会がひらかれた。そのとき、出版社・林道舎の加藤利明さんがはるばる姫路までお祝いに駆けつけてくださったのである。記念会のあと、加藤さんをかこんで高橋夏男、中野信吉両氏と私は、サンガーデンの喫茶室で小さな会合をもった。というのも、われわれ三人は、いずれも林道舎から本を出してもらった仲間であるからだ。
 その加藤さんの顔を見ているうち、私の中に、自分ももう1度、林道舎から本を出してもらいたいという気持ちが油然と湧いてきたのである。

 それまでの私は、『文芸・日女道』に連載してきたエッセイ「白鷺城下残日抄」を、もう少し数がたまったら、関西あたりのいい出版社から出してもらえたらなあという漠然とした気持ちがあった。
 それがこのとき、加藤さんと話していると、自分も研究者の端っくれだ、そうであるならば、これまで書いてきた論文を林道舎から出してもらいたい、という気持ちがよみがえったのである。

 そうなると、本の内容をどのようにするかが問題となってくる。私は毎年、勤務先に提出している業績表――自分はこれまでどんな論文を書いてきましたかを表す一覧表のようなもの――の控えを持ち帰って検討してみた。
 すると、分量的には川端康成、阿部知二、宇野浩二が多く、ほかに散発の作品論があった。すなわち広津柳浪、近松秋江、岩野泡鳴、松本清張、北杜夫などである。

 これらを整理分類すると、やはり3人の作家にしぼられた。川端康成だけで1冊にするという方法もあったが、ここ20年ばかり、私はこれら3人の作家について、あちこちに書いてきたのである。この際、3人の作家にしぼろうと考えた。
 そのうち、宇野浩二について若いときに書いた「宇野浩二論――その出発から終焉まで――」が長いが、あとの作品論が少ない。そこで宇野浩二論をもう1本加えるとすれば、「枯木のある風景」論しかない。

 そう考えたのであった。幸い、数年前に、「宇野浩二日記」の昭和5、6、7年のものが、博文館から刊行されていた。
 宇野浩二日記なら、どの時期でも面白かろうが、何といっても、ここに選ばれた3年間が断然、興味をひく。それは宇野が大患のあと「枯木のある風景」を書いて文壇に復帰する直前の時期にあたるからである。

 年号が大正から昭和に変わった翌年、すなわち昭和2年は文壇が大いに震撼した年であった。宇野浩二の発狂が伝えられている最中に、芥川龍之介の自殺が報ぜられたのである。

 今日でこそ宇野浩二はめったに読まれないが、当時は人気作家のひとりで、特に玄人好みの作家であった。その宇野浩二が発狂し、連載中の作品も中断されたということは、文学愛好者にとって大きな事件だったのである。
 宇野の病気の原因がジフィリス(梅毒)であったことは、今日では明らかにされている。しかしこれも、精神的に内外さまざまの懊悩が作用して発症したのであった。

 宇野はそれから数年間、闘病生活を余儀なくされる。途中から、宇野の得意な少年少女向けの童話は再開されるのだけれど、本格的な小説を書くまでには回復していなかった。しかしこの時期こそ、宇野の復活の前夜にあたる。いったい宇野がどんな生活を送り、どんなことを考えていたかを知るには、この時期の日記がとりわけ重要である。

 特に注目されているのは、「枯木のある風景」の執筆経過と、その前後の私生活、なかでも村上八重との交流であった。
 前者は、宇野自身の言葉によって、難渋をきわめて書き上げられたことが知られている。その前期には「歌うように」小説を書き、ひと晩に60枚の作品を仕上げると噂された宇野が、大患以後は苦渋に満ちて作品をかく超遅筆の作家に転じたことも不思議な現象であるが、その最初の作品「枯木のある風景」は、作品として優れていると同時に、その難渋の結果、どのようにして成ったかという意味でも注目されていたのである。

 もう1つは、後年、宇野の代表作の1つになる「思い川」の女主人公・村上八重(作品中では三重)との交流である。この時期も、妻の目を盗んで交流が続けられていたことは作品から想像できるのだが、実際はどうであったのか。この点も長いあいだ研究者の間で関心の的となっていた。

 私は今度の論を、モデルとなった画家・小出楢重の死を知ったときから、宇野が小出像をどのように彼の内部であたためて成長させてきたかを知るために、この日記を使った。論文は思うようには書けなかったが、日記の具体的な記述から得たものは大きかった。

 村上八重とのことは、どうだったのか。宇野は八重と頻繁に会っていた。電話をかけに行き(宇野の自宅に電話はなかった)、度々逢っていた。六大学など野球観戦にも2人でよく出かけた。また、八重は文学的なセンスを持っていた。2人は逢うたびに手紙や日記を交換したが、宇野は交際の内容や八重の手紙を時々、日記に書き写した。しかし万一、妻に読まれても大丈夫なように、ローマ字と英語でしるした。宇野夫人は賢夫人ではあったが、英語やローマ字の教育は受けていなかったのである。 
それはたとえば、次のような1節であった。(昭5・11・24)


 YAE letter
 Amari no ureshisa yorokobashisa de nemurezu o tegami kakazu
ni iraremasen.
Sakihodo sensei no ossyatta tôri honto ni 3 ka mae made
konna ureshii otegami itadaitari sampo dekiyô towa yume nimo omoimasen deshita.


 事情があって長い間へだてられていた2人が、直木三十五の愛人の機転で再会できてまもなくの頃の手紙である。うれしかったからだろうか、後年、作品の材料にするつもりだったのだろうか。
 作家とは、やはり特殊な人種である、というのが私の感想である。

 それはたとえば、次のような1節であった。(昭6・2・2)

入浴後、5時半、50銭タクMANSEIBASHI.
 Yae ni au. 50tax to Asakusa kwannon ni sankei, Kaneta nite syokuji, Kiri no orita, oboro zuki no Komakata bashi no ue ni shibashi tatazumi, nochi 50 tax de Yamato ni yuku.

 Yamato no harai-5en. Yamato o ide市電nite, Sakanamachi ni yuki, Yamamoto caffe shiruko 10 sen, dônatsu-50 sen sono ato, Kagurazaka yori, Kudan made aruki, Kudan no dentei no tokoro de 50 tax ni noru, soko de wakareru.
 Yae yori letter morau. all total 11.75


 病後というのに、タフなものであった。




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