(^_^)

2017年2月からこのブログを始めました

【7月11日(月)上野~谷中霊園】

2022-07-24 17:23:16 | 日記
午前9時頃、上野公園へ。国立西洋美術館まで来ると門扉が閉じられています。月曜日は休館日なのでした。以前来たときは入館しなくても美術館前の庭園にあるロダンの彫像は自由に鑑賞できましたが、この日は前庭にも入れません。仕方なく、フェンス越しにロダン「考える人」の背中を鑑賞。








東京芸大の間の道を通って谷中の霊園へ。何年も前、この逆のコースを歩いたことがありましたが、今回はつれあいを案内してやろうとサービス精神が働きました。


徳川慶喜の墓は見学していましたが、渋沢栄一の墓が近くにあることは知りませんでした。慶喜を慕うように墓があると、何かで読んでそれを確かめたい気持ちもありました。ただ誤解のないように言っておきますが、両者を尊敬しているわけではありません。

渋沢の墓は、慶喜の墓から思った以上に離れています。しかも大きな墓地で親族の墓も何基かあって栄一の墓は中央にでんと据えられています。慶喜の墓の方に向いているようですが、慶喜の墓より大きく、とても臣下のそれではないと思いました。




谷中霊園は迷路です。行きつ戻りつ日暮里の駅になかなかたどり近づけません。ああ、ようやく脱出できたと思うところに五重塔跡があり、その木陰で一服休憩しました。


ここにあった五重の塔は1937年心中で放火され焼失したということです。また、幸田露伴「五重塔」のモデルとされています。

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【7月10日、浪曲「医師・中村哲」鑑賞後】

2022-07-22 21:27:36 | 日記
趙博さん、沢村豊子さんによる浪曲が終わって、交流と懇談。私は水割りを3杯飲んだか。「泪橋ホール」なんだかうれしくなる空間だ。学生時代、3本立て深夜映画、その時代へタイムスリップ。見ていない映画のポスターに興味が引き寄せらる。






午後5時半、名残は尽きないがこの日の宿泊先上野に向かう。来た時には気づかなかったが芭蕉の碑を発見。芭蕉は1689年5月16日、曾良を伴って江戸・深川から船で隅田川を遡上して『奥の細道』への旅へと出立。そして奥の細道、第1句を記したのが、この千住の地。




『行く春や鳥啼魚の目は泪』是を矢立の初めとして、行く道なおすすまず。人々は途中に立ならびて、後かげみゆるまではと、見送なるべし

ここには東京メトロで来たが、帰りはJR「常磐線」で、常磐線というのがなんだかうれしい。上野についてホテルを探す、探すと言ってもホテルは上野駅とは目の先「三井ガーデンホテル上野」。ホテル名はたいそうでも宿泊費は二人合わせて8000円。チェックインして部屋に向かうエレベーターで戸惑った。部屋のカードキーを所定のところにかざさないとエレベーターは動かない。セキュリティのひとつなんだろうけど他の人が乗り込んできたらあまり意味がないようにも思えたが。

部屋に入って窓の外を眺めると、「スカイツリー」が見える。そして喫煙ができる部屋。予約でそうしていたがこれもうれしい。


荷物を置いて夕食へ。上野駅前に立ってどこへ行こうかと思案する。この日は日曜日。夜になっても人出は多い。「アメ横」をめざし歩いて若者の多さに圧倒されて、また上野駅に戻る途中「ねぎし」という塩タンを売りにしているレストランに入る。これが大正解。タンと麦とろの定食を注文。量よし、味よし、ビールよし。





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⑬市振5月24日(火)

2022-07-17 19:10:03 | 日記
この頃はどのホテルも全室禁煙で、「親知らず観光ホテル」もそうでしたが、喫煙ルームはありました。それも20畳ほどのタバコを吸いながら海を眺めることのできるリッチな部屋でした。

この部屋で、翡翠を取りに来ている青年と出会いました。静岡から車で、それも月に1~2回は通っているそうです。
「翡翠は取れますか?」と聞くと
「僕は海に潜って取るのです。浜辺より確率は高いです」と言います。夕食時、食堂のテーブルに付いている人たちは一人客が多く翡翠取りを目的に宿泊している人たちではないかと思えてくるのでした。この日は月曜日、並の観光客でないのは確かです。

