全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

キリスト教映画「勝利の凱歌」抜粋シーン(1)主は再来の時、どのようにして出現され、御働きをなさるのか?

2020-03-10 09:52:35 | 全能神教会の寸劇

                                                     あらすじ
終わりの日の大災害の予兆、すなわち4つの血の月と、夜空の星々の異様なさまが出現し、大災害は近づいています。多くの主を信仰する者達は主の再臨の予感、あるいはすでに再臨されたことを感じています。皆が主の再臨をそれほどまでに待ち焦がれているとき、ふと疑問を抱いたことがありませんか?終わりの日に主が再臨される時、主は一体どのようにして出現なさるのでしょうか。また、再臨のときに主がなさる御働きとはどのようなものでしょうか。ヨハネの黙示録にある大きな白い玉座での裁きは、どう成就するのでしょう。この短編動画がその答えを示してくれます!

キリスト教映画「聖書の奥義を解く」抜粋シーン(3)誰も預言に書き加えてはならないという黙示録の言葉は何を意味しているのか


神の現れによる新時代の到来

2020-03-09 14:02:48 | 全能神の発表

六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求める人々にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。ああ、神の現れがどれほど慕わしいものか。だが、神の足跡を見出すことがいかに難しいことか。今のような時代に、このような世界で、神の現れる日をこの目で見るために何をしなくてはならないのだろうか。神の足跡をたどるには何をしなければならないのだろうか。神の現れを求める人であれば、だれでもそのような疑問を持つものである。あなたがたもそのような疑問を抱いたのは一度や二度ではないと思うが、その結果はどうだったか。神はどこに現れるのか。神の足跡はどこで見つかるのか。そうした疑問に対する答えは見つかっただろうか。そうした問いに対して、次のように答える人が多い。「神は自分に聞き従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。そんなに難しいことではない。」決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神が仕事を行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質は保ったままで、また神自身の方法で、神は時代を始め、時代を終わらせるために人間世界に下ってきた。このような神の現れは儀式のようなものではない。それは何かのしるしでも、絵画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な儀式でもない。それは、実際に手で触れ、見ることのできる動かしがたい事実である。このような神の現れは何かの手順を踏むためのものでも、短期間の仕事のためのものでもない。それは、神の経営(救いの)計画の中にある一つの段階を実現するためのものである。神の現れは必ず何かの意味があり、必ず神の経営(救いの)計画と関係している。ここで言う現れは、神が人を導き、先導し、啓くときの現れとは全く異なる。神は自身を現す度に、神の大いなる業の一つの段階を実行に移すのである。この働きは他のどの時代の働きとも異なる。それは人には想像もできないもので、人が経験したことがないものである。その働きは、新しい時代を到来させ、古い時代を完結させるもので、新しい、一歩進んだ、人類を救う働きである。さらには、人類を新しい時代に導き入れる働きである。神の現れが持つ意義はそこにある。

神の現れについて理解するとともに、神の足跡をどのように探し求めるべきなのだろうか。この問いに答えるのはさほど難しくはない。神の現れがあるところで神の足跡も見つかるからだ。そう言うと単純に聞こえるが、実際に見つけるのは単純なことではない。多くの人は、神がどこで自分を現すか、ましてや神がどこで自分を現したいか、現すべきかを知らないからである。ある人々は、聖霊の働きがあるところには神が現れると何の考えもなく思っている。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、人々の知名度が高いところに神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。私たちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。

アメリカ人でも、イギリス人でも、どこの国の人でも、自分という枠を乗り越え、自分という存在を超越し、神の創造物として神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはないだろう。それは、特定の国や民族に神が現れることはないだろうと考えている人が多いからである。ああ、神の働きの意義はなんと深く、神の現れはなんと重要か。それは人の観念や考えで測ることなどできるのだろうか。そのため、神の現れを探し求める際には、みずからの国籍や民族性という枠を突き抜けるべきである。そうすれば、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを喜び迎えることができる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。

