じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

まだ、学歴社会?

2006-03-04 | 教室(classroom)
 学歴社会は、学校を重んじるように見えはするけれども、実のところ学校の教育を重んじているわけではなく、何々学校を出たという学歴(学校を出たこと)だけを重んじているわけで、教育のほうに関心はむいていない。
 今のように、一流校、二流校というふうに学校が格づけされ、それに入るために、大学以下、高校、中学、幼稚園でも、一流の上位校の入学試験への準備に、教育がついやされるということになると、しかも、その入学試験が、大量の受験生を短い時間で「客観的に」さばくために、○×式の答を出す質問をするようになると、教育のなかみは、機械的になってしまう。機械に似せて自分をつくりなおすことで、機械に似た正確さをつくるという方向をめざすことになる。
 そこでは、そだてるーそだてられる、世代から世代への文化のうけわたしということは、なりたちにくくなっている。今の日本の学校は、そういうふうになってきている。(中略)学校には教育として欠けているところがあるということを見すえて学校にいくようでないと、学校のえじきになってしまう。そういう不信の心があって、はじめて、教師と生徒がたがいにもうすこしちがう仕方で、今の学校で出会ってみようという、志もうまれる。(鶴見俊輔)

 鶴見さんがこのようにいわれたのは、今から二〇年以上も前のこと。ほとんど変わりませんね。根っこの部分ではほとんど変わっていないようにも思われます。空恐ろしい。学校ってそんなに値うちはないと知っているにもかかわらず、過剰に依存しているから。
 「教える+育てる」という、二つのことなる活動が「教育」という働き(言葉)のなかに含まれています。「教える」のは他人、「育てる」のは自分です。別の言い方をすれば、「教える」という活動が目標とするのは、すべての人に同じ知識・技能(技術)を、ということだろうし、ひたすらこのことに集中してきたのが日本の学校だったといってもいい。それに対して、「育つ」という活動の方向は人それぞれ(十人十色)であるといえます。なぜなら、育つ(育てる)ための素材(素質)は万人に共通ではないからです。
 「みんないっしょ」をめざす教育と、「自分流の生き方(育ち方)」を追求する教育、この二つの方向のなかで、一方的に「教える」に偏ってきたのが学校教育だった。教師から何かを与(教)えられる、それこそが教育だと教師も子どもも社会も信じこんできたのです。教えたがりと、教えられたがり。麗しくかつ醜悪な「師弟関係」ですか。
 「先生っていうのは、そんなに役に立たないと思うな。今の若い人は、先生のところへ 行けば何かを教えてもらえる、などと考えている。違うんだよ!誰も教えることなんて できないんだ。教わろうったって無理なんだ。先生はたしかに上手に弾けるだろう。し かし、それは彼自身の方法で上手に弾けるんだ。それをいくらそっくり真似たって、同 じ音など出せっこないよ。だから私は、こう思うんだ。教師の役目とは、生徒の心を開 いて、生徒自身が進歩していくことを助けることだと。その意味で先生は、教えてあげ ることなんて出来ないとハッキリ告げるべきだと思うね。生徒は、自分の力でやり遂げ なくちゃならないんです」(ナタン・ミルシュタイン)
 今日の学校教育には「欠けているところがある」ということについては大方の同意がえられるだろうと思う。それでは、いったい「欠けているところ」とはなにか。また、それはどのようにして回復することができるのか。そのことを自分でよく知ろうとしなければ、残念だけど、「学校のえじきになってしまう」にちがいないでしょう。(教えない教師)