写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

レンズの自由意思- 3

2010年03月14日 | 「レンズの自由意思」
「レンズの自由意思」の第一回で、「撮影者」と「レンズの自由意思」の関係で仕分ける、五つの撮影法をお話ししましたが、さらにそこに、撮影者の作画意識からの分類を加えて、撮影法をお話ししたいと思います。

作画意識その一は、シャッターを押す前に、撮影者は、先ず、自分の臭覚、味覚、触覚、聴覚、視覚、そして体内感覚を動員し、被写体を眺めます。写真ですから視覚が主になりますが、そこから受ける感覚や被写体の魅力を、写真技術で写真にしようとする撮影法です。
視覚からの感受は、現実意識(論理的な言語意識)と無意識(流動的で非論理的)で意識されますが、さらに記憶との照合を経て生まれる理解と心で、こう撮りたいああ撮りたいと仮想し、五つの撮影法のいずれかの方法で操作に向かいます。そして、シャッターが押され写真が生まれます。

この作画意識の場合、五つの分類の中では、第三の、レンズの自由意思に無関心な方法。アマチュアカメラマンの我が子をよく知るお母さんが我が子の笑顔を撮る時の撮影法が一番自然なのですが、これではプロ写真になりませんので、第四の、対象を分け隔てなく総て撮ってくれるレンズの自由意思を意識しながら、でも最低限、撮影者の意思をどう残すかの方法になります。

野町和嘉の場合、地球があって、大地に垂直に、人や木や山や砂丘や建物や大気や空がある。この肉体と感覚の根源的なバランス感覚(大地感覚)が「撮影者の意思」であり、他はレンズの自由意思を尊重する方法なのですが、他の写真例を見てみましょう。
多くの写真家の場合、「撮影の意思」を一つか二つにして作品キャリアを深めることが多いのですが、種々の「撮影の意思」を操りシャッターを押す、写真家大西成明さんの写真を例にこれからはお話ししてゆきます。


始めの一つは、 撮影者が「物質への無限意識と意思」を持って、です。


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絵画で言えば、マチエール、テクスチャーの「無限・永遠」になりますが、前に「永遠のモナリザ-2」で詳しくお話ししたように、 マチエール、テクスチャーとは、絵画の質感表現の事を言い、 「モナ・リザ」では、顔や胸や手の「肌合い」の表現であり、それは「無限・永遠」の表現になります。
レオナルド・ダ・ビンチが行う方法は、皮膚には、毛穴や皺やがあって、細かくは細胞がある。究極には原子があってクオーク、超ひもがある。その無数に無限にある手の要素を、絵具で、一つ一つカンバスに描こうとする方法です。現実には、写真と同じように表面の皮膚しか描けませんが、表層であっても細部まで見て行くと宇宙の無限に匹敵する無数の要素があって、その無限意識を、画家の意思にして、写真の場合は写真家の意思にして、筆を進め、シャッターを押す方法です。撮影者が無限意識(無意識)さえ持っていれば、そのほかは、レンズの自由意思が、人間の感覚の能力以上に、「物質の無限」を写し撮ってくれることになります。


次は、撮影者が「記憶への無限意識と意思」を持って、です。


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それは、例えば「美人の人形」であれば、 撮影者は、人形から浮かぶ美人のイメージに触発され、それに似た「記憶の美人」を求めて、頭脳や心の中へ発見の「旅」をすることになります。
カメラマンは、自分の記憶の中から人形に似た「美人の記憶」を探し出し(無意識の意思)、その風情に倣って写真技術で写真に表現します。
もしカメラマンに、その人形の美人イメージに触発される「美人の記憶」がなければ、彼には美人ではない美人人形の写真が出来ることになります。
そして鑑賞者は、前に「永遠のモナリザ-3」で詳しくお話ししように、歌麿の「輪郭線」で描かれた浮世絵美人を眺めるのと同じく、写真を見て、自分の記憶の中から「記憶の美人」を探し出し美しいと感じることになります。

