富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

「富田林と近鉄展」~きらめきファクトリー2022.6

2022年06月16日 | 鉄道・バス

2022年6月12日 19:41 観光交流施設「きらめきファクトリー」 富田林市本町19-8 近鉄 富田林駅南側出入口すぐ。

 

6月19日(日)まで「富田林と近鉄展」開催されています。

 

近鉄電車の鉄道模型や昔の富田林駅およびその周辺の貴重な写真もパネル展示されています。

 

ケント紙とバルサ材で制作された鉄道模型は緻密で正確に作られています。富田林市在住の中西啓太氏の作品。

6月19日(日)に午後2回にわたり、記念公演があります。(予約優先 問い合わせ先 きらめきファクトリー 0721-24-5500(10時~18時の間)

 

近鉄南大阪線を走っていた電車。子供のころ、走っていた懐かしい電車です。

 

モ6601系 昭和3年8月に大阪鉄道が吉野鉄道との直通運転用として新造した半鋼製電車です。 当時の形式はデニ501形と称し、片側2扉で、わが国初の20m長の大型車でした。 後に改造され、昭和14年にロングシート化、戦後には3扉化などの改造を行なわれ、昭和49年まで運用されました。その重厚なデザインから「野武士」と呼ばれたそうです。

昭和30年後半、阿部野橋駅の5つのホームにこの電車が並んだ姿はすごいと子供心に思いました。

 

ラビットカー 6800系

昭和32年、南大阪線の高加減速の高性能通勤車として新造し、20mの軽量車体に旅客の乗降を配慮した広幅両開きの片側4扉構造で、以降の近鉄および全国の通勤電車の基本となりました。

オレンジ色のあざやかな車体とツーヘッドライト。そして、今までの電車とは違った軽快な走りで、両開きの片側4扉が斬新でしたね。

昭和40年前半、富田林市にまだ「一中」と「二中」しか中学校がなかったころ、喜志地区の生徒君が電車通学でこのラビットカーに乗って「一中」に通学していたのが、とてもうらやましかったです。

南大阪線、長野線の各駅を迅速に発車・停車を繰り返すために作られた当時の傑作、ラビットカー。その名の通り、ウサギのようにぴょんぴょんと高加減速で各駅停車で走行する姿が印象的でした。側面にある「Rabbit Car」のデザインは「太陽の塔」で有名な故 岡本太郎氏です。そうそうかつての「近鉄バファローズ」のマークも岡本太郎氏ですね。

最近まで走っていた「ラビットカー復刻版」は平成24年(2012)の吉野線開業100周年を記念として現行車両を再塗装したものです。

 

6020系

ラビットカーの大成功により、それ以後の近鉄では通勤電車を20m車体、両開き片側4枚扉、ロングシート、フレームレス下降窓等の仕様で標準化しました。これは当初の「近鉄マルーン1色塗装」。(阪急マルーンよりは赤みが強い)

後に、大阪線・奈良線と同じく色調変更された「近鉄マルーンレッド」と「シルキーホワイト」のツートンに塗り替えられました。

 

近鉄の前身、河南鉄道時代(明治32年(1899)5月~大正8年(1919)3月)に粟ケ池横を走る汽車。場所は今年6月の上り側が高架になった場所。

柏原から富田林駅までは明治31年(1898)4月河南鉄道の前身、河陽鉄道により敷設されました。

20220604 近鉄長野線高架運用開始しました 2022.6.13

 

河南鉄道時代に購入した汽車。

河陽鉄道時代に購入した最初の2機の機関車の内1機はあまり調子がよくなく、よく遅れが生じていたという記録があります。

 

明治35年(1902)12月12日 滝谷不動~長野(現河内長野駅)開通→長野線全通。この時刻表は明治36年2月のものです。

一日10往復程度の運行でした。(冬場は1往復少ない。)

朝の通勤がない時代ですので、柏原駅に行く富田林駅の7時台の汽車はありません。

 

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明治35年(1902)12月12日 滝谷不動~長野(現河内長野駅)間開通後の河南鉄道の路線。

