昨日の問題の解答、蓮如像の作者を言います。高村光雲、高村光太郎の父です。この吉崎御坊にある蓮如像は1934年(昭和9年)に設置されています。光雲が亡くなったのも1934年。そうすると最晩年の作品ということになるでしょうか。
さて、御坊跡を下って、午後1時半過ぎの遅い昼食をこの「餐坊食堂」でとりました。
入った時、客どころかお店の人もいません。完全に開店休業状態。空腹の焦りもあって、何回か声を掛けますとようやくお店の人が出てきました。山菜蕎麦を注文し、持参のおにぎりを食べてもよいかと許可をとり、先払いと言われたのでそうしました。この後、お店の人と声を交わすことはありませんでした。「ごちそうさま」と出ていく前に声を掛けようとすると、店の奥の方からテレビの音が聞こえました。
来た道を戻っていくとまたあの「嫁脅し肉付き面」の吉崎寺の前を通ります。そこに「蓮如上人を背負う慶聞坊」の像があります。御坊の火事のときに慶聞坊が蓮如上人を背負って避難したという伝承に由来するとあります。慶聞坊とは蓮如の側近のお弟子さん、蓮如、この時56~57歳。生涯に5度の結婚をし、男子13人・女子14人の計27子を儲け、85歳の長命でした。だとしたら、背負われなくても自分の足で十分避難できたのではないか、と思うのです。ここにもおえらいさんの傲慢さを感じるのは僕だけでしょうか。
吉崎御坊に来る時にバスの運転手さんに教えてもらったバス停に着きましたが、バスの到着まで20分以上の時間があります。それで一つ先のバスの終点である「塩屋」まで行くことにしました。バスの時刻表によればここ吉崎と塩屋は1分の違いです。バスで1分の距離なら歩いて10分もかかりませんよね。大聖寺川や長閑な周りの景色を楽しみながら15分も歩いてでしょうか、しかしまだその始発のバス停を見つけることができなかったのです。途中、公民館のようなところで道順を聞いてたどり着くことができました。
バス停間、バスの時刻表にして1分、距離にして1000m以上、この数字のマジックを僕らはこの後、経験することになります。ビデオに撮りました。体験を共有してください。僕らはこのバスで吉崎御坊を後にしました。みなさんはこの駄文からようやく解放されることになります。(完)2018.6.6
https://youtu.be/mIsIqTNGfVM
さて、御坊跡を下って、午後1時半過ぎの遅い昼食をこの「餐坊食堂」でとりました。
入った時、客どころかお店の人もいません。完全に開店休業状態。空腹の焦りもあって、何回か声を掛けますとようやくお店の人が出てきました。山菜蕎麦を注文し、持参のおにぎりを食べてもよいかと許可をとり、先払いと言われたのでそうしました。この後、お店の人と声を交わすことはありませんでした。「ごちそうさま」と出ていく前に声を掛けようとすると、店の奥の方からテレビの音が聞こえました。
来た道を戻っていくとまたあの「嫁脅し肉付き面」の吉崎寺の前を通ります。そこに「蓮如上人を背負う慶聞坊」の像があります。御坊の火事のときに慶聞坊が蓮如上人を背負って避難したという伝承に由来するとあります。慶聞坊とは蓮如の側近のお弟子さん、蓮如、この時56~57歳。生涯に5度の結婚をし、男子13人・女子14人の計27子を儲け、85歳の長命でした。だとしたら、背負われなくても自分の足で十分避難できたのではないか、と思うのです。ここにもおえらいさんの傲慢さを感じるのは僕だけでしょうか。
吉崎御坊に来る時にバスの運転手さんに教えてもらったバス停に着きましたが、バスの到着まで20分以上の時間があります。それで一つ先のバスの終点である「塩屋」まで行くことにしました。バスの時刻表によればここ吉崎と塩屋は1分の違いです。バスで1分の距離なら歩いて10分もかかりませんよね。大聖寺川や長閑な周りの景色を楽しみながら15分も歩いてでしょうか、しかしまだその始発のバス停を見つけることができなかったのです。途中、公民館のようなところで道順を聞いてたどり着くことができました。
バス停間、バスの時刻表にして1分、距離にして1000m以上、この数字のマジックを僕らはこの後、経験することになります。ビデオに撮りました。体験を共有してください。僕らはこのバスで吉崎御坊を後にしました。みなさんはこの駄文からようやく解放されることになります。(完)2018.6.6
https://youtu.be/mIsIqTNGfVM