「死が来るまでは、ハッピーに楽しく生きたい」と望んではいても、 多くの現代日本人は、「死んだらどうなるか、死んだ先には何があるのか」にはあまり関心がないように見えます。これは、世界の中でも歴史上でも、まれな文化であると思うのですが、 医学が延命力を提供してくれると信じて、 平均寿命が世界一、二、たかだか90年弱の寿命で、現代日本人は、満足ができているのでしょうか。
もう少し詳しく言うと
「正しく楽しく生きる方法」や「ハッピーに生きる」ことは、TV、Book、インターネット等のメディア、そして、哲学、倫理学、科学を元にする医学、心理学、健康法、そして宗教などで、日々あふれるようにヒューマンに語られているので、それなりに興味は持つのですが、「寿命を長くする方法」「死なない方法」「死んだらどうなるか」には興味がないようなのです。
仏教などの東洋の宗教では、「寿命を長くする方法」「死なない方法」「死んだらどうなるか」を考えると、それとひとつながりに、「正しく楽しく生きる方法」もわかってくることになっているのですが、どうも、現代日本人は、その中の「正しく楽しく生きる方法」のみを取りだして、それが宗教だと思っているように見えて、勿体ない理解をしているようなのです。
仏教を良く知った者は等しく、仏教は哲学であると感想を述べていますので、これからの進行は、科学的論理とあまり変わらない論理で可能と考えていますが、しかし、現実は、日本の仏典など新しいものでも数百年前、インドのウパニシャッド、中国の道教の書など古いものでは紀元前数百年前に書かれており、その時代では一番魅力的なこと、つまり平安鎌倉時代か昔のインドや中国の宮殿のような世界観なので、もうその外観だけで現代日本人は、関係ないと思ってしまうようなのです。
ですから、論理は仏教そのままであっても、現代日本人に分かる世界観で表現をして行かなければ、この先、理解してもらえない事になるのです。
では、現代の世界観と仏教の世界観、例えば、空海であると一千二百年前になるのですが、その時代と今とでは、何が違っているのでしょうか。
その違いは、「言葉」にあります。
と言っても、現代語と古語といった形式ではなく、言葉で理解する深度の問題です。
例えば、空海が建立した京都東寺、その金堂を飾る薬師如来仏を中心とする曼荼羅仏像群を見るとします。
現代日本人は、エキゾチックな仏像群を前に圧倒され、見るには見るのですが外見を眺めるだけで、それ以上は想像力を働かせずに、すぐ解説文を読んでしまう。そしてその内容で、これは何を意味しているのかを理解した。と思ってしまう。
一方、一千二百年前の空海の頃は、文字が読める人は少なく、原色ゴールドのピカピカ仏像群を前に、食い入るように見つめ、さらに聴覚、臭覚、記憶、感情、意識、無意識を総動員し、想像力を働かせ、理解しようとする人がほとんどだったでしょう、それはディズニーランドのパレードを眺める感覚に近く、灰色の印刷文字での理解とはほど遠いものがあったように思います。
つまり、現代日本人は、感覚、意識、感情を総動員する前に、それとすり替えるようにして、文章を読んでしまい、その言語思考での理解を理解の総てにしてしまているようなのです。
また我々は、空海が著した仏典を、現代のBookのように活字を黙読し、書き言葉の物語として、つまり言語思考で空海を理解しようとします。そしてその流れで、東寺金堂の曼荼羅仏像群までもその方法で理解したと思ってしまうのです。でも本来、空海が著した仏典とは、ディズニーランドのパレードを眺めて心きらめくような、その感覚への単なるサポートであったかも知れないのです。なぜなら、現代日本人でも、そのパンフレットや説明書を読んだだけで、ディズニーランドのパレードを理解したとは言わないからです。
つまりこの一千二百年前の人々のきらめく感覚からの理解と、現代日本人の言語思考からだけの理解の違いが、多くの誤解を生んでいるようなのです。
文字を読まなければ理解できない、つまり、人間の感覚や理解機能の中でも、特に言語思考での理解を理解の総てにする傾向は、 現代日本人だけでなく、現代先進国文明の特徴のようにも思います。
例えば、TVや映画で、美しい風景や息を呑む画面を見たとしても、俳優の台詞、ナレーション、テロップなどで、視覚の驚きやキラメキを説明する言葉が無ければ、我々は、安心できなくなってしまっているのです。
震災の恐ろしい津波のシーンでもそうなのです。
3.11震災で、死は、不意に今の自分にもやってくる、距離の近さを感じさせられたと言いましたが、この感覚の鈍さも、さらに「死んだらどうなるか」に無関心であることも、これが原因であるように思います。
