(^_^)

2017年2月からこのブログを始めました

⑨篠ノ井線「姨捨」 5月23日(月)

2022-06-28 21:48:39 | 日記

アルプス公園からバスで下って松本駅へ。新潟・親不知へは松本から篠ノ井線で長野へ、長野からは北陸新幹線で糸魚川へ、糸魚川から「えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン」で親不知への行程をたどりました。大糸線で行くのも魅力がありましたが、時間がかかりすぎて親不知でホテルの人に迎えに来てもらう時刻には間に合わないので断念しました。
篠ノ井線での楽しみは「姨捨駅」からの景観と電車のスイッチバックでの進行です。これは写真とビデオで撮影しました。ご覧いただきましょう。





ところで、私はこの駅名をずっと「うばすて(姥捨)」と思い込んでいました。実は「おばすて(姨捨)」であるとこの時に知りました。「棄老悲話」をどうして「うばすて」という言葉で記憶したのか分かりません。多分、たぶんですよその刷り込みは深沢七郎の楢山節考」あたりから来ているのではないかと思っているのですが。みなさんはどうですか?「おばすてやま」OR「うばすてやま」?
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⑧松本「アルプス公園」 5月23日(月)

2022-06-23 21:11:58 | 日記
 グズグズしている間にもう一ヶ月前の出来事を記すことになってしまいました。(>o<)
 旅行三日目のこの日は松本から新潟・親不知へ向かうことにしました。JR松本駅に行く前に「アルプス公園」に寄り道をしたくなりました。地図を見ますと歩いて行けないこともありません。ホテルのフロントでそれを聞くとフロントの人は大変だと言いました。浅間温泉からアルプス公園は下っていくもののやがて登りになり大変だと、土地の人が大変だというのですから選択の余地はありません。バスの便はありません。仕方なくタクシーで行くことになりました。


 タクシーに乗ってから運転手さんに
「どうしてここは浅間温泉って地名なのですか?あさま山はここから見えないし、遠すぎるでしょう」と、尋ねると運転手さんは
「私もよくわからないんです。古い村が統合してその名前になったようです。松本駅から乗せたお客さんも浅間山の麓にある温泉だとよく勘違いされています」と笑いながら教えてくれました。

 そんなことを話しているうちにタクシーは上り坂を上がっていきます。やがてニセアカシヤが乱舞している並木道に入っていきました。アルプス公園の入り口です。下車しバス停で松本駅行きの時刻を確かめました。2時間に1本ですが公園にはバスが来ているのです。






 どんな光景を観ることができるのか、はやる気持ちで運転手さんに教えられた展望台を目指して歩きました。灯台のような立派な展望台です。正確には「松本市山と自然の博物館・アルプス公園無線中継所」といいますが、残念!今日は月曜日、休館日でした。つれあいはお構いなしにその裏側に回り、どんどん森の中をすすんで行きます。余程、アルプスの光景を早く見たかったのでしょう。僕はトイレに行きたくなり、後から彼女を追いかけることになったのですが、森の中を歩きやがて森が開け、つれあいが座っているその先をながめたとき、息をのみました。北アルプスの山々が連なるパノラマが待ち構えていたのです。


 それではその感動の一部をお伝えしたい!















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79歳の姉、育子、私、3人で白浜温泉「ホテル千畳」へ

2022-06-21 21:24:16 | 日記
6月15日(水)から1泊で白浜温泉に行ってきました。
姉は今年1月におつれあい(義兄)を亡くしました。義兄は1942年生まれ、享年80歳。
55歳で脳梗塞になり、5年ごとに入院をする闘病生活を続けてきました。姉は義兄に寄り添い、支えてきました。

「兄さんもがんばってきたし、ねえちゃんもよくがんばってきたね」のごほうびの意味で今回の旅行を計画しました。



新大阪を10時20分に出発して、紀ノ川SAで昼食、午後3時前にゆかいリゾート白浜温泉ホテル千畳に着きました。手続きに時間をとられましたが(このことについては後で説明します)終了後、直ぐに部屋へ、早い到着だったし、次の日の帰りのバスは午後2時25分発ということでホテル滞在時間約24時間、実にゆっくりしました。

姉は自宅では一人での生活になっています。やはり、さびしさと生活が変わったためかよく寝られないと言っていましたが、この日は温泉にも二度も浸かったおかげかよく眠れたようです。

姉は膝を手術したこともあって(肥満もあると思うけど(^▽^)出歩くことが困難です。それでも、次の日16日の午前中にはホテルから5分ぐらいの千畳敷には歩いて出かけ、千畳敷のレストランから太平洋を眺めながら、昼食をとりました。ホテルに戻ってロビーに続くベランダで足湯をしながら「久しぶりによう歩いたわ」と笑っていました。