神は全人類の神である。神が自分を一つの国や民族の所有物とすることはない。神が自分の計画にある働きを、形式や国、民族といった制限を受けることなく行う。これまであなたはこのような形式を考えたこともなかったかもしれないし、そのような形式があることを否定するかもしれない。神が現れる国や民族は差別されている最貧国かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神は、自分の力によって、また自分の真理と性質を通して、自分と心が一つになっている人々をすでに得ている。それは神が求めていた人々で、神に征服され、苦しい試練とあらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる人々である。神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、神が自分の計画どおりに働きを完成できるようにするためにである。たとえば、神がユダヤの地で肉となったとき、その目的は十字架の働きを完成させ、人類をあがなうためだった。しかし、ユダヤ人は神にそのようなことができるわけがないと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとって現れることなどありえないと考えたのである。この「ありえない」という思いが、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対してしまう原因となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日も、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れるかもしれないと当てもなく言いながらも、神の現れを罪に定める。その「ありえない」という思いが再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めてしまっているのである。わたしは、神の言葉に出会って、それを一笑に付した人々を数多く見てきた。このような態度は、神を罪に定め、冒涜したユダヤ人と何ら変わりがないではないか。真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。神が現れるところでは、真理の現れと神の声がある。真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。まずは、自分の観念を脇に置きなさい。立ち止まって、次の言葉をよく読みなさい。あなたが真理を慕い求めるなら、神はあなたの知性を明るくし、神の心と言葉を理解できるようにしてくれる。「ありえない」という思いを脇に置いておきなさい。人が不可能だと思えば思うほど、実際に可能になる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の思いや観念をはるかに超越するものだからである。不可能であればあるほど、そこには探し求めるべき真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心が詰まっている。どこで自分を現そうとも、神は神だからである。神の本質が現れる場所や方法で変わることはない。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。たとえば、主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもある。さらに言えば、全宇宙で唯一無二の神である。だから、神の語る言葉から神の心を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは共存する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。ここに記した言葉に神の現れを見てとってほしい。そして、新しい時代に向かって神の足跡をたどってゆき、神の現れを待ち望む人々に用意された新天新地にたどりついてほしいのである。


質問2

2020-03-08 18:57:10 | 福音问答

質問2.全能神教会では、主イエスの再来についてすでに証しをされている。そうですね。全能神は主だと。全能神は終わりの日に裁きを行われる。しかし多くの信者は信じています。主は雲に乗って来られると。主イエスが言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30) 黙示録にもあります。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7) 私もまた、主が雲に乗って再臨されることと信じています。雲に乗って来られない主イエスは受け入れられません。主の再臨は受肉されひそかになされると言っていますね。でも誰もそれを知りません。主が雲に乗って戻られるのは間違いありません。そのため、私達は主が雲に乗って現れ天国にお連れくださるのを待っています。我々の理解は正しいのでしょうか?
解答: 雲に乗って来られる主を待ち望むことにおいて、我々は人間の考えや想像に頼ってはなりません!パリサイ人は、メシアの到来を待つにあたり、大きな間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、すでに来られていた主イエスを測ろうとしたのです。最後には、主イエスを十字架に磔にしてしまった。これは事実ではないですか?主の到来を待つのは、我々が考えているほど単純なことでしょうか?もし主が戻られ肉の主イエスがなさったように人の間で働くが、我々が彼を認めなかったら、パリサイ人らがしたように、やはり彼を裁き、非難しもう一度磔にするでしょうか?その可能性はありますか?主イエスは再来することを予言し、それについて多くを語ったが、あなた方は、主は雲に乗って来られるという予言のみに固執し主が語った他のより大切な予言を求めたり、探究しないでいる。これでは簡単に間違った道を歩んでしまい、主に見捨てられてしまいますね。聖書には、単に「雲に乗って降臨される」という予言のみがあるのではない。他にも、主は盗人のように、ひそかに来られるといった予言が多くあります。例えば、黙示録16:15、「見よ、わたしは盗人のように来る。」マタイ25:6、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」そして、黙示録3:20:「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」これらの予言はすべて、神が人の子として肉となり、ひそかに降臨されることに言及しています。「盗人のように」ということは、静かに、ひそかに、という意味です。人々は彼を見たり、聞いたりしても神であることが分からない、その昔、主イエスが現れ、その働きをなさったときのように。外からは、主イエスはただの人の子であり、誰も彼が神であること知らなかった。なので、主イエスは「盗人のように」という例えを使って、人の子としての出現と働きを説明しました。これはあまりにもふさわしい!真理を愛さない者は、肉となった神がいかに語り、働き、多くの真理を表したとしても、それを受け入れない。その代わり、受肉した神をただの人として扱い、彼を非難し、見捨てる。なので主イエスは、再臨するときについて次の予言をしました:「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」主の予言にもとづき、その再臨は「人の子の再来」となります。「人の子」とは、受肉した神を意味し、復活した主イエスが公に、皆の前に雲に乗って霊的な体として降臨することを意味するものではない。それはなぜでしょうか?考えてみましょう。それが復活した主イエスが公に、皆の前に雲に乗って降臨する霊的な体のことであれば、非常に迫力があり、世界にショックを与えるでしょう。誰もが地にひれ伏し、抵抗しようとするものは誰もいないでしょう。その場合、再臨主イエスはそれでも多くの苦しみに耐え、その世代から退けられるでしょうか?ですから、主イエスは自分の再臨は、「人の子としての再来」であり、「盗人のよう」だと予言したのです。現実には、それは神が受肉し、ひそかに人の子として来られることを意味しているのです。

