日暮しトンボは日々MUSOUする

あれもヤダ、これもヤダのヤダモン女 (姉のこと・その2)

長女文子が旦那の実家の九州から逃げ出した一番の理由として、寝たきり老人(旦那の祖父)の世話をさせられたことだ。 家事も畑仕事も満足に出来ないのならば、他に姉のできる仕事はなかったのであろう。 重度の認知症で、家族の者も手に負えない厄介ごとを押し付けられたのだ。 まだ二十代前半だった姉に、老人の介護なんてできるわけもなく、下の世話までさせられたのだ。 いつまでもそんな状況をおとなしく受け入れられる性格ではない。 オシメを換えている時に、老人に「盗人め!あっちへ行け!」と言って茶碗を投げつけられた瞬間に姉はブチ切れた。 突発的に何もかも放り投げて、財布からお札を何枚か握り締めて飛び出して来たのだ。 


実家の2階は六畳と四畳半のふた部屋。 六畳は私の部屋で、隣の四畳半は不必要な家具や荷物などの物置部屋になっていた。 姉と子供が出戻ってきたので、その狭い四畳半に寝泊りすることになった。 古くなったタンスや積まれたダンボール箱のわずかな隙間に布団を敷いて親子で丸まって寝るのである。 姉はこれからのことを毎晩のように父親と話し合ってるようだが、もう九州には絶対帰りたく無いと言う決意だけは頑なだった。 姉はとりあえず仕事を探して、近所のジーパンの店マルカワにパートで入った。が、ジーパンの裾直しの寸法を間違えたらしく、ちょっと注意されただけですぐに辞めた。 その後も食品売り場のレジ打ちをやったが、それも三ヶ月持ももたなかった。 その後も、作業着のチェーン店ワークマンとか、仕事を転々としたみたいだが、何をやってもちょっと失敗しただけですぐ辞める。 仕事がつまらないと辞める。 キツくても当然辞める。 もうどうしようもない。  あれもヤダこれもヤダで長続きしない。 それでは女手一つで子供を育てていくのは到底無理である。 高校生だって我慢してバイトやってるのに、姉の堪え性のなさはそれ以下である。 子供のために、少しは我慢して働いたらと、私が言うと姉は「あんたは良いわよね、親の金で専門学校行かせてもらってさ。 スネかじりなんかに私の気持ちがわかるわけない!」とキレられた。 じゃあなんで結婚なんてした? と私が言うと、好きで結婚したわけじゃない。子供ができたから仕方なく一緒になった。 みたいなことを言ったので、そんな気持ちで嫌々ながらヨシユキを産んだのか!  と、私は私なりの青臭い気持ちのままで言葉を投げつけた。 じゃあどうすればよかったのよ? 子供を下ろせばよかったの!? と、また逆ギレされた。 ヨシユキを産まなきゃよかったなんて、よく言えたわね。 いや、産まなきゃいいなんて言ってないし…  物凄い剣幕で詰め寄られて、私は言葉に詰まってそこから先は何も言えなくなった。 当時、まだ気軽なスネかじりの身である私としては、男女の現実的な話に首を突っ込むのは早すぎたのだ。 結局姉は離婚する決断も出来ないまま、無職のままズルズルと実家に居座る感じに見えたので、とりあえず父は、物置になっていた四畳半のものを処分して部屋を広く使えるようにした。 もう仕事を探すのをとっくに諦めた姉は、家の家事も手伝わず、子供もほっぽって、高校の時の友達と会っては、旦那の実家の悪口を言いふらしてウサを晴らしていた。  その間、放置されているヨシユキはというと、私の部屋には漫画の本や、ゲーム機(PCエンジン)とか、アニメや映画のビデオ等、遊ぶものがたくさんあるで、母親にかまってもらえなくても、とりあえずは寂しくはなかっただろう。 
この時、私には付き合っていた彼女がいた。 彼女の職場が私の家の近所だったので、仕事の帰りにちょくちょく立ち寄ったりして、よく遊びに来ていたので、私の両親とも仲親しくなっていた。 姉が戻って来たので、しばらくは家に来るのを遠慮していたが、いよいよ姉と彼女が顔を合わせる時がきた。  私はこの時ほど、姉の背中に飛び蹴りをくらわせたいと思ったことはなかった。 




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