
今、我輩の手元に数枚の写真がある。
何れも、今ではどうにも成らない撮ることの不可能な撮るに撮れない写真である。
我輩の肉親が見れば「兄が持っていたのか?」と思われるものである。
我輩の父が亡くなって既に30数年は過ぎた。
手元にある亡父の写真に気になる1枚の写真がある。
この写真に写っている方々は殆ど存知あげない。
我輩が知っているのは亡父以外は只の一人のみである。
亡父が存命の時にお酒を飲みご機嫌な時を見計らって、この写真を出して1度だけ写真に写っておられる方々のお名前を亡父に尋ねたことがあるが。

亡父の写真:中央は織田幹雄選手
亡父は杯を手にして写真をじ~と見ながら当時を偲んでいるのみで、それでも一人ずつ名前を挙げるたびに
「こいつとはよく○○をしたな~~ァ」とか
「この方はな~ァ」と言葉を改めて思い出を語るのである。
そのために中々全員に進まない。
頭の悪い我輩は焦れてしまい、親父の言う名前が我輩の頭に入らなかったのだ。
取り返しの付かない惜しい思いでの一つである。
なんて・・・言うことをしたのだと今となっては後悔しきりである。
このセピア色の写真の中央に写っているのが、かの日本で始めてオリンピックの三跳びで日章旗を揚げた織田幹雄選手(早稲田)である。
胸の中央の三角マークの日章旗が珍しい。
一緒に写っている我輩の亡父は中距離の選手だったとか(?)詳しいことは判らない。
次は、かの日劇である。
我輩が学生時代一度は行ってみたいと思った「数奇屋橋」で日劇を背景に友人と撮ったものである。
我輩も昔風(?)にいえばミーハー族に属していたのか?
この数奇屋橋も日劇も今はない。
このブログを若しも彼が見れば、即座に我輩の身元はばれる。
明時神宮国民体育大会で優勝した伯母の写真があったが、何故か今我輩の手元にない。
伯母(戦前の岩国女子中学校 学生=通称”岩女(ガンジョ)”)の写真は女学校の2年生か?3年生(?)の時に山陽代表として出場していた。
当時は山口県ではなく広島県、岡山県を含む山陽地方の代表だったらしい。
明治神宮競技場の事務所の展示場に毎回の優勝者の額が順繰りに掲げてあるとか?
有名な陸上選手の人見絹枝選手の名前も遺品もあった。
伯母は第10回だったと思う。
確かこれが最後の大会だったのでは?定かでないが・・・?
或いは15回まであったか?
伯母の写真は女学生姿で胸に優勝の賞状を抱いて誇らしげに立っている姿だった。
これも惜しいことに今は手元にない。
惜しいことをしたものだ。
昔を偲ぶ日が多くなると身の回りの整理が必要となって来たか?
今日の予定は午前中は前のブロバイダーの機器を返送して午後は太極拳だ。
なんと忙しい落ち着きのない爺だ!
今はネットがまたまた、繋がらない!(午前4時)なんてこった。
数時間前のことだ。繋がったときを逃さずに投稿する。
きょうの旭川10度で春の日差しが一杯でした。
道路の雪は消えたが、冬の間ブルで寄せた(除雪)雪が道端に山になって残っています。きょうの日差しに誘われて、皆さん雪解かしに懸命でした。
春が待ち遠しいのですね。
始めて東京に行った34年、日劇でラインダンスを見ました。チョット恥ずかしかったが、今は良き思い出です。
それでも年月が経つと、たとえどんな波乱万丈の変化があったとしても、他人から見ると生きていただけになって、ただ消え去るだけなんでしょうね。
地震のお蔭で、物に対しての思い切りが少しは付きましたが、もう10年も経つと元の木阿弥。
スプリング・ハズ・カム です。最初に習った英語でした。もう直ぐに春の花が一杯になりますね。
沼じじさんも日劇に行きましたか?あの「ライン・ダンス」はもう一度見たいですが、もう、こう歳を取りますと逆に、そのような劇場に入れません。(苦笑)
男は辛いです。かみさんは
「あんたは何時まで経っても変わらない」と言っています。
ハテサテ、若い頃何をしたのでしょう?
我家の仏壇にある「軍服姿」の写真は顔も判然としません。手に触れるのも憚られ、そのままです。
日劇は淡谷のり子の25周年公演を見に行ったのが印象に残っています。
私は、落語のほうに興味Gあありました。
また、新宿の「花園町」には部活(?)でよく通いました。(?)
これは、此処までです。(笑)