(^_^)

2017年2月からこのブログを始めました

今日のビラ入れ

2022-03-28 12:29:49 | 日記
 僕は、ビラ入れをするときビラの趣旨に合うゼッケンをしていきます。今回は前面に「ウクライナに平和を」後面に「戦争はあかん」。ゼッケンを着用する狙いは、こそこそとビラ入れをしているのではないという印象と何のビラを入れているのかアピールするためです。


 今日は家の近くに403枚のビラ入れをしました。最後になるマンションに向かうとき「ビラが足りるか、余るか」わくわくしました。最後の1枚が最後の郵便受けに収まりました。奇跡、気持ちがいい!

 つれあいと2人でビラ入れをしていたのですが、途中、僕のゼッケンを見たのか「ウクライナ、心配です」と言って、明治牛乳の勧誘員さんが近づいてきました。それからロシア・プーチンの話から日本の社会状況など、どんどん話してくるではありませんか。10分以上も話していたでしょうか、つれあいが戻ってきましたので、
「また、どこかでお会いしたら声をかけてください」と言って次へ行こうとするとヨーグルト飲料を3本取り出されて手渡されました。




 こんなこともあるのです。
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無料PCR検査②

2022-03-27 18:35:15 | 日記
いぶかしげな会場で僕はPCR検査を受けました。自分が濃厚接触者と言えるかどうかはわかりませんが、検査結果が陽性なら行動は控える必要があるということと無料検査がどんなものか興味があったからです。無料検査を受ける以上ある程度、自己情報をださなければなりませんが、検査結果まで捏造はされないだろう、それによってコロナ禍の行動の指針となればと判断したわけです。

それに加えて、かかりつけのクリニックに状況説明とできたらPCR検査を受けたいと申し出ていたところ、「体調に変化がない以上できません」との回答があったことも理由の1つになります。そして保険適用のない有料検査では2万円以上かかることもネットで調べ確認していました。およそ以上で、ただほど怖いものはない、を押し切って無料検査を受けることにしました。

26日午前9時半、会場のテントには受付の女性が1人居るだけで、検査を受ける人は誰もいませんでした。まず大阪市民・府民であることの証明を求められパスポートを見せました。それが確認されると抗原検査のキットを渡されます。テント内を6つに区切ったコーナーに入り説明の掲示と手元のキットを見比べながら使い方を確認しようしたのですが全然わかりません。係の女性に「使い方がわからないのですが」と尋ねると
「それはPCR検査の説明の掲示です。抗原検査はこっちの掲示です」とコーナーをでたところの掲示を示されました。


「渡したときに言ってくれよな」と言いたくもなりましたが。掲示を見ながらこの綿棒はどれくらい鼻の奥に入れたらいいのだろう、何回ぐらいこすりつけたらいいのだろう、でこの綿棒、後どうするの?と後ろにいる女性に聞きながら悪戦苦闘でした。
それが終わるとPCR検査のキットをもらって、今度はちゃんとコーナーに入って作業。ところが説明には容器の半分から2/3ぐらい入れると書いてあるのですが、自分の出した唾液がどれくらい入っているのか見えないのでテントの外へ出て透かしてみて確認、次にその容器にシールを貼りビニル袋にくるむのですが、シールを剥がすのに一苦労、ビニル袋の口を開けるのにまた一苦労。(レジ袋の口を開けるときのあの苦労(^▽^)
次に検査結果を送ってくれるメールアドレスの登録があり、ここでも眼鏡が曇りミスタッチの繰り返し。すべてを終わりテントから出るのに1時間はかかりましたかね。

これはこと僕だけでなく後から年配の女性がやって来ましたがほぼ僕と同じ苦労している様子がうかがえました。ただし、係の女性は僕たち年寄りの戸惑いに丁寧に説明を繰り返してくれたことは付言しておきます。

検査結果は29日(火)に「医療法人社団直悠会 にしたんクリニック」から送ってくれることになっています。

そして検査をした今も、この無料検査を主催している「GCUBE」という会社にはどんなメリットがあるのだろう、企業宣伝であるならもっと宣伝色をだしてもいいだろうにと考えてしまいます。自分のこととしては、提供した個人情報、特にメールアドレスに飛び込んでくるメールには注意をしなければならないと思っています。

なお、即時に結果の出る抗原検査は陰性でした。ヤレヤレ。


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無料PCR検査①

2022-03-26 20:15:55 | 日記
小学校4年生の女の子と6月に3歳になる男の子がコロナ陽性になってしまいました。二人とも熱が出て一日二日はしんどかったと思いますが、今は日常生活を送れるぐらい回復しています。

3月20日、1月につれあいをなくした姉が泊まりに来るということで、集まれる者が集まって会食しました。どうもその時に孫は感染したようです。誰が感染源であったのかわからないし、確かめる気もありません。

