あなたは神を信じる者の一人として、今日、終わりの日の神の働きやあなたに対する神の計画のすべての働きを受ける中で、あなたは神により引き上げられ、救いを受け取っていることを理解しなくてはならない。全宇宙における神のすべての働きは、この一群の人々に焦点を当てている。神はあなたがたにすべての努力を注ぎ、あなたがたのためにすべてを犠牲にした。そして全宇宙における聖霊のすべての働きを取り戻し、あなたがたに与えたのだ。それが、あなたがたは幸運なのだとわたしが言う理由である。さらに神は、自らが選んだイスラエルの民から自分の栄光をあなたがたへと移した。それはあなたがた一団を通して、神の計画の目的を全て明らかにするためである。それゆえ、あなたがたは神の嗣業を受ける者、更には神の栄光の継承者となるのだ。あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」あなた方は皆過去にこの言葉を耳にしたことがあるが、その言葉の真意を理解した者はひとりもいない。今日あなたがたは、この言葉の持つ真の意義をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものである。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害に晒されている。それ故、これらの言葉はあなたがた一群の中で実現するのだ。神に逆らう地において働きが行われるため、神のすべての働きは過度の妨害を受け、神の言葉の多くはすぐには達成されない。したがって、人々は神の言葉によって精錬される。これもまた、苦しみの要素である。赤い大きな竜の地で働きを実行することは神にとって非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を行い、自分の知恵と不思議な業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一群の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこのけがれた地の人々のサタン的なすべての性質故に、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、神の業の証に立つ人々を得るのだ。これこそが、神がこの一群の人々のために行った全ての犠牲のすべての意義である。つまり、神は自身に逆らう者たちを通して征服の働きを行うのだ。そうすることによってのみ、神の大いなる力が現わされるのだ。言い換えれば、けがれた地にいる者たちのみが神の栄光を受け継ぐに相応しく、これが唯一、このことによってのみ神の大いなる力を際立たせることができる。それだからわたしは、神の栄光はけがれた地とそこに住む者たちから得られると言うのだ。これが神の旨である。これはちょうどイエスの働きの段階と同じだ。イエスは、彼を迫害したパリサイ人たちを通してのみ栄光を受けることができた。そのような迫害やユダの裏切りがなければ、イエスは嘲笑されたり中傷されたりすることもなく、ましてや十字架に付けられることなどなく、栄光を受けることは不可能だったに違いない。神が各時代にどこで働こうが、肉としての働きをどこで行おうが、神はそこで栄光を受け、自らが得ようとする者たちを得るのである。これが神の働きの計画であり、神の経営である。
数千年に渡る神の計画において、肉による働きは二つの部分から成っている。そのひとつは十字架に付けられることであり、これによって神は栄光を受けた。もう一つは終わりの日の征服と人を完全にする働きであり、それによっても神は栄光を受ける。これが神の経営である。したがって、神の働きや神があなたがたに託したことをあまり簡単に考えてはならない。あなたがたは皆、すべてを超越した、神の永遠で重みのある栄光の継承者であり、それは神が特別そう定めたのである。神の栄光の二つの部分のうち、一つはあなたがたの中に現れている。神の栄光の一つの部分すべてがあなたがたに授けられており、あなたがたがそれを相続する。これは神によって引き上げられることであり、はるか昔に予め定められた神の計画である。大きな赤い竜が住む地において神が偉大な働きを行ったことを考えれば、その働きをどこか別の地で行えば、とうの昔にすばらしい実を結んでおり、容易に人に受け入れられていただろう。また、神を信じる西洋の聖職者たちにとっては、そのような働きを受け入れることはいとも簡単なことだろう。それはイエスによる働きの段階が前例となっているからだ。だから、神は自らが栄光を得るこの段階の働きを別のどの場所でも達成し得ないのである。つまり、全ての人間から支持され、全ての国から認められているので、神の栄光が「留まる」ところがないのだ。そしてこれこそが、この地におけるこの段階の働きが持つ極めて重要な意義である。あなたがたの中には、法の保護を受けているものはひとりもおらず、むしろあなたがたは法によって罰せられている。