じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

授業は山登りです

2006-05-06 | 教室(classroom)
 授業にはさまざまな可能性があります。もっと正確にいうと、可能性の固まりのような子どもが何十人も教室にいるんです。授業の可能性とは子どもの可能性と同じことです。一人として同じものを持った子どもはいない。それぞれがちがいを持った子どもに丁寧に対面すれば、自ずから授業の様子は変わるんじゃないでしょうか。なによりもちがいとか差異といったものを認めなければ、教育の筋が曲がってしまうだろうと、わたしはいいたいんです。その反対に、できるはずもないのに、ちがいのある子どもを同質にするのが授業の役割なんだと、多くの人はホントにかんがえてるんだろうか、とおおいに疑わしく思ったりします。たぶん、平等というものをはきちがえているんですね。 
 何かを学ぶとは自分を発見することです。今まで知らなかった自分をさまざまな機会において、知るのです。そのための練習こそが学校でなされてほしい授業だと私は願っています。どんなに間違えても取り返しがつく練習、要するにあることがらについて自分流に判断する、その判断がせまく偏ったものにならないようにするための練習です。いわば「固まりの思想」に毒されない柔軟な発想や把握ができるように自分を訓練することです。自分にも精神の自由があるということを身をもって経験するのです。どんな人も自分で、自分の力で生きていきたいのですから。
 勉強というのは山登りに似ています。自分の足で、自分の足だけで確実に頂上を目指さなければ、一歩も前に進まない。どんなに高い山に登ったところで、世間の利益にはならないし、あまり他人から評価されることもなさそうです。だからこそ、山登りはいいのだと、私は経験から学びました。誉められるため、自慢するために山に登るなどという人がいるとは思えないが、いたとしてもそんな人の気が知れません。年齢・学歴・性別・職業は一切不問。登ろうとする人にしか、喜びも苦しみも与えられない。だからいいのだと私は思っています。当の本人には確実にその経験は生きているのですから。でも、山登りに意欲を示さない人にはよくわからない話ですがね。
 勉強もこうあって欲しいといつも考えているのです。人に認められよう、世間の役に立とうという(その実、そんなことは滅多にないし、たいしたことではないのですが)賤しい動機から始められる勉強の何と多いことか。勉強しているのか、人に誉められようとしているのか、ご本人にも分からないのじゃないですか。まことに厭な話です。自分の足で山に登るように、自分の頭と身体で物事を考えること。それが人間の自由ということです。
 教育とは自由の実践だ、とある人はいいましたが、現実はその逆で、教育を受ければ受けるほど不自由な人間になる(させられる)のではないかとさえ私には思われます。まるで強制されて山に登るようなもので、せっかくの経験が台無しになってしまいます。(クライマー)