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2017年2月からこのブログを始めました

房総半島4/5周の旅行⑲4月3日(水)鹿島神宮

2019-05-18 19:26:26 | 日記
鹿島に行こうと思った二つ目の理由は鹿島神宮が奈良の春日神社と所縁があるからでした。東国の神が近畿とかかわりがある、なぜか。鹿島神宮の祭神は建御雷命(武甕槌命)です。この神は香取神宮の祭神である経津主命(ふつぬしのかみ)と共に島根大国主命の所に行き国譲りの交渉にあたりました。まあ、大和政権の交渉代理人だったのでしょう。そして鹿島から鹿に乗って奈良に来て春日神社の主祭神になったというのです。つまらぬ講釈はこれぐらいにして鹿島神宮をご案内いたします。


兄弟社の香取神宮と似ています。大きな鳥居が迎えてくれます。そしてあっけなく本殿へ。本殿は意外と小ぶりで質素な建物です。檜皮葺の屋根も、もう手入れした方がよいのではないかと思われるたたずまいで、親近感を抱きました。もちろん、かしわ手を打つような参拝はしませんでしたが、皇祖神をトップとする序列に繋がる官幣大社というより村の鎮守さんの趣がありました。これなら手を合わせていいかなと思ったほどです。


本殿の前から奥参道が奥宮に向かって続いています。これもさきに香取神宮のところで述べましたが騎馬武者が勢ぞろいして参拝したのではないかというぐらい、幅広い参道です。奥宮の先に御手洗池がありもともとは、こちらが本来の参道ではなかったかと思うのですが。


鹿園の鹿にあいさつをし、奥宮の前を通り、坂を下り御手洗池に出ました。売店がありここで昼食。そして来た道を戻るのではなく、境内の外に向かう道を歩きました。その途中、何かいわれがあるのかお地蔵さんが木の下でポツンと佇んでいます。





鹿島神宮の外周の道を駅に向かって歩きながら、これで目的とするところは全て回ったという充実感はあるのですが、一方で何かまだ物足りなさを感じていました。駅に着きまだ電車には1時間近く待機の時間があったのでつれあいは「かしま桜まつり」の公園へ、僕はその公園の高台へ上がりました。霞ケ浦の一つ、「北浦」を眺めたかったのです。実は、長男のパートナーの旧姓が北浦さんなのです。そういう親近感も働きました。


鹿島神宮駅から鹿島線、成田線と乗り継いで成田に着きました。総武線で東京に向かうことにしたのですが、横須賀線で人身事故があったとかで、1時間以上足止めをくらいました。
この時に限らず東京方面に行っている間、人身事故の無い日はなかったように思います。その頻度の多さに驚きます。まさに社会のひずみを象徴しているのではないでしょうか。


そして成田を出て東京に着き八重洲あたりをぶらぶらして大阪に帰りました。今回の旅行は孫二人を藤沢に送っていくことをきっかけとして、千葉に住む旧友である坂地さんがいらっしゃることで実現しました。坂地さんとは旧交を温めるだけでなく、電車だけではいけない妙楽寺や大東埼灯台を案内してもらいました。これは予定外の大収穫でした。
あらためてお礼を言います。ありがとうございました。

そしてみなさん、ようやくこのブログは大阪に帰ってきました。😂)お付き合いありがとうございました。(了)
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房総半島4/5周の旅行⑱4月3日(水)鹿島神宮へ

2019-05-16 19:07:34 | 日記
佐原駅を8時過ぎに出発して、香取駅で鹿島線に乗り換え、利根川を越え十二橋駅、常陸利根川を越え潮来へ。ここで当然口ずさむ歌が出てきます。
♫「潮来」の伊太郎 ちょっと見なれば
薄情そうな 渡り鳥
それでいいのさ あの移り気な
風が吹くまま 西東
なのにヨー なぜに眼に浮く 「潮来」笠(^^♪


霞ケ浦の水域の一つ北浦を渡る風を受けながら電車は鹿島神宮駅に着きました。ここでなぜ鹿島神宮へ行ったのか、少し説明をします。「塚原卜伝」なのです。「やめてけれ、やめてけーれゲバゲバ」の左卜全と違いますよ😅。塚原卜伝の地を訪ねてみたい、が動機の一つなのです。


宮本武蔵の太刀を囲炉裏の鍋蓋でハシッと受け止めた塚原卜伝、かっこよくないですか。東映時代劇の申し子の僕は子供時に観たこの場面がとても印象的なのでした。もちろんこれはでっち上げの伝説であり塚原卜伝と宮本武蔵は同時代の人ではありません。剣聖卜伝の伝説に色どりを添えたのでしょう。




鹿島駅から神宮に向かう途中の坂道に卜伝の像があります。田舎の頑固爺さんといった風貌で二刀をさし、両手で扇子を握っています。より年をとらせて左卜全を模して作ったら、もっとリアリティが表現されるのではないかと思ったりしました。実際、左卜全のあの飄々として惚けたありさまは人生の達人を感じさせますもの。
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りそな銀行から電話が、かかってきまして

2019-05-15 00:40:09 | 日記
どうでもいい旅行記はちょっと置きまして、みなさんにも知ってもらった方がよいと思う出来事をお知らせします。

一週間ほど前に、りそな銀行から電話がかかってきまして、「預金に付帯するポイントがたまっていまして、期限を過ぎ失効するポイントがあります。ついては他のポイントカードにポイント交換された方がよいので電話させていただきました」と言いました。

りそな銀行にポイントがたまっている?これは初耳だったし、失効するポイントがあるならもったいないと思い、「どんな手続きをするのですか」と問いました。すると、預金通帳と登録印、そして情報として交換先のポイント口座番号(僕の場合、楽天ポイントカードの口座番号)、マイナンバーを用意して銀行に来てほしい、とのことでした。