次回は、この誤解をベースに、仏教は、どう「死んだらどうなるか」を理解するのか、その方法お話しして行きたいと思います。
もう少し詳しく言うと
「正しく楽しく生きる方法」や「ハッピーに生きる」ことは、TV、Book、インターネット等のメディア、そして、哲学、倫理学、科学を元にする医学、心理学、健康法、そして宗教などで、日々あふれるようにヒューマンに語られているので、それなりに興味は持つのですが、「寿命を長くする方法」「死なない方法」「死んだらどうなるか」には興味がないようなのです。
仏教などの東洋の宗教では、「寿命を長くする方法」「死なない方法」「死んだらどうなるか」を考えると、それとひとつながりに、「正しく楽しく生きる方法」もわかってくることになっているのですが、どうも、現代日本人は、その中の「正しく楽しく生きる方法」のみを取りだして、それが宗教だと思っているように見えて、勿体ない理解をしているようなのです。
仏教を良く知った者は等しく、仏教は哲学であると感想を述べていますので、これからの進行は、科学的論理とあまり変わらない論理で可能と考えていますが、しかし、現実は、日本の仏典など新しいものでも数百年前、インドのウパニシャッド、中国の道教の書など古いものでは紀元前数百年前に書かれており、その時代では一番魅力的なこと、つまり平安鎌倉時代か昔のインドや中国の宮殿のような世界観なので、もうその外観だけで現代日本人は、関係ないと思ってしまうようなのです。
ですから、論理は仏教そのままであっても、現代日本人に分かる世界観で表現をして行かなければ、この先、理解してもらえない事になるのです。
では、現代の世界観と仏教の世界観、例えば、空海であると一千二百年前になるのですが、その時代と今とでは、何が違っているのでしょうか。
その違いは、「言葉」にあります。
と言っても、現代語と古語といった形式ではなく、言葉で理解する深度の問題です。
例えば、空海が建立した京都東寺、その金堂を飾る薬師如来仏を中心とする曼荼羅仏像群を見るとします。
現代日本人は、エキゾチックな仏像群を前に圧倒され、見るには見るのですが外見を眺めるだけで、それ以上は想像力を働かせずに、すぐ解説文を読んでしまう。そしてその内容で、これは何を意味しているのかを理解した。と思ってしまう。
一方、一千二百年前の空海の頃は、文字が読める人は少なく、原色ゴールドのピカピカ仏像群を前に、食い入るように見つめ、さらに聴覚、臭覚、記憶、感情、意識、無意識を総動員し、想像力を働かせ、理解しようとする人がほとんどだったでしょう、それはディズニーランドのパレードを眺める感覚に近く、灰色の印刷文字での理解とはほど遠いものがあったように思います。
つまり、現代日本人は、感覚、意識、感情を総動員する前に、それとすり替えるようにして、文章を読んでしまい、その言語思考での理解を理解の総てにしてしまているようなのです。
また我々は、空海が著した仏典を、現代のBookのように活字を黙読し、書き言葉の物語として、つまり言語思考で空海を理解しようとします。そしてその流れで、東寺金堂の曼荼羅仏像群までもその方法で理解したと思ってしまうのです。でも本来、空海が著した仏典とは、ディズニーランドのパレードを眺めて心きらめくような、その感覚への単なるサポートであったかも知れないのです。なぜなら、現代日本人でも、そのパンフレットや説明書を読んだだけで、ディズニーランドのパレードを理解したとは言わないからです。
つまりこの一千二百年前の人々のきらめく感覚からの理解と、現代日本人の言語思考からだけの理解の違いが、多くの誤解を生んでいるようなのです。
文字を読まなければ理解できない、つまり、人間の感覚や理解機能の中でも、特に言語思考での理解を理解の総てにする傾向は、 現代日本人だけでなく、現代先進国文明の特徴のようにも思います。
例えば、TVや映画で、美しい風景や息を呑む画面を見たとしても、俳優の台詞、ナレーション、テロップなどで、視覚の驚きやキラメキを説明する言葉が無ければ、我々は、安心できなくなってしまっているのです。
震災の恐ろしい津波のシーンでもそうなのです。
3.11震災で、死は、不意に今の自分にもやってくる、距離の近さを感じさせられたと言いましたが、この感覚の鈍さも、さらに「死んだらどうなるか」に無関心であることも、これが原因であるように思います。
次回は、この誤解をベースに、仏教は、どう「死んだらどうなるか」を理解するのか、その方法お話しして行きたいと思います。