僕ら夫婦はなんの症状も現れませんでした。念のためPCR検査を受けようかと考えていたとき、孫の女の子のお母さんから無料でPCR検査をしてくれるところが近くに開設されたと情報をくれました。本当に近くです。歩いて5分ぐらいのところにその検査会場があるのでした。今日お話ししたいことはそのことです。

つれあいが昨日、その検査会場で抗原検査とPCR検査を受けました。話を聞いてみたら胡散くさいと言ったらありゃしません。会場は道路際のマンション前のわずかな空間。まず公的機関ではないな、思いました。検査を受けに来る人もなく閑散としています。息子の嫁さんが得た情報は家に入っていたチラシです。






コロナ禍便乗商売かとインターネットで調べました。ヒットしたのはこれです。https://pcr-osaka.jp/
大阪府から認可を受けてPCR無料検査をしているとのことですが、その信憑性も疑わしい。
区役所で確かめようと思いましたが、もう閉庁時間で確認のしようがありませんでした。

つれあいの報告では「セルフで抗原検査とPCR検査をするようになっていて、抗原検査は直ぐに結果を知らせてくれて陰性だった、PCR検査は後日メールで連絡をすることになっていた」。ただし、つれあいのメールは僕が迷惑メール防止のため、登録以外は受け付けないように設定していたのでこれは使えなくて、もし陽性であれば保健所から連絡が入ると言われたそうです。

孫二人がコロナに感染した原因が私とつれあいがキャリアであった可能性も否定できません。PCR検査は受けたい、さて僕はどうしたか。
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㉖レーニンの死 その2 P132~133

2022-03-13 20:56:43 | 日記
 スターリンが打ち出す追放の陰謀に、手を打たないトロツキー。彼は黒海の畔の静養地でレーニンの死を悲しみ、思い出にふけっていました。そこに、レーニンの未亡人のクループスカヤから手紙が届きます。

「親愛なるレフ・ダビドウィッチ
 ぜひお知らせしたいのは、死ぬ一カ月まえレーニンがあなたの本をよんでいたことです。ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)は、あなたがマルクスとレーニンとの特徴をひろいあげているところでよむのをやめて、私に本をわたしてここをもう一度よんでみてくれといいました。彼は私がよむのをじっときいて、それからもう一度自分でよみました。それにもう一つ申し上げたいことが あります。あなたがはじめてシベリアからロンドンにいらっしゃった時以来、ウラジーミル・イリ イッチのあなたにたいする態度は死ぬまでかわりませんでした。レフ・ダビドウィッチ、どうぞまた元気になってください、心からの抱擁をもって 
                                              エヌ・クループスカヤ」                                                                     
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㉕レーニンの死 その1 P131~132

2022-03-11 21:21:46 | 日記
 今、松田道雄さんの「革命家の肖像」を元にトロツキーについて書いていますが、ロシアのウクライナ侵略は歴史的系譜の中にあるように思えてきます。1613年に誕生し、1917年に滅亡したロマノフ朝は領土の拡張を王朝支配の権威として目的化してきました。1917年「帝国主義戦争を内乱へ」と革命に成功したソビエトはこの系譜を断ち切ろうとしましたがスターリン一派によって覆され元の拡張主義へと回帰させてしまいました。歴史に「もし」はないかもしれませんが、ロシアが革命の情念と大義を維持し成長させていたら、本当の民主主義を樹立していたなら、プーチンのような輩は出てくるはずがないと思うのですが。
 本稿に戻ります。

 一九二三年の末ごろからトロツキーは不明の疾患のために苦しまねばならなかった。第 十三回党大会がひらかれたにかかわらず、トロツキーは静養のため一月十六日、黒海に 面した保養地スフームに出発した。第十三回党大会はトロツキーの「小ブル的偏向」を論議しはじめた。スターリンの書記局は党装置としての機能を十分にはたして、各地から選出されてきたソヴェトの投票権のある代議員一二八人のうち一二五人までが書記局推薦派であった。このときに勝負はきまっていたのだ。
 一月二十一日、スフームにいく途中、チフリスの駅に列車がとまったとき、トロツキーはスターリ ンからの暗号電報をうけとった。レーニンが死んだのだ。崖がくずれて巨巌が海中になだれおちるような感じであった。トロツキーはすぐにスターリンと電話で連絡をつけた。葬儀の日をたずねたのにたいして、スターリンは、すぐきても間に合わない、ゆっくり治療をしたほうがいいといった。だが、それはいつわりであった。トロツキーがすぐに引きかえせば葬儀には間に合ったのだった。
 葬儀の日、モスクワでは、スターリンがレーニンの棺を、後日彼によって粛清されるであろうところの「同志」たちとともに担って行進した。市民は奇異の感をもってトロツキーの不在をながめていた。
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