では、人の子がひそかに降臨し、神の働きをなすことと、神が雲に乗って公に現れることとの関係とはどういうものでしょうか?この過程には何が関わっているでしょうか? これについて簡単に語ってみましょう。終わりの日には、神が受肉し、ひそかに人間の間に降臨され、語られ、神の家から始めて裁きの働きをなさいます。神の声を聴き、その王座の前に戻る者たち全員を清め、完成させます。そして彼らを、勝利者の群れとされます。それから神は、大災害をもたらし、終末に神の裁きを受け入れない者たちをよりわけ、罰します。その後、神は雲に乗り、すべての人の前に公に姿を現します。これで黙示録1:7の予言は、完全に果たされます:「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」主が雲に乗り来られるときに、彼を突き刺した者たちも彼が見えるのか?彼を突き刺した者たちとは一体誰なのか?これは主イエスを十字架に釘付けにした人たちだと言う人もいます。本当にそうなのか?主イエスを十字架につけた人たちは、ずっと前に神に呪われ、なきものにされたのでは?現実には、彼を突き刺した者たちは、終わりの日に受肉された神がひそかに降臨され、働かれているとき神の声を聴かず、全能神を非難し、抵抗した者たちです。そのとき、彼らは自分たちが抵抗し、非難した全能神がまさに長年彼らが激しく待ち望んでいた救い主イエスであることを知るのです。胸を打ち、泣いて歯ぎしりしても、その結果は懲罰しかありません。黙示録は、そのような人々が最後には生きるか死ぬかを記していないので、我々は知ることができません。神のみぞ知る。神の声が聞ける賢いおとめたちだけが、主の再臨を迎える機会をもつことができ、神の王座の前で子羊の宴に参加し神により、勝利者として完成されます。これで黙示録14:4の予言は果たされます:「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」だが、主は雲に乗ってくるという考えのみに固執し、終わりの日の神の働きを求め、探究しない者は、愚かなおとめたちと見なされます。ことに全能神に激しく抵抗し、非難するものは、終わりの日における神の働きにより正体が暴かれるパリサイ人や反キリストたちです。彼らは皆、神を再度十字架につけた人たちです。これらの人々は皆、大災害に遭遇し、懲罰を受けるでしょう。雲に乗ってくる主のみを歓迎するという人々の犯した間違い、彼らがどんな人たちであるか、その結果はどうなるのか、ということにつき、皆さんは明白に理解されたと思います。