ちなみに「美人人形」を、「物質への無限意識と意思」で撮影となると、先ず、恋人や妻の顔、むしろ電車にたまたま乗り合わせた見知らぬ美人を、まじまじと見つめるように眺め、その魅力を見つけ出し、写真技術で写し撮ろうとしますが、対象の人形に恋することが出来なければ、美人の人形であっても、撮られた写真からは、学術研究用のような木に塗装を塗られた工作物の印象が強くなります。
つまり、「記憶への無限意識と意思」は自己の内部(記憶)への探究であり、「物質への無限意識と意思」は自己の外部への探究ということになります。

そして、二つの場合とも、レンズの自由意思は、撮影者の意思と関係なく、色やカタチなど、レンズに映っているものは分け隔てなく総て写してくれます。


次は、撮影者が「空間への無限意識と意思」「無意識の大地感覚」を持って、被写体の魅力を自分の写真技術で写真にしようとするです。


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「無意識の大地感覚」は、地球が誕生し重力が発生した段階で、地球上の総ての物質、生物に付与される根源的な感覚です。野町和嘉の例で分かるように、この意識で撮影すれば、重力(大地と垂直)と地球は丸いという根源的な感覚が、鑑賞者と共有できて、これは地球の風景であると理解されます。
そしてこの「大地感覚」を持った風景空間には川が流れています。
川は下流から上流からどちらから撮っても、川の流れのパースペクティブ(遠近法)を意識することになります。また、空が登場すると、空の彼方、つまり無限遠と、遠方が限りなく小さくなる遠近法との対比を考えなければなりません。無限遠とは限りなく大きく深い事なので、遠方が限りなく小さくなる遠近法と矛盾するのですが、人間の感覚はその矛盾こそ空間感覚・意識としています。事実、川下からの撮影では、川上は限りなく小さく写るのですが、さらにもっと遠くにある空は、それより大きく写真には映っています。
それを矛盾というのは、科学的(言語思考的)におかしいと言われるかも知れませんが、東洋の水墨画では、遠方の山を近景より大きく描く、逆遠近法がありますので、繊細な知性である無意識の認識レベルでは正しい感じ方でもあるのです。
「空間の永遠・無限」について、詳しくは「永遠のモナ・リザ-1」をご覧下さい。

また、このような関係は、量子論的であると言えます。量子論では、例えば、原子核の周りを回る電子の位置と運動は同時に決められないという「不確定性原理」が働きますので、そこで電子の軌道の描画は、霧のようになって線が引けないことになるのですが、写真では、量子論的であっても、川のパースペクティブと空の無限は、 同一画面に描画できていると考えられるのではないでしょうか。

川の流れの「流れ」は、また、流れる時間の経過という時間意識を連想させます。
そして時間意識と空間意識との間にも量子論的関係があります。空間を意識していると時間感覚が希薄になり、時間を意識していると空間が見えなくなって来ます。
写真や眼は視覚ですから、空間意識は得意ですが時間意識は苦手です。絵画の場合、時間意識の表現は、汽車や馬の疾走、煙のたなびき、など、画面では静止していても、つまり時間が経過している感覚の発露を、鑑賞者の意識に期待する方法を取ります。
生物学的に視覚は、大脳新皮質に結ばれていて、より言語に対応していますので、絵画や写真は、粗い知性である言語理解レベルでしか、時間感覚を表現できないのかも知れません。

つまり人間は、川の遠近法と空の無限遠を同時に意識できず、また。川の流れの時間経過と景色の空間も同時に意識できないのですが、しかしレンズの自由意思は、その総てを同一画面に表現してくれています。

次回は、写真家大西成明さんの次の写真を例に、 もう一つの作画意識である、無意識や現実意識から仮想のイメージを生みだし写真にする撮影法をお話しします。


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