じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

教えるは教えない

2006-03-11 | 教室(classroom)
〈学校や今の教育は違いますな。まず手取り足取り教えますな。子供がわからな、教え方が悪いと言いますしな。それでそのときはこないする、こんなときはこうやったほうがいいと、こと細こうに教えますな。〉
 〈しかし、そんなもんで、ものが覚えられますかいな。大工はそのときの試験に通ればいいというんやないです。仕事を覚えたらそれで一生飯を食い、家族を養い、よその人のために建物を建てるんです。建物を建てるというのは頭のなかの知識じゃないんでっせ。ちゃんと自分の手で木を切り、削ってやらなならんのです。そのとき「それは知ってますわ」じゃ、なんの役にも立たないんです。〉(西岡常一『木のいのち 木のこころ 天』)

 「教える」と「育てる」
 教育という言葉は「教える」と「育てる」という二つの語から作られています。ところが、徒弟制では「育てる」だけ。「住み込むことで、一緒に暮らし、肌で感じななりません。弟子のほうでは『教わる』という気があるかもしれないけど、考えるのは自分、考えてやるしかないのです」
 そんな西岡さんのたった一人の内弟子が小川三夫さんでした。ようやく「弟子にしてもいい」と許され、棟梁の家に道具と布団をもっていった。棟梁の最初の一言は「道具を見せてみい」でした。それで鑿を出したら、ちょっと見て「ぽんと棄てたんや」そうです。そして、「納屋を掃除しておき」と、たったそれだけだった。
 そこには西岡棟梁の道具がおいてあったし、鉋屑もたくさんありました。「納屋を掃除しろというのは、わしの道具をよーく見ろ。その道具で削った鉋屑をよく見てみろ」ということだったと、小川さんは直観したといいます。
 〈学校は教えるところやと思っている人が多い。そのために生徒はみんな同じ能力やと考えてますな。本当はそれぞれ違うことを知っているくせに、つごうがいいからみんな同じと思っています。徒弟制度は初めから教えるんやなくて育てるもんやから、同じやなんて思っていませんな。同じわけがない。違う親、違う環境で育ったものが同じになりますかいな。兄弟だって違うんでっせ。〉(西岡・同書)

 小川さんは次のように語っておられます。
 〈器用というのは、ものの考え方でもなんでも深くいかないんだ。簡単にやって、それで乗っていっちゃうんだよ。俺は自分でもそう思うし、自分でもそれをやるから、よくわかるんだ。
 そうすると、ほんとうに大きな問題にぶつかったときに困るんだ。
 たとえば、会社をつくることはできるかもしれない。つくるのはむずかしくはないからな。それが倒れるようになったときが大変なんだ。もうだめかも知れないというときに器用なやつは逃げるぞ。器用なやつに、ほんとうの根性はないだろうな。我慢する、耐えなければならないときに、器用なやつは器用にほかのことを考えるからだ。(中略)
 学校でも器用な子のほうが先生に喜ばれるわけだよ。学校は促成栽培だから、器用なやつほど成績がよくて、いい子なんや。それで器用な子を大事にするが、職人の世界で器用は結局は損をするな。〉(小川・同書)
 ひるがえってつらつらみれば、日本の学校は器用な人間を必死で生産してきたようです。大人の言うことを聞いて、命令には従順で、けっして自己主張しない、そんな人間が鏡とされてきたのです。子どもたちだって辛かったろうと思う。うまくないメシを美味しいというように脅迫されたのですから。「そんなもんで、人間が育てられますかいな」(不器用の側に立つ)