『呪縛を解く』より


神の新しい業を受け入れる者は祝福される

2020-03-07 11:27:30 | 全能神教会いのちの経験の讃美歌MV

あらすじ
キリスト教讃美聖歌 「神の新しい業を受け入れる者は祝福される」

聖霊の現在の言葉に従うことができる人々は

みな祝福されている

そのような人々が過去どうであったか

聖霊が人々の中でどのように働いていたかは問題ではない

最新の働きを得た人々は最も祝福され

今日の最新の働きに従えない人々は排除される

神は新しい光を受け入れることができる人々を望んでおり

神の最新の働きを受け入れ知っている人を求めている

貞節な乙女は

貞節な乙女は

聖霊の働きを求め

新しいことを理解することができる

古い観念を忘れ

今日の神の働きに従うことができる

今日の神の働きに従うことができる

今日の最新の働きを受け入れる人々のこの集りは

昔から神によって前もって決められており

人々のなかで最も祝福されている

あなたがたは神の声を直接聞き

神の出現を見て

そのため天と地を通じて、世代を通じて

あなたがたつまりこの集りよりも祝福された人々はいない

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


キリスト教映画「待つ」抜粋シーン(1)主の再臨にどう注意を向け、待つべきか

2020-03-06 14:36:52 | 全能神教会の寸劇

あらすじ
キリスト教映画「待つ」抜粋シーン(1)主の再臨にどう注意を向け、待つべきか 日本語吹き替え

主が再び来られる時、雲に乗って来られるのでしょうか、それとも盗人のように密かに現れるのでしょうか。あなたは主の再来にどのように向き合いますか。 偽りのキリストに導かれることを恐れて、主を探し求めることを拒みますか?それとも、賢き乙女のように神の声に注意深く耳を傾けますか?私たちはどのように「注意を向け、待つ」べきでしょうか、主が来られた時に主を歓迎できるように。この短編動画を見て答えを探ってみましょう!

おすすめ動画

キリスト教映画「知らぬが命取り」なぜ愚かな乙女は天国へ入ることができないのか 日本語


救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た

2020-03-05 09:48:07 | 書籍

数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。

「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしであるすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、力ある全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行ったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを救済し、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを作った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終りの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖罪の働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行い、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行い、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から救われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度救うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行われるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。


神は栄光と共に世界の東に現れた

2020-03-04 12:50:11 | 全能神教会いのちの経験の讃美歌MV

あらすじ
素晴らしい讃美聖歌 「神は栄光と共に世界の東に現れた」救い主はすでに再臨された

神は全宇宙で業を為している

東で絶えず轟く音が全ての宗派と教派を揺さぶっている

神の声は皆を導き征服し

彼らはこの流れに落ち 神に従う

神は昔 地で栄光を取り戻し

東からそれを再び放った

それを見たいと望まないのは誰か

熱心に神の帰りを待たず

神の再来を渇望せず

その素晴らしさを恋慕わないのは誰か

光に来ず カナンの富を見ない者は誰か

贖い主が戻って来るのを切望せず

全能の神を讃えないのは誰か

神の声は全地に広まるべきだ

選民への神の言葉は更にある

山河を震わす雷のように

神は宇宙と人類全てに語り

その言葉は皆に愛される宝となる

稲妻が東から西へ真直ぐ走る

神の言葉を手放したくない

それは計り知れず、喜びをもたらす

生まれたての乳飲み子のように

喜び神の到来を祝う

神の声が人を神の前に惹きつける

今後神は正式に人の間に入る

皆が神を礼拝し

栄光と言葉ゆえ

神の前で東に光る稲妻を見る

II

神は東のオリーブ山に降り立った

長く地にいる

神はもはやユダヤ人の子でなく

東の稲妻である

神は人の元を去ったが

今栄光に満たされて再び現れた

神は幾時代も前に崇められ

イスラエルに見捨てられた乳飲み子

栄光ある現代の全能神

これこそ神の成し遂げたいこと

神の計画の終結と絶頂

業の目的は人々が玉座の前で

神の顔と業を見てその声を聞くこと

こうして全ての国は神を拝み認める

皆が神を信頼し神に従う!

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


質問1:主の再来は信者が天国に直接引き上げられることを意味すると信じる。

2020-03-01 12:49:07 | 福音问答

質問1:主の再来は信者が天国に直接引き上げられることを意味すると信じる。それは聖書に次のように書いてあるからである。「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(テサロニケ人への第一の手紙4:17)主イエスが再来したとあなたがたは証ししているが、それではなぜ今私たちは地上にいて携挙されていないのか。
回答

主の再来に関しては、主イエスの預言に従うべきで、それが主を待つ妥当な方法だと思います。今の聖句は誰の言葉ですか?主ですか?人間の言葉ですか?「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、」とは誰が言ったのです?主イエスの御言葉ですか?主イエスはもちろん聖霊もそのような事は言っていませんよ。それはパウロの言葉ですよね。パウロの言葉は主イエスを代弁していますか?神の代わりができますか?神だけがこの奥義を解き明かすことができ、堕落した人間が勝手に解釈して決めつけるのは深刻な問題です。パウロはキリストではありません。堕落したごく普通の人間で、その書き物も人間の考えと想像の産物です、彼の言葉は真理ではないので、何の証拠にもなりません。聖書の神の御言葉を根拠にすることこそ真理に沿っています。聖書の中の人間の言葉に基づいて天国を待望するのは間違いです。主イエスの御言葉でなく、パウロの言葉なら尚更です。主イエスの御言葉だけが真理で、権威があるからです。主イエスだけがキリストで、天国の王なのです。なぜ主イエスの御言葉の中に真理と神の御心を探そうとせず、人の言葉に頼るのですか?それは主の御心にかなっていますか?これでは人に従い、自分勝手な道に進んでしまいます。はじめに神は土のちりで人間を造りました。人間は神が創造した地上の物を管理するという義務を与えられ、地において神に服従し、崇拝して賛美することを求められ、人間の終着点は天ではなく地上であると決められているのです。それに神はずっと昔に、御国は地上に建てると言われていました。地上で人間と共に住み、地の国はキリストの支配する御国になるので、神の御国は天ではなく地上に建てられるのです。多くの人が天に招かれようと空を見上げますが、それは思い込みと想像から来る妄想に過ぎません。神の御働きにも真理にも合っていません。

主イエスはこう言われました。「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイによる福音書 6:9-10)主イエスが言われたのは、神の御国は天ではなく地上にあり、御心が天に行われる通り、地にも行われますように。ヨハネの黙示録第21章2節から3節を読みましょう。「新しいエルサレムが、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。…神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして。」ヨハネの黙示録 第11章15節を「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。」この預言によると、「神の幕屋が人と共にあり。」「新エルサレムが、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。」「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。」こうあるので、神は御国を地上に造り、人類と共に住まわれるのです。この世の国は全てキリストの国となり、永遠に続くのです。思い込みや想像で、神の御国が天にあり、主が戻られた時に天に引き上げられると信じるなら、主の預言は意味が無くなりませんか?神の人類を救う経営計画の最終目的は、地上に御国を建てることです。終わりの日のキリストである全能神は、地上に勝利者の一団を作るため、人類を裁き清める働きをされます。神から救われた者は、完全にされ、勝利者となり、地上で神の御言葉を実践し、神の道に従うことができる御国の民です。この一団の勝利者ができたら、神の御心が地上で実現し、キリストの御国が地上に作られ、神の御心は栄光に輝くのです。最後に、黙示録の預言が成就します。この事実が分かりませんか?主は私達にどのような場所を用意しているのでしょう?神の御心を行なえるよう、私たちは終わりの日に産まれるよう定められ、主が戻られた時にお会いし、神の清めを受け、完全にされ、勝利者になり、地上の国はすべてキリストの国になります。それが神の御心です。神は地上に現われるのに、私達は天を眺めています。もし神に空中に上げられたとしたら、食べ物も住む場所もなく、どうやって生きるのですか?思い込みと想像の産物でしょう?主はそのような事をされますか?本気でそう思うのは、子供っぽくて、頭に霧がかかっているようなものです!

だから御国も終わりの日に、地上に建てられるのです。人類の終着点は天ではなく地上にあるのです。これは神が定められたことです。全能神は言われます。「神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされたこと、人における神の働きが全部終わったことを意味する。神はもはや人の中で働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神はもとの場所に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営(救い)が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。神はもはや人の間には住まず、人も神と一緒に神の目的地で住むことはできない。神と人は同じ領域の中で生活することができない。むしろ、それぞれ自分の生き方がある。神が全人類を導くのであり、全人類は神の経営の働きの結晶である。導かれるのは人類である。人間は、本質的には、神と異なる。安息することとは、神と人がそれぞれの本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神がもとの場所に復帰することを意味する。神はもう地上で生活しないか、あるいは人の間にあっても、人と苦楽を共にしない。人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダムとエバの生活に復する。これが、神と人が安息に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が経営の働きを終えた後に安息に入ることと人が完全に救われ安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で残りの人類を導くが、地上から導くのではなくて天から導く。」(『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より)経営計画を完了された時に、神と人は共に安息に入るのだと、全能神ははっきり言われています。神の安息の地は天に、人の安息の地は地上にあり、これは神が私達に用意してくださった終着点で、神の御国が地上に建てられるのを意味する。何年信仰していても、これが分からないなら、真理、そして主の御言葉が理解できないということでしょう?