現在の大阪阿部野橋駅乗り入れは、まず大正11年(1922)4月18日 道明寺~布忍間開通(単線・蒸気機関車)。今年でちょうど100年記念。

そして、翌年の大正12年(1923)4月13日 道明寺~大阪 天王寺間(現あべの橋駅)間開通(複線・電化)させ、大正12年(1923)10月15日 道明寺~長野駅間電化→大阪天王寺~長野間、乗り換えなしの電車による直通運転開始という発展をたどっていきます。来年100年記念。

実はこの大事業、前述の日本で初めて20m級通勤電車の導入し、近鉄を13年間も社長を務めた富田林の越井醇三(じゅんぞう)社長なんです。

越井醇三氏は地元に鉄道を創るため、明治26年7月(1893)「河陽鉄道株式会社創立願」において河陽鉄道創設ののため、他の富田林市の喜志 木下氏、富田林 青谷氏らとともに発起人になりました。

さらに、明治27年(1894)12月「河陽鉄道株式会社目論見書」においても、先程のメンバーに加えて山中田の杉山氏、富田林の田守氏、佐藤氏、仲村氏らとともにこれからの鉄道の重要性を認識して、地元に鉄道を敷く発起人となっています。時代を見抜く先見性があったのだと思います。

 

さらに河南鉄道時代は取締役として、社長の小山玄松氏、野田吉兵衛氏を補佐していたと思われます。

その後、大正6年(1917)4月から、河南鉄道の社長に就任し、一地方鉄道から脱却し、悲願の大阪市内乗り入れを目指します。

「河南鉄道」から「大阪鉄道(略称 大鉄)」へと社名を変更し、路線の拡充(大阪市内乗り入れ、南大阪線路線開発、複線電化)と沿線開発を行ないました。道明寺天満宮の一番正面に大きな献燈があります。

私たちが簡単に阿部野橋までお買物に行けるのは越井社長のおかげです。阿部野橋に乗り入れなければ、あべのハルカスもできなかったことでしょう。近鉄の鉄道史の中に、地元 富田林の方がおられるのはすごいことだ思います。

ちなみに橿原神宮前まで路線を伸ばして吉野鉄道に乗り入れし、吉野にお花見に行けるのもこの方のおかげです。残念なのは地元の富田林駅のある長野線を複線化しなかったことですね。

 

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「注人場(ちゅうにんば)」あるいは「注入場(ちゅうにゅうば)」と呼んでいた現コノミヤのある場所。写真の左奥に貨車の引き込み線が見えます。

私が小学校低学年のころ(60年位前)は「注人場(ちゅうにんば)」と呼んでいて、材木置き場で悪ガキが「とりで」と称して遊んでいました。

ここで明治の終わりころ競輪がイベント的に行なわれていた時期があるようです。

写真の中央や手前に長い材木がたくさん置いてあります。これはおそらく金剛山から切り出したまっすぐな桧に防腐剤(タールと思っていましたが、文献で調べたら硫酸銅溶液と思われます。)を注入して木製の電柱を加工する木材と思われます。まだコンクリート電柱がない時代で、日本最初に通信省に電柱を納入した富田林の越井家が「電柱王」と言われていた時代です。当時鉄道、電柱、電話の開発で電柱はひっぱりだこでした。

 

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子供のころの富田林駅が写っています。当時北側の改札はなく、もともと貨車や電車の留置していた跡の広い土地が残っていました。煉瓦造りの変電施設の建物があったのを記憶しています。もう60年前の話になります。背景に「西山」(羽曳野丘陵)が写っています。

また当時は南の改札から2番ホーム(阿部野橋行き側)地下連絡通路はなく、線路を渡って2番ホームに渡りました。

富田林駅から阿部野橋駅に行くのに、半分の電車は富田林駅発の確か1両編成の電車に乗り、古市駅で乗り換えて阿部野橋方面に行った記憶があります。

今の古市駅のホームが200m位手前にあった時のお話です。

 

子供のころの懐かしい写真と電車を展示していただいて、ありがとうございました。

 

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富田林駅前のきらめきファクトリーでは、近鉄長野線高架化記念として、6月19日(日)まで「富田林と近鉄展」と題して、近鉄電車の鉄道模型や昔の富田林駅およびその周辺の貴重な写真もパネル展示されています。

もう長野線が出来て、124年になります。近鉄で一番古い路線です。

撮影:2022年6月12日

 2022年6月16日 (HN:アブラコウモリH)

 

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