上田 巍先輩を悼む
その人は、講堂の真ん中あたりの座席から立ち上がり演壇に向かった。そして演壇下に設置されていたマイクを取ってこう言った。
「勝利判決に酔いしれていてはいけません。解放教育、解放運動の中間総括をしなければなりません。この高殿小学校でも同和教育推進校としてりっぱな建物・施設が実現しました。そして屋上にプールが建設されたことを運動の成果と称賛する人がいます。果たしてそうでしょうか。身体障碍者にとってそれはどういう意味を持つのか、解放の対象者は誰なのか、問うことなしに解放教育・運動は前進しません」
1975年6月、大阪市立高殿小学校でもたれた矢田教育差別事件地裁勝利判決祝賀会の場面であり、その人とは上田 巍さんでした。民間会社から転職し小学校教師になって3か月目、上田 巍さんという存在を知った初めての出来事でした。
この時、上田さんは大阪市教組城北支部の書記次長でなかったかと思います。専従ではなく同和教育推進校の城北小学校で仕事をされていました。城北小学校は私の初任校であった淀川小学校の隣接校で城北小の青年部から招待を受け、城北小へ出かけて行ったことがありました。職員室に入り「青年部の交流会に来たのですが」とその場にいた教師に声をかけると、はたしてそれが上田さんでした。
上田さんは、振り返って「たしかその校舎の三階の教室だと聞いてるが」と、座ったままその校舎を指さしました。実にそっ気がない対応でした。(笑)
私は上田さんに出会うまで、日教組にそれほど魅力を感じていませんでした。その理由は以下の文章で推測してもらうことにして、とにかく、高殿小学校での上田発言は私には衝撃的でした。日教組に思想運動(闘争)が確かにあるんだと感動したのでした。
それ以降、私も組合(労働)運動活動家として歩き始めました。支部青年部は日本共産党のみなさんが執行部を握っていました。大胆に色分けするなら社会党ブロックの私たちは反戦運動と解放教育で共産党執行部を激しく攻撃していました。自主教研も行うように城北支部青年部は二重権力状態でした。次の年1976年、私は青年部常任委員になり活動に一層力点を置くようになりました。そして10月21日国際反戦デーのデモで逮捕されました。この時警察のガサ入れ等の防衛のため私の自宅に大勢の仲間が詰めかけてくれ、その指揮を執ってくれたのが上田さんでした。
このように上田さんとは私にとって尊敬と感謝の対象でした。この心情は今に至っても変わりません。
この年の暮れ在日韓国青年母国留学生が大挙逮捕されるという事件が引き起こされます。私の勤めていた淀川小学校出身者も逮捕されました。組合のバックアップを受け救援運動を立ち上げました。この時、上田さんは一歩引いておられました。「自国帝国主義と闘うのが日本の労働者の本分」というのが上田さんの主張でした。実は60年代李承晩を大統領から引きずり落した学生革命の指導者金芝河もこう言っていたのでした。「日本のみなさん、自らの敵と闘ってください。それが日韓の連帯です」と。
その次の年、私は青年部長となり組合事務所に出入りすることが多くなり書記長である上田さんと話しする機会も多くなりました。対府(大阪府)闘争、賃金闘争を巡って共産党のみなさんとも激しくやりあいました。赤字再建団体転落防止、黒田革新府政をまもれ、が共産党の主張でした。自民党保守反動の力が増す中、この主張は一定の意味を成すものでしたが、上田さんは「だれが首長であろうと我々は労使の関係に立つ」と確信をもって組合を牽引されていました。
1978年私は支部執行部に入り、上田さんとの関係を一層深めました。このころは主任制が各県レベルで突破され、北海道や兵庫、大阪、沖縄などくい止めているところはわずかになっていました。もはや日教組中央は指導性をなくし、いや主任制を調和的に受け入れる路線になっていました。大阪市教組もしかり、支部執行部内でも主流派と上田さんたち私たちとの路線のちがいが明確になり亀裂が拡大していきました。
