(^_^)

2017年2月からこのブログを始めました

山代温泉・吉崎御坊⑩

2018-06-06 17:08:24 | 日記
昨日の問題の解答、蓮如像の作者を言います。高村光雲、高村光太郎の父です。この吉崎御坊にある蓮如像は1934年(昭和9年)に設置されています。光雲が亡くなったのも1934年。そうすると最晩年の作品ということになるでしょうか。

さて、御坊跡を下って、午後1時半過ぎの遅い昼食をこの「餐坊食堂」でとりました。

入った時、客どころかお店の人もいません。完全に開店休業状態。空腹の焦りもあって、何回か声を掛けますとようやくお店の人が出てきました。山菜蕎麦を注文し、持参のおにぎりを食べてもよいかと許可をとり、先払いと言われたのでそうしました。この後、お店の人と声を交わすことはありませんでした。「ごちそうさま」と出ていく前に声を掛けようとすると、店の奥の方からテレビの音が聞こえました。


来た道を戻っていくとまたあの「嫁脅し肉付き面」の吉崎寺の前を通ります。そこに「蓮如上人を背負う慶聞坊」の像があります。御坊の火事のときに慶聞坊が蓮如上人を背負って避難したという伝承に由来するとあります。慶聞坊とは蓮如の側近のお弟子さん、蓮如、この時56~57歳。生涯に5度の結婚をし、男子13人・女子14人の計27子を儲け、85歳の長命でした。だとしたら、背負われなくても自分の足で十分避難できたのではないか、と思うのです。ここにもおえらいさんの傲慢さを感じるのは僕だけでしょうか。


吉崎御坊に来る時にバスの運転手さんに教えてもらったバス停に着きましたが、バスの到着まで20分以上の時間があります。それで一つ先のバスの終点である「塩屋」まで行くことにしました。バスの時刻表によればここ吉崎と塩屋は1分の違いです。バスで1分の距離なら歩いて10分もかかりませんよね。大聖寺川や長閑な周りの景色を楽しみながら15分も歩いてでしょうか、しかしまだその始発のバス停を見つけることができなかったのです。途中、公民館のようなところで道順を聞いてたどり着くことができました。

バス停間、バスの時刻表にして1分、距離にして1000m以上、この数字のマジックを僕らはこの後、経験することになります。ビデオに撮りました。体験を共有してください。僕らはこのバスで吉崎御坊を後にしました。みなさんはこの駄文からようやく解放されることになります。(完)2018.6.6
https://youtu.be/mIsIqTNGfVM
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山代温泉・吉崎御坊⑨

2018-06-05 21:11:13 | 日記



御坊跡への石段を7~8分ほど上がりますと小山の頂上に着きます。そこは御坊建設時に均したのでしょう、台地のようになっています。北方の眼下の景色を眺めますと、北潟湖、その向こうに日本海、吉崎御坊は山城であったことがよくわかります。「一旦緩急あらば・・・」加賀の門徒たちはここを拠点にしたのでしょう。*註:教育勅語では「一旦緩急あれ(・)ば」と文法の誤りをおかしています。


御坊の跡には石碑が建てられ、周りが石柱で囲われています。200㎡ほどの広さに、これが御坊の跡かと、意外に狭い印象を持ちました。蓮如は比叡山の圧迫を逃れてここ吉崎に1471年にやってきます。蓮如の布教活動は成功しますが、門徒たちは封建領主との闘いを激化させ、それを良しとしない蓮如は1475年吉崎を去ります。吉崎滞在期間を1474年~75年の説もあり、いずれにしても短期間の滞在でした。


この御坊跡から、台座を入れると高さが10mはあるかと思われるほどの大きな銅像が見えます。蓮如の像です。近づけばその威容と異様が迫ってきます。浄土真宗はその宗教性からあまり聖人の銅像は必要ないと、僕は思うのですが蓮如さんだけは違います。調べてみると近畿各地に20体ぐらいあります。その中でもこの吉崎の銅像は巨大さで一番ではないかと思います。


さて、ここで問題です。この蓮如像の作者は誰かということです。おそらく、みなさんはこの作者より、作者の息子さんの方をよく知っていると思います。彫像家であり詩人です。日本の侵略戦争を賛美した芸術家であり、戦後、その反省を自らに課し隠遁生活をしました。調べればすぐに分かってしまいます。直感を頼りにしてください。
*解答は次回の冒頭に。(どこまで引っぱるねん!)2018.6.5
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山代温泉・吉崎御坊⑧

2018-06-04 14:50:48 | 日記

この写真はいいでしょう。本願寺派の寺院と大谷派の寺院との間にある小道、向こうから鐘楼が覗いています。この道が吉崎御坊跡に続きます。僕は前回も言いましたが本願寺派と大谷派を分け隔てることを良しとせず(笑)、この道を通り過ぎ、大谷派の吉崎別院の階段を上がったのでした。





京都の両本願寺といい、この吉崎別院といい、本願寺派と大谷派は見事にその規模・たたずまいが鏡を見るように二分されています。僕は浄土真宗が東西に二分されているのは、信長の苛烈な石山本願寺攻めによる徹底抵抗派と投降派の分岐に始まるとずっと思っていました。しかし、どうも違うんですね。本願寺の跡目争いに付け込んで、本願寺の勢力を弱めるために家康がもう一人の相続人のため東本願寺を作らせた、あるいは作ることを許可したのがどうも実相らしいです。俗世の権力から宗教人の矜持・信徒を守り切るドラスティックなものと思っていただけに、ちょっと肩すかしを受けたような気がしました。

脱線ついでにもう一つ。自宅近くに「定専坊」というお寺があります。毎月1日、このお寺からおまいりをいただいています。石山本願寺がおちたときにこの定専坊に梵鐘が運ばれました。大晦日に信徒ならずとも近隣の人が百八つの鐘をつきに来ます。ひびが入っているのか鐘の音は「グワ~ン」と濁音なのです。さらにもう一つ、このお寺には楠木正成の孫の「正勝」が隠棲していたらしく、お墓があります。興味を持たれましたら、信徒である(笑)私がご案内します。


閑話休題。大谷派の吉崎別院の境内をぬけて、御坊跡に向かいました。その途中にあるのが大谷派願慶寺、本願寺派吉崎寺とそれぞれに「嫁脅し肉附き面」があります。ここでもお互いに向こうをはっているのですかね。


御坊跡、どのようなところか、またそこから、どのような眺望が開けているのかワクワク感をもってこの階段を上がって行きました。2018.6.4
コメント (1)
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