24日の朝、宿のオーナーの尾崎さんに「市振」村落の入り口まで送ってもらいました。車を降りると道祖神と一本松に迎えてもらいました。道は二手に分かれ浜辺の道をたどりました。





するとまもなく、浜辺にいる二人の男性を見ました。お一人は海際を、もうお一人は浜辺を、どちらも頭を傾げてゆっくり歩いています。浜辺にいる男性に声をかけました。
「翡翠探しですか?」
「いやあ、僕は違います。形のいい石を探しているのです。あの人は翡翠を探しているようですが」と言って近づいてこられました。

「旅行で来られた人に石のプレゼントなんかしているんですよ。糸魚川市の市会議員をしています。芭蕉が泊まった宿「桔梗屋」の当主13代目です」と自己紹介されました。

一つ家に 遊女も寝たり 萩と月
芭蕉は東北から北陸を経て大垣に向かうその一夜、市振に宿泊しました。その時、遊女と同宿になり詠んだ句です。

私は、この句は知っていました。散歩の歩数を距離に換算して地図上の「奥の細道」行をしたことがあって、出羽から最上に向かう山越えの関(尿前)をようよう越えた芭蕉が宿で詠んだ
のみしらみ 馬の尿する 枕もと
と、ともに印象に残る句であったからです。

えっ、芭蕉の泊まった宿屋の末裔の人! これは案内していただきたい、と思ったのですがこの方(和泉克彦さん)にもご用事があるだろうし、私たちも乗る予定の電車時刻に遅れるわけにはいかないので、この浜辺でおいとましました。




浜辺の道を歩き続けて、駅への道からそれてしまい通り人に尋ねてなんとか駅にたどり着きました。電車が来るまで駅の外で案内板を見ていますと、




和泉さんが車でやって来たのです。そして、浜辺で取った石を手渡されました。そこには
「ようこそ市振へ 2022.5.24 ありがとう」と記されていました。

これで⑬までつないだ「松本・親知らず旅行記」を終わります。ヤレヤレですか~(^▽^)

追記1:親知らずの第一世代の道は今どうなっているのか、ですが、ホテルの尾崎さんであったか、和泉さんであったかどちらかから聞いたことで、海はずいぶん岸壁に迫ってきている、ということでした。
どれくらい昔か分かりかねますが新旧の写真がありましたのでご覧ください。「親知らず子知らず」今は通しては歩けませんね。



追記2:市振から金沢へは、新潟県部分は「えちごトキめき鉄道ヒスイライン」富山県部分は「あいの風とやま鉄道」石川県部分は「IRいしかわ鉄道」と、それぞれ各県ごとに設立された第三セクターが鉄路をしきっています。ネーミングに惹かれても青春⑱切符は使えません。喫煙者であり鉄道愛好者の私はどんどん窮屈になっていきます。
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⑫親不知散策その2 5月23日(月)

2022-07-14 14:11:29 | 日記
北アルプスが日本海のなだれ込む断崖をどうして「親不知、子不知」と名付けたのか?私が疑問もなく思っていたのは断崖の磯路を襲い来る波濤をにおびえ、時に波に穿たれた洞穴に逃げたりして、親は子どもをかまう余裕もなく、子は脇目もふらず走り抜ける。それが親知らず子知らずの所以ではないか、思っていました。ところが、ここに来て次のような伝承を知りました。


今から八百年前の源平盛衰の昔 越後の五百刈村へ移り住んだ平頼盛の後を追って、この地を通った夫人が懐の愛児を波にさらわれ、悲しみのあまりこの歌を詠みました。
親しらず 子はこの浦の 波まくら
越路の磯の あわと消えゆく


私たちは「四世代道」のうちの第二世代、明治16年(1883年)完成の道路を歩いています。それでは第一世代の磯路はどうなっているのか、それを今から観に行くところです。

遊歩道は旧八号線の国道です。しかし道は狭い、車同士のすれ違いは難しいでしょう。そして、刀で引き裂いたような巨岩屹立しています。その下には整備はされていても人以外は通らないのか、野草が巨大に茂っています。






ここで師匠の登場を願いたい。自分で調べたところ花の咲いているのは「ドクニンジン」、巨大な葉で圧倒してくるのは「オオイタドリ」ではないかと思うのですがいかがですか?