一方労働戦線の右翼再編(全民労協)が顕在化し、日教組は右翼再編の枠組みに入ろうとしていました。その先頭を切っていたのが大阪市教組でした。少数派の私たちには執行部内で奮闘することに限界がありました。このままでは市教組の右翼路線に包摂され、お先棒を担がされてしまう、上田さんを先頭として私たちは執行部から離脱し、自前の運動体を持つことを決意しました。それが「教育労働運動活動者会議」略称教労活(きょうろうかつ)です。
活動組織を「教育労働運動活動者会議」と命名したのは上田さんでした。
上坂さん、池口さん、足立さん、木庭さん、寺裏さん、松本美恵子さん、樋口たちは当初からのメンバーであり、宗宮さんたち事務職員の仲間、青年部の仲間からも教労活への合流があり、主任制攻撃跳ね返し、闘う城北支部を作ろうと、役員選挙にも打って出ました。そして闘う舞台を市教組にも広げようと反主任制闘争委員会を創生しました。さらに日教組が連合に吸収される状況が迫る中、闘う総評運動を継承しようと反連合行動委員会へ発展改組しました。松本さんや沢村さんたちが加わってくれたのはこの時期でないかと思います。そして、この過程で大阪府下においてで連合反対の意思を共有する仲間との交流が始まりました。それが大阪教育合同労働組合の結成へと結実していきます。
上田さんはこれらの過程で一貫して組織の代表者として闘いの方向を明示し、私たちをサポートしてくださいました。上坂さんから1月8日、上田さんが昨年9月に亡くなられたと聞いて「しまった!ご無沙汰が過ぎてしまった」と後悔するとともに先に述べた上田さんとの思い出が湧き上がってきました。
上田さんのおつれあいの洋子さんからお手紙をいただきました。そこには9月27日逝去された上田さんのご様子が書かれていました。
上田さんにとって無念の死であったかもしれませんが洋子さんをはじめご家族のみなさんの献身的な看護の中で最期を迎えられたのでした。
上田さん、お世話になりました。40年以上のご指導ありがとうございました。どうか安らかにお眠りください。2019年1月27日 中野 修
酒毒に侵されていたころ、10年以上も前、上田さんと洋子さんが「体をいとえ」とわざわざ拙宅に持ってきてくださったアロエ、初めて花を咲かせました。
その人は、講堂の真ん中あたりの座席から立ち上がり演壇に向かった。そして演壇下に設置されていたマイクを取ってこう言った。
「勝利判決に酔いしれていてはいけません。解放教育、解放運動の中間総括をしなければなりません。この高殿小学校でも同和教育推進校としてりっぱな建物・施設が実現しました。そして屋上にプールが建設されたことを運動の成果と称賛する人がいます。果たしてそうでしょうか。身体障碍者にとってそれはどういう意味を持つのか、解放の対象者は誰なのか、問うことなしに解放教育・運動は前進しません」
1975年6月、大阪市立高殿小学校でもたれた矢田教育差別事件地裁勝利判決祝賀会の場面であり、その人とは上田 巍さんでした。民間会社から転職し小学校教師になって3か月目、上田 巍さんという存在を知った初めての出来事でした。
この時、上田さんは大阪市教組城北支部の書記次長でなかったかと思います。専従ではなく同和教育推進校の城北小学校で仕事をされていました。城北小学校は私の初任校であった淀川小学校の隣接校で城北小の青年部から招待を受け、城北小へ出かけて行ったことがありました。職員室に入り「青年部の交流会に来たのですが」とその場にいた教師に声をかけると、はたしてそれが上田さんでした。
上田さんは、振り返って「たしかその校舎の三階の教室だと聞いてるが」と、座ったままその校舎を指さしました。実にそっ気がない対応でした。(笑)
私は上田さんに出会うまで、日教組にそれほど魅力を感じていませんでした。その理由は以下の文章で推測してもらうことにして、とにかく、高殿小学校での上田発言は私には衝撃的でした。日教組に思想運動(闘争)が確かにあるんだと感動したのでした。
それ以降、私も組合(労働)運動活動家として歩き始めました。支部青年部は日本共産党のみなさんが執行部を握っていました。大胆に色分けするなら社会党ブロックの私たちは反戦運動と解放教育で共産党執行部を激しく攻撃していました。自主教研も行うように城北支部青年部は二重権力状態でした。次の年1976年、私は青年部常任委員になり活動に一層力点を置くようになりました。そして10月21日国際反戦デーのデモで逮捕されました。この時警察のガサ入れ等の防衛のため私の自宅に大勢の仲間が詰めかけてくれ、その指揮を執ってくれたのが上田さんでした。