さらに難しいことには、一人としてあなたがたを理解する者はいない。それが親戚であれ、両親であれ、友人や同僚であれ、誰もあなたがたを理解しないのだ。神があなたがたを「捨てる」なら、あなたがたが地上で生き続ける手段などない。しかしそれでも尚、人々は神から離れることに耐えられない。これこそ神が人々を征服することの意義であり、また神の栄光であるのだ。あなたがたが今日受け継いだものは、昔の使徒や預言者たちすべてのそれに優るものであり、モーセやペテロにさえ優るものである。祝福を一日や二日で受けることはできない。それは多くの犠牲を通して獲得されねばならない。つまり、精錬された愛や、大きな信仰、そして神があなたがたに到達することを求める多くの真理を持たなくてはならない。それに加えて、義に面と向かい、おびえたり屈服したりすることなく、神に対して変わることなく尽きない愛を抱いていなくてはならない。あなたがたの決意が求められ、あなたがたのいのちの性質を変えることが求められる。あなたがたの堕落を改め、神の采配を不平不満なくすべて受け入れ、死にいたるまで従順でなければならない。これが、あなたがたが達成しなければならない事である。これが神の働きの最終目的であり、この一群の人々に神が求めることである。神はあなたがたに施すと同時に、あなたがたが神に報いてその要求を満たすことを求める。つまり、神のすべての働きには理由があり、このことから、なぜ神が何度も高い基準の働きを為し、厳しい要求をするのかが分かるだろう。このような訳で、あなたがたは神への信仰で満たされていなくてはならないのである。要するに、あなたがたが神の嗣業を受け継ぐに相応しい者となるため、神はすべての働きをあなたがたのために行ったのだ。これは神自身の栄光のためというより、あなたがたの救いのため、そしてけがれた地でひどく苦しめられているこの一群の人々を完全にするためである。あなたがたは神の旨を理解しなければならない。だからこそわたしは見識や理知のない多くの愚かな人々にこう勧める。これ以上神を試みたり、抵抗したりしてはならない。神は人が経験したことのないようなすべての苦しみを耐え抜き、はるか昔に人間に代わってさらに多くの屈辱にも耐えた。あなたがたには他に何か手放せないものなどあるだろうか。神の旨以上に大切なものが何かあるだろうか。神の愛に優るものなどあるだろうか。このけがれた地において神がその働きを実行するにはすでに倍の困難を伴うが、もし人が承知の上で、意図的に背くのであれば、神の働きは長引かざるを得ないだろう。どのような場合にも、それは誰の得にも益にもならない。神は時間に制約されることはない。神の働きと栄光が優先される。それ故、どれだけ時間がかかろうとも、神自身の働きに関しては、いかなる犠牲をもいとわない。これが神の性質である。その働きが成し遂げられるまで神は休むことがない。神が二つ目の栄光を獲得する時初めて、その働きは終わりを迎えることができる。栄光を獲得する二つ目の働きを全宇宙において神が成就できなければ、神の日は永遠に来ることがなく、神の手を選民たちから離すこともできず、神の栄光がイスラエルにやって来ることもなく、神の計画が完結することも決してないであろう。あなたがたは神の旨を理解し、神の働きは、天地万物の創造のように簡単なものでないことを理解すべきである。なぜなら、今日の働きとは、堕落した者たちや極度に麻痺してしまった人たちを変え、創造されながらもサタンに働きかけられてしまった人たちを清めることであり、アダムとエバを創造することではなく、ましてや光を創ったり、あらゆる種類の植物や動物を創造したりすることでもない。神の働きは、今やサタンによって堕落させられたものを清めて取り戻し、神のものとし、神の栄光とするためのものである。そのような働きは、人間が想像する天地万物の創造のように簡単なものではなく、人間が想像するような、サタンを呪って底なしの穴へ送るようなものでもない。むしろそれは人間を変えるためのものであり、否定的なものを肯定的なものに変え、神に属さないものを神の所有物にすることである。これがこの段階の神の働きの秘められた意味である。あなたがたはそれに気づかなくてはならないし、物事を安易に考え過ぎてはならない。神の働きは、どんな通常の働きとも異なっている。そのすばらしさは人間の頭では測り知ることができず、その知恵は人間が獲得できるものではない。この段階の働きの最中、神は万物を創造しているのでも、それらを破壊しているのでもない。むしろ、神はすべての創造物を変え、サタンによってけがされたすべてのものを清めているのだ。それゆえ神は大規模な働きを始めるであろう。そして、これこそが神による働きの意義の全てである。これらの言葉から、あなたは、神の働きが簡単だと思うだろうか。
<style type="text/css"></style>あらすじ
ゴスペル音楽 「失われた時は二度と戻ってこない」神からの終わりの日の警告
Ⅰ
目覚めよ!兄弟姉妹たち!
神の日は遅れることがない
時は命、時をとらえることは命を救い
その時は近い
試験なら、落ちたとしても
学び直し、再挑戦できるが
神の日は決して遅れないことを
あなたは知らなければならない
Ⅱ
覚えておくように
神のこれらの良い言葉は
あなたを促すためにある
終わりは目前で
災害が近づいている
大切なのはあなたの命か
それとも食べ物や衣服だろうか
今、熟考するべき時が来たのだ
Ⅲ
人類は何と惨めで
貧しく盲目で、残酷なのか!
神の言葉は耳のそばを吹きゆく
風のようなものなのか
神の話は無駄だろうか
何故あなたはまだ怠慢なのか
神がこれらを誰に言っているのか
一度も考えたことはないのか?
神を信じなさい
神はあなたの救い主
そして全能者なのである
見張り続けよ
失われた時は戻らず
後悔に効く薬はない
神はどのようにあなたに告げるのか?
神の言葉は熟考に値しないのか?
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
あらすじ
クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(2) 受肉による神の再臨について、聖書にはその根拠があるのか
主の再臨を歓迎する人の多くは、聖書にある「神は雲に乗って降りてこられ、再臨される」という預言のみに重点を置き、主は肉において再臨なされるという預言を蔑ろにしています。彼らは、神が肉体をもって再臨されるという証はすべて偽りであると断言していますが、はたして彼らの見解と行いは聖書と合致しているでしょうか。受肉による主の再臨に関して、聖書では具体的にどのように預言されているのでしょうか。
キリスト教映画「美しき声」抜粋シーン(2)どうすれば主イエスの再臨に確信が持てるのか
もしも人々が本当に完全に、神の人類経営(救い)の目的と共に、人間の正しい道を理解することができるなら、人々は個人の将来や終着点を宝として心に握りしめることはないだろう。もはや豚や犬よりも悪い両親に仕えたいとも願わないだろう。人の将来と終着点とは、まさにペテロの「親」と呼ばれるものの今日版なのではないのか。それはまさに人自身の肉と血だ。肉の将来である終着点は、神を生きていながらに見ることなのか、あるいは死後に魂が神に会うことなのか。肉は明日、患難の中にあるように巨大な炉の中で尽きるのか、あるいは燃え盛る火に入れられることになるのか。人の肉がはたして不幸や苦しみに耐えられるのかに関するこの類の問いが、今この流れの中にあって、脳があり正常な思考をしている人々が最も心配している問いなのではないのか(ここで、苦しみを耐えるとは祝福を受け取ることであり、苦しみとは、将来の試練は人の終着点にとって有益であるという意味である。不幸とは堅く立てないこと、ないし騙されることである。あるいは災害のさなか、不幸な状況に見舞われていのちを落とし、魂の適切な終着点がないという意味である)。人には健全な理性が備わっているが、おそらくその考えることは、彼らの理性に備わっているべきものと完全には調和していない。これは、人々がむしろ混乱していて、物事に盲目に従うからである。人々は自分がどのように成長すべきかを完全に把握しているべきであるし、特に患難の時に(つまり、炉による精錬の間)どう成長するべきなのか、そして火の試練の際、何を備えているべきか整理しておくべきである。豚や犬のような、そして蟻や虫よりも悪い両親(肉を意味する)に常に仕えることはやめなさい。それについて苦しみもだえ、一生懸命に考え、頭を悩ませる意味は何なのか。肉はあなたに属しておらず、神の手の中にある。神はあなたを支配しているだけでなく、サタンに命令をする方だ。(これが元々意味するのは、肉はサタンに属していたということである。サタンも神の手中にあるので、こういう表現しかできないのだ。そういう表現の方が説得力があるからである。つまり、そう表現することで、人が完全にサタンの支配下にあるのではなく、神の手の中にあることを示唆する。)あなたがたは肉の苦しみの中に生きてはいるが、肉はあなたがたに属しているのだろうか。それはあなたがたの制御下にあるのか。どうして肉について頭を悩ませる必要があるだろう。どうしてとうの昔に有罪とされ呪われ、汚れた霊によって汚された、あなたがたの堕落した肉のために執拗に神に嘆願する必要があるだろうか。どうしてサタンの仲間を心から離さずにいる必要があるのか。肉があなたがたの現実の将来や素晴らしい希望、そしてあなたがたのいのちの真の終着点を台無しにすることを心配しないのだろうか。
今日の道は歩むのに容易ではない。通るのが難しいとも言えるし、これまでの時代の中でもきわめて稀だと言える。しかし、人の肉だけでその人を滅ぼせるなどとは誰が考えただろう。今日の働きとは確かに、春の雨のごとく尊く、人に対する神の優しさのごとく価値あるものだ。しかし、もし人が今日の神の働きの目的を知らず、あるいは人間の本質を理解していないのなら、その尊さや価値の高さをどのように語ることができようか。肉は人間たち自身には属さないので、その終着点が実際にどこなのか、誰もはっきりと見ることはできない。しかしながら、あなたがたは創造主が、被造物である人類を元の地位へと戻し、創造の時からの元の姿へと回復させるのだということをよく知っておくべきだ。神は人に自身が吹き込んだ息を完全に取り戻し、人の骨も肉も取り戻して創造の主に返すのである。主は人類をすっかり変えて、再び新しくする。そして人から、元々人ではなく神の所有物であった遺産のすべてを取り戻す。神はもう二度とそれを人類には渡さない。その中の何も元々人類に属していたものはないのだから。主はそのすべてを取り戻す。──これは不当な強奪ではない。むしろ天と地を元の状態へと回復し、人を変え、新しくするためのものである。これは人々が想像するような、肉の刑罰の後にある取り戻しでは恐らくないものの、これが人にとっての理にかなった終着点である。神が欲しいのは、滅んだ後の肉の残骸ではなく、初めに神に属していた人の中にあった元来の要素だ。よって、神は人類を絶滅させたり、人の肉を根絶させたりはしない。人の肉は人に属する私有財産ではないからだ。むしろそれは、人類を経営する神の付属物だ。どうして神が、自身が「楽しむ」ために人の肉を絶滅させたりなどできようか。この時点で、あなたがたは本当に自分の、たった1セントの価値もないような肉のすべてを放棄しているのか。もしあなたがたが、終わりの日の働きの30%でも理解することができたなら(たった30%、つまり終わりの日に神が行われる言葉の働きを理解することと、今日の聖霊の働きを理解することだ)、あなたがたは今日しているように、もう何年も腐敗状態の自分の肉に「仕え」、「孝行」し続けることはないだろう。あなたがたは人類が今、かつてないほどの状態に進歩し、これからは歴史の車輪のように前進し続けることはもうないのだということを完全に理解するべきである。あなたがたのカビ臭い肉にはもう長いことハエがたかっているのに、それでどうやって、神が今日まで継続を可能にしてきた歴史の車輪を逆回転させられるというのか。それでどうやって、沈黙しているような終末期の時計の針を再び動かし、時を刻むようにできるというのか。そんなものでどうして深い霧に覆われたような世界を変えられるというのか。あなたがたの肉は山や川をよみがえらせることができるのか。あなたがたのほとんど機能をもたないその肉は、本当にあなたがたが憧れてきたような人類の世界を回復させられるのか。あなたがたは本当に、子孫が「人間」になれるように教育できるのか。さあ、わかっただろうか。あなたがたの肉は厳密に何に属しているのか。人に働き、完全な者とし、そして変えるにあたって、神の元々の意図とはあなたがたに美しい故国を与えることや、人の肉に安息をもたらすことではなかった。そうではなく、それは神の栄光と神の証しとのためであり、人が将来をより楽しむことができるため、そしてすぐに安息を喜べるようになるためであった。それでもなお、それはあなたがたの肉のためではない。人は神の経営の資産であり、人の肉は単なる付属物にすぎない。(人は霊と体の両方をもった物質であるが、肉は腐敗する部品にすぎない。これは、肉が経営計画の一道具であることを意味する。)あなたがたは、神が人を完全な者とし、完成させ、そして獲得することは、人の肉への剣と強打以外はもたらさなかったこと、終わりのない苦しみ、燃える火、無情な裁き、刑罰、呪い、そして果てしない試練をもたらしてきたことを知るべきだ。これが内幕であり、人類経営の働きの真実である。しかし、これらすべての目的は人の肉に対するもので、敵意の槍の穂先はすべて、無慈悲に人の肉に向けられている(人は、元々は潔白だからだ)。そのすべては神の栄光と証し、そして神の経営のためである。これは、神の働きがただ人類のためだけではなく、計画全体と、神が人類を創った時の元々の意志の実現のためだからである。よって人々が経験することのおそらく90%は苦しみと火の試練なのだが、人の肉が憧れてきた甘く幸せな日々は非常に少ないかあるいはまったくなく、ましてや神と美しい時を過ごすという幸せな瞬間を、肉において楽しめることなどない。肉は汚れているので、人の肉が見たり味わったりすることは、人が喜ばない神の刑罰以外の何者でもなく、まるで正常な理性を失っているかのようだ。これは神が、人の好まない自身の義なる性質を現すからであり、人の罪を大目に見ないからであり、そして敵をひどく嫌悪するからである。神は率直に、あらゆる方法を通して自身の性質をみな明らかにし、それによってサタンとの6千年の戦い、すなわちすべての人類の救いの働きと古きサタンの破壊を完結するのだ。
<style type="text/css"></style>質問3.聖書にあります。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒行伝 1:11)主が復活されたあと天に上がったのは霊体で、その霊体が雲に乗って戻られるはずです。神が終わりの日の働きのため再び受肉されるなど、聖書と矛盾しています。牧師たちは主が受肉して再臨したという証しは嘘だと言っている。だから、主が受肉して戻るなんて証しは、私は受け入れられない。我々はただ主が雲に乗って降りて来られるのを待っていればいい。
解答: 主が受肉して再臨されるはずがない、本当にそうですか?このことは聖書にも明記されています。あなたは見つけられなかったのですか?聖書には主が受肉して再臨されることについて特に明白に書かれています。主は言われました。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24-25) 主は人の子として再臨するのです。人の子とは受肉した神のこと。主イエスと同じです。見かけは普通の人間で、人間と同じように生活しますが、復活後の霊体は違います。壁を突き抜けたり、姿を消したりできたので、人の子とは呼ばれませんでした。主はこう預言されています。「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:25) あなた方は主は霊体として雲に乗って公衆の前に現れ、人々はそれを見てひれ伏し崇拝すると言うのですね。それでは、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:25) これはどう成就しますか?神が人の子として受肉し働かれる時、人々はそれがキリストだとわからずに非難し、拒んでしまうのです。そうではないですか?主はこうも預言されています。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイによる福音書 24:36)「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。」(ヨハネの黙示録 3:3) 主が雲に乗って降りてくるなら、誰でもそれに気付くでしょう。では主の再臨が「だれも知らない」「子も知らない」「盗人のよう」ならば、どう成就しますか?霊体として現れるなら、主が知らないはずがない。終わりの日に神が人の子として受肉するからこそ、「子も知らない」が成就するのです。主イエスはその働きを始められる以前、ご自身がキリストだとはご存じありませんでした。しばしば父なる神に祈り、職分を果たすようになりようやくご自身の身分に気づかれたのです。より現実的な考えでしょう?これでも受肉による再臨の預言がないと仰いますか?主イエスの預言です。「人の子」とは神の受肉なのです。不思議ですよね。主が受肉して戻るなら、なぜ主はそれをはっきりと言わずに、「人の子」と表現されたのでしょう?預言とはそういうもので謎に満ちているんです。「肉体を持つ」と言えば、普通の言葉に聞こえるでしょう。「人の子」の意味を深く掘り下げれば啓きを受け、受肉を意味していることがわかります。全能神が奥義を解き明かして初めて理解できました。「人の子が来る」という聖書の預言は受肉を表しているのだと。主が受肉して戻ることは間違いありませんが、受肉した神をどう見分けるのでしょう?神の声を聞き分けるのです。神が人の子として受肉されたのなら、多くの真理を表すはず、その出現の起源と目的を明確にし、具体的な働きを始められるはずです。終わりの日に受肉した全能神は、真理を表してまずは神の家から裁きの働きを始めました。全能神の言葉は教会に向けられた聖霊の御言葉です。神の出現を待ちわびている者たちに肉体を通して語り掛けているのです。全能神の言葉が真理であり神の声だと理解できた者は、神様の御前に上げられ子羊の婚宴に招かれる賢いおとめなのです。聖霊の真新しい言葉に毎日触れることで、終わりの日の神の働きを確かめられます。そして主が全能神として再臨されたと宗教界に証しします。すると、人々が全能神の御言葉を聴きに来ます、「言葉は肉において現れる」を。主の預言を成就するものです。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20) 神の声に気付かずに神の働きを非難する人々は、愚かなおとめとして捨てられるでしょう。そして、大災害の中で泣き叫ぶでしょう。
主をお迎えするのに、主が雲に乗って降りてこられることだけに気を取られ、神の声を聞こうともせず、聖霊が語る言葉も求めずに牧師たちの言葉を鵜呑みにして、主の受肉の証しを偽りと決めつけるのは聖書に反しませんか?聖書を見てください。使徒ヨハネは言っています。「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。」(ヨハネの第二の手紙 1:7)「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。」(ヨハネの第一の手紙 4:3) 神の受肉を否定する牧師たちの姿勢は聖書と一致しますか?主が受肉したという証しはすべて嘘だと言っています。騙されていると思いませんか?ヨハネの言葉に従えば、受肉を否定する牧師や長老こそ、反キリストではないですか?彼らの嘘に耳を傾けて主を迎えることができますか?神の出現を見て、その御前に連れて行ってもらえるでしょうか?