引き上げられるの本当の意味は何でしょうか。はっきり理解する人はあまりいません。その奥義については、全能神が明らかにされています。全能神は言われます。「『引き上げられる』とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。『引き上げられる』とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に引き上げられるだろう。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第百四章」より)全能神がはっきり説明しているように、「引き上げられる」とは私達が考えるように、体が空中に浮かび、雲の上で主に会うことでも、天に引っ張り上げられることでもありません。神が地上にお戻りになった時、御言葉を発して働きをされるので、それを聞いて神に従い、終わりの日の御働きを受けるという意味なのです。主の御声に気が付き、御言葉に真理を見出し、真理を受け入れて、全能神に戻ってくる人は、賢いおとめです。主が「盗む」金銀や宝石であり、神様の家へ戻る人達です。真理を理解し、受け入れる能力があり、神の御声がわかる人達です。そして本当に引き上げられる人たちで、神が終わりの日のひそかな出現と働きの時に作られる勝利者です。全能神が終わりの日の裁きの働きを始めると、神を本当に待っている人達は、全能神の言葉が神の御声である事に気が付き、次々に、終わりの日の神の裁きを受け入れました。御座の前で神に対面し、御言葉の潤いと養分を与えられ、神の事を本当に知ることができたのです。堕落した性質は清められ、御言葉に宿る真理を現実で、実現し、救われたのです。この人々は大災害の前に既に勝利者にされ、最初の果実として神の物となりました。思い込みと想像から盲目的に主の再来を待ち、天に招かれると思い、終わりの日の神の裁きを拒む者は愚かなおとめです。神に見捨てられるでしょう。災害に苦しみ、歯軋りし泣き叫ぶでしょう。それが事実です。

「国の神の福音の代表者の質問と回答」(よりレクション)より

レイズをどのように理解すればよいですか?復活は、神がこの領域の人類をこの領域から救い、別の領域に配置した方法を説明しています。しかし、リフティングについて考えるとき、私はいつもそれをリフティングできると思います。これは正しいですか?たとえば、あなたがゆっくりと進歩している遠隔地の村で生まれ、後に大都市で働くように割り当てられた場合、人間の言語はこれを遠隔地の村から大都市で働き、生活するように昇進したと表現します。はい。これは引き上げられるという意味ではありませんか?この持ち上げは、人々が空中に持ち上げられると考えるものとは違うのでしょうか?どちらが本当ですか?アセンションは、あるエリアから別のエリアへのアセンションです。それは上がります。この上昇は、あなたが地面から持ち上げられたり、地面から空中に持ち上げられたりすることを意味するものではありません。これは意味しません。代わりに、より高いステータス、より高いステータス、より高いクラスを意味します。これは上昇しています。たとえば、私たちはもともとfall落した人間の中で最も低い農民と労働者でしたが、彼らは社会的地位を持たず、人々に無視され、抑圧と搾取に苦しみ、何も言いません。神の王国は突然上昇しました。ポジションは改善されましたか?私たちはもともと暗黒の邪悪な世界で最も低い人間であるworld落した人間でしたが、今では突然エクスタシーに魅了され、神の王国の市民である神の王国の民になりました。もし私たちが復活し、神の国で人間になったら、これは昇給ではないでしょうか?これが本当のハイキングです。 「私はまだそこに住んでいます。私はまだこの仕事をしています。私は何も食べていません。昇進してみませんか?何ですか?高揚感や低空感によって携挙が決定できないのか。あなたが出てくるとき、あなたが高いと思う人は破壊されます。あなたは何もないと思うかもしれませんが、あなたは生き残ることができますこれをどのように説明しますか?神の国の人々の意味は本当です。この事実を確認する日が来ます当時、あなたは「ああ、私は本当に成長したが、気づかなかった。神の働きは素晴らしいです。真実がなければ、この種の携挙を理解して幸せな生活を送ることはできませんが、どれほど祝福されているかはわかりません。あなたがその時に昇進したとは言えませんか、あなたは神の選出者であり、神の国の人々ですか?これを説明していますか?ある日、あなたは「これは真実です。私のアイデンティティは確かに変わりました。この世界の人々は今でも私は労働者または農民だと思っていますが、神の目には、私は神の国の人です。だから私は本当に高揚し、すでに携挙されていました。これは携挙の実際の意味であり、いわゆるエクスタシーの意味を理解することはできず、想像力にしか頼ることができません。

同胞団から