チェックインに手間取ったと先ほど言いましたが、その原因は「県民割り」を承認してもらうのに多少のやりとりをしたことです。和歌山県の「県民割り(和歌山リフレッシュプランS」は近隣府県にも対象が拡大していてそれが適用されるには、事前に登録した上で、コロナワクチン接種積み証明、と身分証明書(健康保険等)をホテルフロントに提示する必要があります。

私たち二人にはワクチン接種証明書があったのですが、姉の分はなかったのです。それでフロントも困っていたのです。結論を言います。ホテルは「もし見つかったらファックスで送ってください」と適用してくれました。宿泊補助一人5000円、買い物クーポン2000円、三人で21000円のサービスとなります。これは大きいでしょう。

帰りもゆかいリゾートのバス。これは電車にすべきだったですね。バスは湾岸線で堺に入ったあたりから渋滞でのろのろ運転。新大阪駅に着いたのは6時半ごろ、疲れましたね。
それでも姉とつれあいは「次はどこに行こうか」と話しています。それで今回の旅行を姉なりに満足してくれたのではないかと思っているのですが。

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⑦松本・神宮寺、「ぽこ・あ・ぽこ」が歌う「関東防空大演習を嗤ふ」 5月22日

2022-06-19 15:51:08 | 日記
先ずは「ぽこ・あ・ぽこ」が歌う「関東防空大演習を嗤ふ」を聞いていただきましょう。ただ、これは私が神宮寺で録音したものでなく、YOUTUBEから取り出したものです。
https://www.youtube.com/watch?v=WSDsdBVJ558

1933年(昭和8年)とはどのような時代状況だったのか、ピックアップしますと
○2月4日 
二・四事件(長野県赤化教員事件)はじまる。おもに教員を対象とした左翼思想弾圧。その後全国に波及。
○2月20日
プロレタリア作家・小林多喜二が特高警察の拷問により築地警察署で死亡。(築地署事件)
○2月24日
国際連盟総会で「満州を国際管理下に置くこと」を提案するリットン調査団の報告書を採択。日本全権大使・松岡洋右は連盟脱退を宣言し退場。
○3月27日
日本が国際連盟に対し正式に脱退を通告。
○5月26日
鳩山一郎文部大臣が滝川幸辰京都大学法学部教授を自由主義思想を理由に強制免官、教授団と学生による抵抗運動に発展。(滝川事件)
○6月17日
ゴーストップ事件。陸軍と警察の大規模な抗争に発展。・・・大阪天六交差点の事件

こうしてみると昭和8年は軍靴の音が一層大きくなった年で桐生悠々はそんな時に「関東防空大演習を嗤ふ」を社会に発し、軍部を笑いものにしました。なんという人でしょう。

それでは桐生悠々とはどんな人だったのでしょうか。

【1873年〈明治6年〉5月20日 - 1941年〈昭和16年〉9月10日)
石川県出身のジャーナリスト、評論家。本名は政次(まさじ)。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論をくりひろげ、特に信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説は、当時にあって日本の都市防空の脆弱性を正確に指摘したことで知られる。】

桐生悠々の思想形成の軌跡も知りたいところですが、ネット上ではそこには届くことができませんでした。それでは「関東防空大演習を嗤ふ」の全文を紹介します。

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 防空演習は、曾て大阪に於ても、行われたことがあるけれども、一昨九日から行われつつある関東防空大演習は、その名の如く、東京付近一帯に亘る関東の空に於て行われ、これに参加した航空機の数も、非常に多く、実に大規模のものであった。そしてこの演習は、AKを通して、全国に放送されたから、東京市民は固よりのこと、国民は挙げて、若しもこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言語に絶したことを、予想し、痛感したであろう。というよりも、こうした実戦が、将来決してあってはならないこと、またあらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである。

 将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、此時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである。如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空撃は幾たびも繰返えされる可能性がある。

 だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。この危険以前に於て、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落すか、またはこれを撃退しなければならない。戦時通信の、そして無電の、しかく発達したる今日、敵機の襲来は、早くも我軍の探知し得るところだろう。これを探知し得れば、その機を逸せず、我機は途中に、或は日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵を我領土の上空に出現せしめてはならない。与えられた敵国の機の航路は、既に定まっている。従ってこれに対する防禦も、また既に定められていなければならない。この場合、たとい幾つかの航路があるにしても、その航路も略予定されているから、これに対して水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。

 こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のものであり、また如何に屡しばしばそれが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない。特にそれが夜襲であるならば、消灯しこれに備うるが如きは、却って、人をして狼狽せしむるのみである。科学の進歩は、これを滑稽化せねばやまないだろう。何ぜなら、今日の科学は、機の翔空速度と風向と風速とを計算し、如何なる方向に向って出発すれば、幾時間にして、如何なる緯度の上空に達し得るかを精知し得るが故に、ロボットがこれを操縦していても、予定の空点に於て寧ろ精確に爆弾を投下し得るだろうからである。この場合、徒らに消灯して、却って市民の狼狽を増大するが如きは、滑稽でなくて何であろう。

 特に、曾ても私たちが、本紙「夢の国」欄に於て紹介したるが如く、近代的科学の驚異は、赤外線をも戦争に利用しなければやまないだろう。この赤外線を利用すれば、如何に暗きところに、また如何なるところに隠れていようとも、明に敵軍隊の所在地を知り得るが故に、これを撃破することは容易であるだろう。こうした観点からも、市民の、市街の消灯は、完全に一の滑稽である。要するに、航空戦は、ヨーロッパ戦争に於て、ツェペリンのロンドン空撃が示した如く、空撃したものの勝であり空撃されたものの敗である。だから、この空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない。

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上の本文を読んで当初、桐生悠々は反軍・反権力が強固な人ではあるが、軍部の無能を揶揄するだけで果たして反戦の人であるのか、と疑問を持ちました。しかし桐生悠々がこれを書いたのは昭和8年、日米開戦まであと8年もあります。日本が空襲を受けることは想像すらできない時代状況ではなかったか、そうすると軍部が強要した防空練習は何であったのか、不安を煽り、国防意識へ国民を総動員するための装置ではなかった、と思うのです。だとするなら、国民総動員体制への日本が傾斜していくことに桐生悠々は警告を発したのではないか、だとするなら桐生悠々はやはり反戦の人でもあった、と思うようになりました。

それは1941年彼が没する前に記した次の一文でより明確ではないかと確信するのでした。

「畜生道に堕落した地球より去る」
時偶小生の癖疾喉カタル非常に悪化し、流動物すら嚥下し能わざるように相成やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓喜居候も唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候


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⑥松本・神宮寺、「ぽこ・あ・ぽこ」と趙博さんのLIVE 5月22日

2022-06-14 14:25:18 | 日記






神宮寺を見学した後、趙博さんたちのライブの3時まで未だ1時間もあったので寺の参道を下ってみました。私たちは神宮寺まで宿舎の「みやま荘」から裏道をやって来ましたので、「ああ、これは参道だ」と登り口に立つ延命地蔵をながめました。




午後2時半、live会場神宮寺のホールに入りました。100人は入れそうな大きなホールです。この時は数人だった観客が続々と集まってきました。その様子をながめていた私はある人物を目にしました。「小出 裕章」さんです。

Liveは【ぽこ・あ・ぽこ】さんから始まりました。【ぽこ・あ・ぽこ】さんは長野を拠点に活動されているグループです。寡聞なわたしは彼らのことをここで初めて知りました。どの歌も新鮮でしたが特に気を引かれたのが『関東防空大演習を嗤う』でした。戦前信州で活動した反軍・反権力のジャーナリスト「桐生悠々」を歌い上げたものでしたが、この桐生悠々さんをも私は知りませんでした。それについては、つまり「桐生悠々」さんと彼が発した『関東防空大演習を嗤う』については次回のブログで紹介させていただきます。


趙博さんの登場。追っかけとして、私は何度も趙博さんの歌は聴いていますが、飽きませんねえ。豪放磊落にして優しく繊細、何より彼が時代を告発する歌いぶりが聞いていて心地いい、共感の世界をつくりだしてくれるのです。今回の旅行目的の一つにコテコテの大阪人である趙博さんが松本の地でどのように歌うのか、大いに関心があったのですが、これはあまり変わらなかった(^▽^)ですね。ただ松本の人たちが静かに聴き入っているのが印象的でした。


趙博さんは沖縄、満州、「新百年節」等を歌い上げ、続けて「風に吹かれて」を英語、韓国語、日本語で歌われたこと、そして「どれだけミサイルが飛んだら平和は来るの」と今日のウクライナ情勢を彷彿させる歌詞を強調されていたことも印象的でした。




加川良さんの「教訓Ⅰ」を歌い「死んで男になれと言われたときには震えましょうよね」の歌詞に来ると「差別用語」と笑い顔で注釈した後、当初の歌詞通り歌いました。

これについては後日談ならぬ、live終了後の宴会で、ここには小出裕章さんや鵜飼哲さんも参加されていて、趙博さんは「差別語と違いますよ、言葉狩りです」と自己見解を述べました。「ことば」がどういう目的・脈絡で用いられ、誰に発せられたのか、趙博さんには忸怩たるものがあるのでしょう。

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