やがてこの遊歩道から下に降りていく階段のところに来ました。案内では「旧北陸線のレンガトンネル」とあります。




これは行かないと、それに磯路も見られるかもしれないという期待を持って下りました。当たり前のことですが急な階段なのです。手すりにしがみつくように下りました。10分かかったかかからなかったか、トンネル入り口にたどり着きました。見上げたトンネルは廃線の歳月を偲ばせる「寂」のトンネルでした。


トンネルの長さは約600m、漆黒のトンネル内にわずかな灯りがともされています。そして出口かずっと向こうに光が見えます。トンネル内を散策できるように懐中電灯やローソクが置いてありましたが、入っていくなんて、とてもそんな気が起こりませんでした。怖さが勝りました。


断崖縁の道はここから確認できませんでした。樹木が密集し、その隙間から海が見えるだけです。また下っていく道もありません。事故防止・安全上そうしているのだろうと思いました。

*「断崖縁の道」はどうなっているのか、自分の目で確かめることはできませんでしたが、次の日、そのヒントを「市振」の浜辺の人に聞きましたので、それは次回にふれます。また、先輩からメールで
「糸魚川の翡翠についてももう少し聞きたい気がしました。海岸線で丹念に探すと翡翠のカケラが見つかるそうですよね。」
とご返事をいただきました。それもまた次回でふれてみたいと考えています。
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【7月10日、趙博創作浪曲「医師・中村哲」を追い求めて】

2022-07-12 21:03:18 | 日記
 東京駅から上野へ、上野から地下鉄・日比谷線で南千住へ。日光街道と明治通りの交差点「泪橋」に立ったときは午後1時前だったか。




 この泪橋という地名に心揺さぶられるのは私だけではないだろう。山谷の北外れ、泪橋の下に丹下ボクシングジムがあって、明日のジョーは力石徹との対決にそなえた。しかしそれは物語の設定で実際には橋はなく川は暗渠となっている。
もう一つ、江戸時代には刑場(小塚原)があり、獄門死罪となる罪人と縁者はこの橋で永久の別れに泪を流したという。それで泪橋。




 この泪橋から「泪橋ホール」は50メートルもなかったか、ホールの前に来たとき「大きな声が中から聞こえてきた。馴染みある趙博さんの声、この人は体が大きければ声も大きい。


 早すぎた到着に今日渡すビラを折っていた趙博さんもびっくりした様子。
「来ましたで、趙博さん」と声をかけ、僕は喉が渇いていたのでビールをお店の人に注文。これから熱演する趙博さんには不謹慎と思ったけど、趙博さんは
「どうぞどうぞ」と勧めてくれた。お店のオーナーの女性、多田さんも加わってもらって、この泪橋ホールや山谷の説明をしてもらったりしているうちに趙博さんは衣装を整えて再登場。僕は、思わず
「馬子にも衣装」と言ってしまった。


 この衣装は大柄な趙博さんには着物仕立てができなくて作務衣である。作務衣であるが生地は絹で漆黒な生地に般若の絵柄が映えている。凜とした佇まいに趙博さんに意欲が表れている。

 昼食が未だだったのでホールを出て食堂を探した。ここは山谷の中心部だと思うけど、小さなホテルが軒並み続くけど、こぎれいな町と言ってよく寄せ場の様子はどこにも感じ取れない。おまけに食堂・喫茶店もなく泪橋周辺をぐるぐると歩いた。山谷散策は浪曲「中村医師」の鑑賞後、予定していた行動であったが前倒しということになった。

 そんな中、ああ、山谷だという場所に出会った。キリスト教会の前かそこでの炊き出しと「労働福祉会館」である。しかしひっそりしていて釜ヶ崎とはずいぶん違う。その釜ヶ崎も知るところずいぶん寂しくなってきた、と感じているが。




 2時半、3時からの開演を意識して早めにホールに戻った。ホールの中に入ってびっくり、ずいぶん大勢の人が既に入っている。ホールのオーナーの多田さんは席を確保してくれていた。

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