〈リバイバル・アーカイブス〉2023.1.23~2.6
原本:2015年2月25日
地元で「チリンサン」と呼ばれている神さま。なにかあったかい感じがする名前ですね。
どうも、 村に災いが入って来ないように守っている神さまのようです。
チリンサンは富田林の民話の中にも、紹介されています。
(資料 「富田林の民話・総集編」富田林民話研究クラブ 編著 平成11年3月 )
「ちりんさんの坂」
この坂はな「ちりんさんの坂」いうて昔から神さんがいてはると言われてきたもんや。この坂をのぼりつめたとこに、昔は小さな祠(ほこら)があって、まあるい石がたんとおさめてあったんや。
「ちりんさんへ参ろか。」
ばあちゃんらは、花を持って拝みに行ったもんや。何で石をまつってあったんか。何ぞいわれがあったんか、なあんも知らんけんどな。
その祠も石もしらん間にないようになってしもうてん。誰ぞどこぞへ持って行ったんやろなあ。そやけど、この「ちりんさんの坂」だけは「神さんがいてはる。」いうて、葬式は通ったらあかんねん。坂のすぐ上の家でも、葬式のときは北の道を遠まわりして廿山(つづやま)の墓へ行くんや。この坂おりたら近道やのになあ。
あんたら石けりやいうて、まあるい石けって遊ぶやろ。けど、まあるい石は「ちりんさん」の石やからけったりしたらあかんで。まあるい石見つけたら、植木の根元へでもそうっとおいとかなバチあたるで。
(註)今でも南甲田集会所の前の坂は、「ちりんさんの坂」と呼ばれて葬式は決して通らない。
「富田林百景+」の講座では、『「チリンサン」は神さまやから、葬式は不浄なもの(けがれ)なので、避けて通るのではないか。』とのご意見がでました。なるほど、そうだと思います。
富田林市の北部の喜志の宮地区(宮町)は古くからの村ですが、村のお墓が2つもあります。「宮北墓地」と「宮南墓地」ですが、これは村の真ん中に位置する式内社の喜志の宮(美具久留御魂神社(みぐくるみまじんじゃ))の参道が村の中央を東西に分断する形で通るからです。つまり、お墓が北か南かのどちらかにしかないと、葬式の行列(けがれ)が神聖な神社の参道をどうしても横切らなければなりません。これを解決したのが、村に2つのお墓を設けるということであったのでしょう。つまり、参道より北側にお住まいのお家(うち)は「北墓」、南にお住まいのお家は「南墓」という大まかな約束事があったようです。
*喜志の宮を中心とした宮地区は、戦国時代に「下水分神境」(元亀三年、「肥後守 禁制」、喜志の宮文書)、「河州下水分寺内」(天正元年、「肥前守某禁制」喜志の宮文書)、「貴志 寺内」(天正元年「柴田勝家判物、喜志の宮文書)〈以上 富田林市史 第四巻〉として多くの禁制がでており、富田林寺内町のような防御的機能を持つ集落であったことがうかがえます。
丸い石を5個並べた神さまが2つ。おそらく石川の丸石を集めたもので、すべて和泉砂岩でできています。
石川の石には花崗岩類やチャートも多くありますが、なぜ砂岩ばかりを選んだかは、わかりません。
「富田林百景+」の館内講座では、「砂岩は、このように丸くなりやすいのではないか?」というご意見も出ましたが、そうかもしれませんね。
富田林市の甲田地区南甲田の南入口の坂を上がったところ、「甲田」のだんじり小屋の向かいにあります。
*「賽(さい)の神」とは
賽の神は村内と村外の境界や道の辻などに祀られている神で、村に災いが入って来ないように守っている神といわれています。集落の村の入口、 村はずれの境界、道の辻、三叉路などにあり、自然石の丸石(富田林市の場合)が祀られおり、道の傍らにある神さまです。
特に、自然の丸石を集めた賽の神は、旧錦部郡に多いのではないかと思います。
富田林市の南部(旧錦部郡)には、他にも多くの賽の神さまがおられるので、またご紹介します。
2015.2月25日 ( HN:アブラコウモリH )
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