(^_^)

2017年2月からこのブログを始めました

⑧ 法廷闘争 P88~89

2022-01-31 21:16:21 | 日記
「血の日曜日」を発端とするロシア革命運動は「第一革命」と称されますが、広範な労働者のストを対置したものの確固たる統一指導部を革命側が持っていなかったこと、それにつけ込んだツアーリ側の懐柔と大弾圧で革命側は敗北します。その時、トロツキーは。

逮捕されたソヴェト代議員たちの公判は一九〇六年の十月にひらかれた。裁判所の周囲 はコサックと兵士とによって厳重に警戒された。傍聴者のなかにはトロツキーの両親の顔もみえた。
トロツキーは全被告を代表して陳述することになっていた。傍聴者たちは法廷にたくさんの花をもってきた。裁判官たちは、この「かおりたかい違反」をとがめなかった。出廷したトロツキーの顔は 一年ちかい拘禁にもかかわらず、生き生きとしていた。もう、それは青年の顔でなくおとなの顔であった。一九〇五年の革命の熔鉱炉は彼をプレハーノフからもレーニンからも独立した一人の個性ある革命の指導者にきたえあげたのだった。ペトロパウロ要塞の独房の生活のなかで、彼は何ものにもさまたげられることなく読みかつ書いた。つかれるとヨーロッパ文学の古典やフランス現代小説を読んだ。頭脳明晰な青年がこれだけ準備した陳述に、裁判官がかなうわけがなかった。トロツキーは自分の代表陳述をあとで『一九○五年』という書物にのせたとき、「法廷における私の講義」という標題をつけている。それは革命の権利についての、いままでに出た最高の研究であるといっていい。国家権力とは何か。反乱とは何か。陰謀をとりしまる法律で反乱を罰することが法的に可能であるか。暴力とは何か。革命的状況のもとに発生した二重権力のもとで、ソヴェトと、軍隊の力によってしか行動できなかった政府と、はたしてどちらが暴力を行使したといえるか。傍聴者はもちろん、きいていた裁判官も二十六歳の青年のさわやかな弁舌、透徹した論理、人類の歴史を代表するがごとき自作に、驚嘆してためいきをついた。ロシアには何てすばらしい人間がいるんだろう。お人よしのトロツキーの母は、もうこれで息子は無罪になると信じてしまった。だが十一月二日の 判決は、証人の喚問要求がとおらなかったために被告全員退廷した空の法廷でトロツキーと他の十四人に市民権の剥奪とシベリアへの終身追放をいいわたした。他のソヴェトのメンバーは、無罪となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

⑦ ロシアへロシアへ P82~83

2022-01-30 21:47:07 | 日記
1905年1月9日、サンクトペテルブルグ冬宮に向かって平和行進をしていた人々に向かって、ニコライ2世は軍隊に発砲を命じました。少なくとも1000人以上が殺され、2000人以上が負傷したと言われています。

巡回講演で疲れ切っていたトロツキーがこの事実をジュネーブで知ったのは1月23日でした。ボルシェビキからもメンシェビキからも離れていたトロツキーには情報が届かなかったのだと思います。
そしてもう一瞬たりともロシア国外にいることはできないと焦ります。

トロツキーがロシアに急がねばならなかったのは、彼の革命的本能のゆえだけではない。 - 彼は革命理論家としての理論的責任もあった。一九〇四年の秋、彼はロシアの革命について予言的な理論をつくった。もし、革命が、ブルジョア革命、そのつぎに社会主義革命という順序 でしかおこりえないのだったら、ロシアの社会主義革命のおこるのは、天文学的な遠さにある。しか し、資本主義の発展は不均等である。ロシアは後進国であるがゆえに、西欧と別の道をすすんでいい。ブルジョアに比較してはるかに強いプロレタリアのいるロシアでは、一挙に労働者階級が権力をとる社会主義革命がおこってもいい。そのかわり、それを支援して西欧の先進諸国に社会主義革命がおこらねばならない。革命は一たんおこったならば、民主主義のところで一休みすることなしに、社会主義革命から世界革命にまで進む。これはのちに「永久革命論」として有名になるのだが、ロシアの革命家のもちまえの性急とマルクス主義とを、トロツキーはこういう形で和解させたのだ。ロシアは社会主義革命を身近にひかえているといったかぎり、トロツキーは、ロシアに革命をおこすため労働者階級を動員しにいかねばならぬ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

⑥1903年・・・1905年の「血の日曜日」の2年前 P78

2022-01-29 23:46:47 | 日記
前項で書いた19歳での投獄以来、トロツキーは何度も逮捕され投獄されます。そして獄中でレーニン著の「ロシアにおける資本主義の発達」を読み、レーニンを知ることになります。それから流刑地イルクーツクから脱出しレーニンに会いに行きます。レーニンと行動を共にしますが、革命思想の違いから、また持てる性格の違いから離合をくり返すことになります。レーニンはロシア外にいて革命指導を行いますが、トロツキーはもっぱら労働者大衆の中に入っていこうとします。
余談もいいところですが僕は18年前にイルクーツクに行ったんですよ(*^-゚)