たかが、ポイント交換に大げさな、といぶかしく思いましたが、とりあえず今日上新庄駅前のりそな銀行に行ってきました。結論を先に言います。ポイント交換は撒き餌で、銀行の狙いは預金を「資産運用商品」に誘導することにありました。

まあ時間はありましたので一通り説明は聞きました。窓口に出たのは担当女子行員とその上司、上司は指導監督官のように補足説明をします。かれらが勧めたのは「投資信託」と「個人年金保険」です。どちらも資金を投資し、その運用は運用会社(委託会社)に丸投げするというものです。

それでどうしたか、もちろん応じませんでした。「勉強になりました」といって席を立とうとすると、せめてアンケートだけでもお願いできないか、と言いましたがそれも断りました。どうです、この毅然とした態度は😅

帰ってから新聞を眺めていますと経済ジャーナリストの荻原博子さんが次のようなメッセージを発していました。
それを読みながら、断ったことは正解だったと思ったことと、りそなのような大銀行も中小企業への貸し付けなど社会的使命を果たすより、年寄り相手に目先の金融商品を売り込むことに傾斜しているのかと、うんざりした気分になりました。
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房総半島4/5周の旅行⑰4月2日(火)佐原の街

2019-05-11 16:01:12 | 日記
佐原の街を説明した表示板がありましたので、今回、僕は言葉少なめに写真で佐原の街を紹介します。

利根川とつながっている小野川沿いに米問屋や醸造業を営んでいた商家の街並みが続きます。









伊能忠敬の旧宅です。忠敬は斜陽であった伊能家に養子に入り家業を再興しました。醸造業、米問屋、金貸し業をやっていたようです。遮二無二働き50歳で家督を息子に譲り、念願であった天文学を学ぶため江戸の高橋至時に弟子入りをします。そしてやがて蝦夷をはじめ全国を測量し大日本沿海輿地全図を完成します。井上ひさしが、その偉業を『四千万歩の男』で描いています。
しかし、伊能が実際に歩いたのは40000㎞以上に及ぶということですから、5700万歩以上になります。それを70cmの正確な歩幅で刻み、立ち止まってはいちいち測量していく、しかも山あり谷ありの山野をめぐる測量。まさに偉業です。享年73歳。一身にして二生を経る。




樋橋、とよはしと読みます。旧市街(本宿)から新市街(新宿)にわたした農業用水です。元は水道橋であったものを人が通れるようにこのような形態にしたと言われています。別名ジャージャー橋、30分に一度放水をするそうです。私たちはたまたまそのチャンスに恵まれました。




この日、佐原で泊まったホテルの案内です。佐原の駅からホテルを目指して歩いていたらこのような案内に出会いました。「電車通過中は、お待ちください」の意味をはかりかねながら、矢印通り進みますと納得。ホンマにこんなところ歩いてええんかいな。


今夜の「ホテル朋泉Ⅲ」です。朝食付きで一人4500円です。一般観光客は少なく、ほとんどはここを常宿としている現場作業労働者の人たちでした。次の朝僕がホテルの外に出ていると、マイクロバスがやって来て彼らを乗せていきました。僕が手を振ると気持ちよく手を振ってくれました。


このホテルの良さは安くて朝食がちゃんとしていることもありますが、一番はホテルの直下をJR成田線が走っていることです。僕は一晩中眺めていました。
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房総半島4/5周の旅行⑯4月2日(火)香取神宮

2019-05-09 22:19:13 | 日記
先に伊能忠敬の銅像はどの方向を向いていたのか、回答します。北です。忠敬は第一次測量地として蝦夷を目指しました。この時、忠敬55歳。これを記念して北向きに銅像を設置したのではないかと想像します。先輩、正解です。先輩はこの歴史事実を踏まえつつ、かつ僕の写真が逆光になっていることを見抜いていました。脱帽です。

「九十九里ではないか」の意見もいただきました。これも明察ですね。忠敬の生まれは九十九里でした。佐原、伊能家へは養子として入りました。幼児期を偲ぶ、説得力はありますが、残念、九十九里は佐原からして南の方角です。

さて、香取神宮に話を向けます。
参道の桜は八分咲きといったところか、未だ散ることを心配しないで済む桜並木を歩く幸運に恵まれました。


ここで先に言っておきますが、僕は神社ではかしわ手を打つような参拝はしません。見学です。しかし、お寺や仏像には合掌をします。なぜか、その説明は長くなりますし、脱線を重ねそうなので別の機会にします。

参道を歩いていて、参道の道幅が広いと思いました。これは次の日に訪れた鹿島神宮にも言えることです。僕の想像です、騎馬武者集団がこぞって参拝できるようにしたからではないかと。これはそう見当外れではないように思います。なぜなら香取神宮の祭神も鹿島神宮の祭神も武神・軍神なのです。








総門、楼門から本殿へ。きらびやかで、端正な本殿です。本殿を一周してみました。正面の印象とは少し違います。檜皮葺も乱れ、古色を増しています。この落差をみなさんはどう考えます?

さあ、香取神宮を後にして佐原の街へ戻っていきました。どうしてもつれあいは遅れがちです。方向音痴の彼女ですから、僕の姿を見失うとどこへ行ってしまうかわかりません。(笑)
ですから、時々僕は止まり彼女がやって来ているのを確認しなければなりませんでした。街の中心部、小野川に架かる忠敬橋に着き、彼女を待ちました。やってきました、ふらふらと。

自転車はある程度の速さがあって安定するものです。つれあいの場合、そのスピードが怖いものだから、ゆっくり自転車を走らせます。そのためゆらゆらしてしまうのでした。淀川の河川敷で特訓しなければなりません。😂
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