このように上田さんとは私にとって尊敬と感謝の対象でした。この心情は今に至っても変わりません。
この年の暮れ在日韓国青年母国留学生が大挙逮捕されるという事件が引き起こされます。私の勤めていた淀川小学校出身者も逮捕されました。組合のバックアップを受け救援運動を立ち上げました。この時、上田さんは一歩引いておられました。「自国帝国主義と闘うのが日本の労働者の本分」というのが上田さんの主張でした。実は60年代李承晩を大統領から引きずり落した学生革命の指導者金芝河もこう言っていたのでした。「日本のみなさん、自らの敵と闘ってください。それが日韓の連帯です」と。
その次の年、私は青年部長となり組合事務所に出入りすることが多くなり書記長である上田さんと話しする機会も多くなりました。対府(大阪府)闘争、賃金闘争を巡って共産党のみなさんとも激しくやりあいました。赤字再建団体転落防止、黒田革新府政をまもれ、が共産党の主張でした。自民党保守反動の力が増す中、この主張は一定の意味を成すものでしたが、上田さんは「だれが首長であろうと我々は労使の関係に立つ」と確信をもって組合を牽引されていました。
1978年私は支部執行部に入り、上田さんとの関係を一層深めました。このころは主任制が各県レベルで突破され、北海道や兵庫、大阪、沖縄などくい止めているところはわずかになっていました。もはや日教組中央は指導性をなくし、いや主任制を調和的に受け入れる路線になっていました。大阪市教組もしかり、支部執行部内でも主流派と上田さんたち私たちとの路線のちがいが明確になり亀裂が拡大していきました。
一方労働戦線の右翼再編(全民労協)が顕在化し、日教組は右翼再編の枠組みに入ろうとしていました。その先頭を切っていたのが大阪市教組でした。少数派の私たちには執行部内で奮闘することに限界がありました。このままでは市教組の右翼路線に包摂され、お先棒を担がされてしまう、上田さんを先頭として私たちは執行部から離脱し、自前の運動体を持つことを決意しました。それが「教育労働運動活動者会議」略称教労活(きょうろうかつ)です。
活動組織を「教育労働運動活動者会議」と命名したのは上田さんでした。
上坂さん、池口さん、足立さん、木庭さん、寺裏さん、松本美恵子さん、樋口たちは当初からのメンバーであり、宗宮さんたち事務職員の仲間、青年部の仲間からも教労活への合流があり、主任制攻撃跳ね返し、闘う城北支部を作ろうと、役員選挙にも打って出ました。そして闘う舞台を市教組にも広げようと反主任制闘争委員会を創生しました。さらに日教組が連合に吸収される状況が迫る中、闘う総評運動を継承しようと反連合行動委員会へ発展改組しました。松本さんや沢村さんたちが加わってくれたのはこの時期でないかと思います。そして、この過程で大阪府下においてで連合反対の意思を共有する仲間との交流が始まりました。それが大阪教育合同労働組合の結成へと結実していきます。
上田さんはこれらの過程で一貫して組織の代表者として闘いの方向を明示し、私たちをサポートしてくださいました。上坂さんから1月8日、上田さんが昨年9月に亡くなられたと聞いて「しまった!ご無沙汰が過ぎてしまった」と後悔するとともに先に述べた上田さんとの思い出が湧き上がってきました。
上田さんのおつれあいの洋子さんからお手紙をいただきました。そこには9月27日逝去された上田さんのご様子が書かれていました。
上田さんにとって無念の死であったかもしれませんが洋子さんをはじめご家族のみなさんの献身的な看護の中で最期を迎えられたのでした。
上田さん、お世話になりました。40年以上のご指導ありがとうございました。どうか安らかにお眠りください。2019年1月27日 中野 修
酒毒に侵されていたころ、10年以上も前、上田さんと洋子さんが「体をいとえ」とわざわざ拙宅に持ってきてくださったアロエ、初めて花を咲かせました。