写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

「言語思考」について-1

2007年07月04日 | 「言語思考」

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このブログの「始めに」のなかで、

私は幼少から、特に高校生になったあたりから、言語には敵意を持っていて、心の中で、決して主役を演じさせてはならないと、直感的に思ってきました。「言霊」とか「真言」とか言葉の威力で何かをすることに、その目的は良しとしても、手段としての「言葉」にアレルギーを感じてきました。
しかし、言葉以上の伝達手段の代わりは、今のところ見つかってはいません。ですから、先々言葉で言葉を語る自家中毒が予想されるのですが、つまり悔しいのですが、「色即是空、空即是色」の昔人と同じ遠回りな利用手段を取らざるをえないのではと、少し言葉に譲歩して進めたいと思います。

と書きました。
ですから、言語のこと、「言語思考」について、思うところを、どうしてもお話ししておかなければなりません。

言語思考を悪く言うことは、人間社会の全部を敵に回すに等しく、気が進まない話でもあります。また、言語思考で言語思考のことを言うのは、自家中毒的で、犯人が犯罪を自分で裁くような、言語思考的にはナンセンスなことでもあります。それに気付いていただくために、綴る言葉の間からこぼれ落ちる事柄である「写真の魅力」を始めに、「胸キュン」「なつかしさ」「DNAの記憶」「地球人」などを話題にして、言語思考がラベリングをしただけでわかたつもりになっている、感覚、知覚、理解、納得に限界があることをお話ししてきました。

また、科学は、論文のカタチで言語思考に翻訳され評価を受ける、まさに「言語思考」そのものなのですが、その言語思考をメソッドとして発展してきた科学分野で、言語思考の限界が認識され始めています。
その限界により研究の停滞が始まり、ひいては人類の停滞を生むのでは…と。反対に、劇的に解決できれば、我々の祖先である、3.5万年前頃誕生したと言われる新人(ホモサピエンス・サピエンス)の出現と同じように、突然変異的に、新しい能力を持った「新新人」に、生まれ変われる契機にもなるのではないか…と。
だんだん荒唐無稽になってきましたが、現在、科学の停滞や閉塞感は、こんなことを言い出しかねない状況なのです。例えば、地球環境が壊れ、月や火星に移住するとなったら、住人がまだ、ユークリッド幾何学やニュートン力学のレベルで、思考しているなら、人類の生存は危うくなってくる。と考えるのです。

近年の科学的研究から、我々の祖先である新人(ホモサピエンス・サピエンス)が出現して以来、その脳の構造と基本能力は変化していないと言われています。大脳の発達が言語機能を生み、人間固有の「心」を出現させたことも分かってきました。つまり、その3.5万年前に作られた人間の基本構造や能力について、その限界を、現代人であるホモサピエンス・サピエンスが感じ始めたという理解が、科学的な言い方なのかもしれません。

自動車は人間の移動能力を増加させました。人間は道具の創造によって、ホモサピエンス・サピエンスの能力に新しいパワーを加えることができました。コンピューターは、言語思考のメソッドから生まれ、言語思考をパワーアップするツールと考えられますが、その出現により、その生みの親である言語思考に限界を見ることになるのは皮肉な話なのですが、また、この限界の突破に、コンピューターが有用なのかどうかも、期待は多いのですが、まだわかりません。

これまでの人類の歴史の中で、言語思考の正体とその限界、そして限界の突破法を考えてきたのは、「仏教」です。私が「言語思考」に対峙して「仏教」を持ち出すのもそこにあります。しかし、仏教にも言語思考至上主義と思われる、真言宗(空海)や、なによりも膨大な仏典の存在があります。読経や種字などの文字もあります。
「仏教」が「言語思考」と対峙する存在であるとするなら、その矛盾をお話ししなければなりません。
次回は、その大仕事からお話ししたいと思います。

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