ロンドンに亡命していたロシアの革命家はマルクス主義者ばかりではなかった。ナロードニキもいたし、アナーキストもいた。そういう革命家たちがあつまってホワイトチャペルで立会演説会がもよおされた。トロツキーは「イスクラ」を代表して出演した。ナロードニキを代表してきたのは、一八七三年、「人民の中へ」という有名な学生の農村工作隊の提唱者であったチャイコフスキーであった。 無政府主義派からはチェルケッフがきた。演説会はトロツキーの圧倒的勝利であった。よくとおる声、 聴衆の予感をあやまたずとらえてみごとな言葉に鋳造して瞬間的に投げかえす技術、かならず熱狂の なかに引きこむ悪魔的な力、それは天のつくったアジテーター(煽動家)であった。「イスクラ」の 仲間たちのトロツキーの評価はさらにたかくなり、ヨーロッパ各地にいるロシアからの留学生を獲得 するため、トロツキーに「巡回講演」をさせることにした。ブラッセル、リエージュ、パリと、彼はまわってあるいた。
パリで彼をルーブル博物館に案内してくれたソルボンヌ大学の美術史の女子学生であったナターリア・セードヴァは、それから終生、彼の伴侶となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

⑤ 最初の監獄(P71)

2022-01-28 20:03:28 | 日記
1898年、トロツキーが属していた「南ロシア労働者同盟」が官憲から一斉検挙されました。トロツキーは逃げようとすれば逃げられるのにそうしませんでした。
その理由は一部の指導部が巧みに逃げて労働者が逮捕されたら、官憲は労働者たちに「奴らだけが上手に逃げられるようになっているのさ」と言うだろうと。

トロツキーが逮捕されて最初にいれられたのはニコライエフの監獄であった。この監獄は一時に二百人もの政治犯人をいれる予定でつくられていなかった。トロツキーは 製本屋の職人とあい部屋になった。一月だというので夜だけは床の上に藁ぶとんが敷かれたが、朝の六時きっかりに引きあげていくのだった。トロツキーは外套をきこみ、帽子をかぶり、ゴム靴をはいて、製本屋君と背中をくっつけあわせていた。三週間たつと二人の、すごく体格のいい憲兵がやってきて窓のない馬車にのせてつれていった。古びた建物の独房にほうりこまれた。これがヘルソン監獄 であった。高いところにある小さな窓には、不釣合いな太い鉄格子がはまっていた。散歩もゆるされなければ、隣りの独房は人もいない。一日に配給される水分といえば、夕食のスープと水だけ。あとは 塩と黒パン。着がえもあたえられず三カ月おなじシャツをきていなければならなかった。紙も鉛筆も 不許可だ。だが絶対の孤独も十九歳をむかえたトロツキーの革命への熱情を冷却させなかった。彼は 独房のなかを対角線に一日に千百十一歩あるく義務を自分に課した。そして革命の詩をつくった。ナ ロードニキの詩「棍棒」の替え歌「機械」はここで生まれた。この詩はのちに革命歌集のなかに 読み人知らずとして採録されることになる。今日それをたのしげに歌う人はトロツキーによってつくられた歌であると知らない。その作者の全生命が十月革命にささげられたことはなおさら知らない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

④トロツキー登場

2022-01-27 22:28:18 | 日記
1880年代後半からロシアにおいてアナーキズム、ナロードニキが退潮し、マルクス主義で武装した革命家が台頭してきます。そのメインイベンターとしてレーニン、続いてトロツキーが登場してきました。


ロンドンの十月の朝は、夜があけにくく、人はねしずまっていた。レーニンは妻のクループスカヤとキングス・クロスの近くのホルフォード街十番地に下宿していた。台所と寝室兼書斎との二間きりだった。静かな早朝、突然に表のドアの金具が三度つづけてなった。三度ならす合図を知っているからには同志だ。クループスカヤが大急ぎでとびだしていった。レーニンも目 をさました。
クループスカヤが、ひどくはしゃいだ声で居間のほうに呼びかけた。「あなた、ペロがやってきたんですよ」
レーニンは、はねおきた。国内から、いつもすばらしい原稿を「イスクラ」におくってくるペロというペンネームの青年がとうとうやってきた。ペロをロンドンにくるように何度もいってやったのが、とうとう実現したのだ。
部屋にはいってきたのは、例の近眼の鼻の高い脱走犯人だった。これが、世界でさいしょに社会主義革命をペトログラードで成功させた二人の主役、レーニンとトロツキーとのはじめての出あいであった。このときレーニンは三十二歳、トロツキーは二十三歳。
P65~66
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする