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女として大阪で暮らす。(朝鮮婆ではないよ)

自然を愛する人です。
そして動物を愛する人です。
植物も大好きです。
ニコ生すき、日本の糞ばばですよ。

橋のない川

2011-03-08 | 日記
橋のない川


☆人間は、平等というのはたてまえのように思えますよね。この映画を見てほしいです。

水平社宣言

2011-03-08 | 日記
宣言=日本最初の人権宣言


 赤い荊冠(けいかん=いばらの冠。イエスが十字架にかけられた時かぶせられたことから、受難をたとえる)は、宣言にある「殉教者がその荊冠を祝福されるときがきた」という言葉に象徴されているように、被差別の苦闘の歴史の中で生き抜いてきた人々の誇りを意味し、黒い背景は差別のある厳しい世の中を意味していると言われている。全体として、差別を跳ね返し、被差別者として誇りを持って生きていくという理想を表現している。



1922(大正11)年3月3日、京都市・岡崎公会堂で全国創立大会が開かれ、宣言が読みあげられた。



この宣言は、長い間、差別と迫害によってしいたげられていた被差別の人々が、みずからの意志で、奪われた人間性をとりかえそうとしたものであり、全人類の解放をうたう日本初の人権宣言であった。



全国結成当時のメンバー

綱領



1.我々特殊民は民自身の行動によつて絶対の解放を期す

1.我々特殊民は絶対に経済の自由と職業の自由を社会に要求し以(もっ)て獲得を期す

1.我等は人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向つて突進す



宣言



全国に散在する我が特殊民よ団結せよ。

長い間虐(いじ)められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによつてなされた我等の為の運動が、何等(なんら)の有難い効果を齎(もた)らさなかった事実は、夫等(それら)のすべてが我々によつて又他の人々に依(よ)つて毎(つね)に人間を冒涜(ぼうとく=神聖・尊厳なものや清純なものをけがすこと)されてゐた罰(ばち)であつたのだ。そして、これ等の人間を勦(いたわ)る(困っている人や病人などに同情の気持ちをもってやさしく接する)かの如(ごと)き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた事を想(おも)へば、此際(このさい)我等の中(うち)より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは寧(むし)ろ必然である。

兄弟よ。我々の祖先は自由、平等の渇仰(かつごう=強くあこがれ慕う)者であり、実行者であつた。陋劣(ろうれつ=いやしく劣っているさま)なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剥(は)ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥取られ、ケモノの心臓を裂く代償として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへクダラナイ嘲笑の唾(つばき)まで吐きかけられた呪(のろ)はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸(か)れづにあつた。そうだ、そうして我々は、この血を享(う)けて人間が神にかはらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印(らくいん)を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。

我々が「エタ」である事を誇り得る時が来たのだ。

我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦(きょうだ=おくびょうなこと。おじおそれること)なる行為によつて、祖先を辱(はずか)しめ人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦(いた)はる事が何んであるかをよく知つている吾々(われわれ)は、心から人世の熱と光を願求礼讃(がんぐらいさん=願い求め、ほめたたえること)するものである。   

は、かくして生れた。

人の世に熱あれ、人間に光あれ。  

大正11年3月3日  全国

☆人間の人権について、考えさせられる宣言ですね。



橋のない川 

2011-03-08 | 日記

橋のない川あらすじ

第一部 1909(明治42)年。大和盆地の小村小森。
日露戦争で父を失った誠太郎と孝二は、貧しい暮らしながら、温かな祖母と母に守られて尋常小学校に通うが、故なき差別に苦しめられる。しかしなお愛を失わず、光をかかげて真摯に生きて行こうとする。

第二部 1914(大正3)年。誠太郎は米屋に奉公し、孝二は松川高等小学校に在学。
兄に代わって、祖母や母を助ける。

第三部 1917(大正6)年。大阪でも米騒動が起きる。
東京の美術学校に在学していた秀坊んは、差別に耐えきれず、帰省する。
騒がしい時代の波の中で、誠太郎は入営する。

第四部 1919(大正8)年。18歳に成長した孝二は、祖母、母と共に農作業に励みつつ、草履職人としても働いていた。貞夫と松川高等小学校の同窓会に出席した孝二は、差別意識に満ちた会員達に向かって、宇宙の真理や人間平等について、毅然として訴える。
大正10年11月、無事に満期除隊した誠太郎は、望まれて大阪の米屋安井家の入り婿となる。
平等会創立大会に登場した秀昭は被差別の現状を訴え、全国創立大会への参加を呼びかける。3月3日早朝、孝二と貞夫は会に出席すべく、京都に向けて出発する。

第五部 1921(大正11)年。3月、全国は結成された。故なき差別に泣かされてきた人々は、これを拠点に力強く立ち上がる。しかし、古い因襲と偏見による抑圧に対する人々の抵抗の激しい騒ぎの中で、孝二ら小森の青年7人は獄舎に送り込まれる。だが、真実と正義を求める人々の声は、消えることなく全国各地に広まっていく。

第六部  
1923年(大正12年)9月、東京を襲った関東大震災は、小森の人々をも様々な嵐の中に投げ込んだ。畑中家の隣人志村かねの娘はるえは、朝鮮出身の夫と子供をもぎとられて、東京から帰郷する。
孝二の従妹七重は婚礼当日に、花婿要太郎が検束されて不在のまま、大崎の長島家に嫁いで行く。孝二への想いを抱く杉本まちえは、ひとりの力で生きるために東京での勉学を決意し、一方、まちえへの想いを胸に生き抜こうとする孝二と、それぞれの道に新しい日が訪れる。

第七部   

1921年に結成された全国の発展に伴い、1924年(大正13年)小森には少年や小森婦人が結成された。更に消費組合ができ、日本農民組合にも加盟して人々の意識は、人間解放の旗の下に嬉々としていた。叔父芳松の家に預けられていた熊夫は尋常六年を無事卒業、大阪の誠太郎の店へ丁稚奉公に出て行く。
そして1928年、孝二は誠太郎の依頼により熊夫を連れて、川島熊次郎を問うべく、網走への旅を決意したのだった。
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☆現代の解放同盟の始まりをに近い、「宣言」がすごく心に残りますね。