どうすれば神の出現に気付けるでしょうか?全能神は言われます。「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)
「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)
『天国への危険な道』の映画台本から
あらすじ
ゴスペル キリスト教映画「呪縛を解く」抜粋シーン(2)主が再臨した時、人の前にどのように現れるのか
終わりの日は既に来ており、多くの信者たちは、主が再臨し天国へ連れて行ってくれることを強く願っています。しかし、主が再来されても、どのように私たちの前に現れるのか知っていますか?想像した通りに、雲に乗って降りて来て、私達の目の前に公然と現われるのでしょうか?全能神は言われます。「あなたはイエスに会いたいと思うか。イエスと共に生きたいと思うか。イエスの語った言葉を聞きたいか…イエスはどのように来るのか。あなたがたはイエスが白い雲の上に再臨すると信じているが、わたしはあなたがたに問う。この白い雲とは何を意味しているのか。イエスの再臨を待つ多くの信者がいる中、どの人々のところにイエスは降臨するのか。」「天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることである…それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人がしるしを見る前、真理の現れだけがある時に終わる。」(『言葉は肉において現れる』より)
いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。
もしかしたら今、あなたはいのちを受け取りたいと望んでいたり、真理を得たいと望んでいたりするかもしれない。いずれの場合にも、あなたは神を見つけだし、あなたが頼れてあなたに永遠のいのちを与える神を見つけたいということだ。永遠のいのちを得たいと望むなら、あなたはまず永遠のいのちの源を理解せねばならず、神がどこにいるのかを知らねばならない。わたしは、神のみが永久不変のいのちで、神のみがいのちの道を持っていると既に言った。神のいのちは永久不変なので、それは永遠のいのちである。神のみがいのちの道なので、神自身が永遠のいのちの道である。それだから、あなたはまず神がどこにいるのか、そして永遠のいのちの道を得るにはどうしたらよいかを理解しなければならない。では、この二つの点について、それぞれ話そう。
あなたが本当に永遠のいのちの道を得たいと望み、飽くことなく探し続けているなら、まずこの質問に答えてほしい。今日、神はどこにいるのか?おそらくあなたは、神は天にいると答えるだろう。もちろん、あなたの家に住みはしないだろう。あなたは、神は明らかに万物の中にいると言うかもしれない。もしくは、神は各々の心の中に住んでいると言うかもしれないし、神は霊的世界にいると言うかもしれない。これらのどれも否定はしないが、問題を明確にしなければならない。神が人の心の中に住んでいるというのは全く正しいわけではないが、かと言って全く間違っているわけでもない。すなわち、神を信ずる者の中には、その信仰が本物である者と偽物である者、また神が認める者と認めない者、神を喜ばせる者と神が嫌う者、そして神が完全にする者と神が排除する者がいるからだ。だから神は一握りの人の心にのみ住んでいるとわたしは言う。この人たちは疑いなく真に神を信じ、神に認められ、神を喜ばせ、神はこの人たちを完全にする。神はこのような人たちを導く。彼らは神に導かれていて、既に神の永遠のいのちの道を見聞きしている。神への信仰が偽物であり、神に認められず、神に嫌われ、排除される者たち――彼らは神に拒絶され、いのちの道を得られず、神がどこにいるのかに関しては無知なままでいるしかない。対照的に、心に神が住んでいる者は、神がどこにいるかを知っている。彼らは、神が永遠のいのちの道を与える者たちで、神に従う者たちだ。あなたは今、神がどこにいるかを知っているか。神は、人の心の中と、人の傍の両方にいる。神は霊的世界にいて、全てのものの上にいるだけでなく、人が存在する地上に、それ以上にいる。だから、終わりの日の到来により、神の働きの段階は新たな領域へとすすんだ。神は万物に対して支配権を持っており、人の心に根幹として存在し、さらに神は人の間に存在している。このようにしてのみ、神はいのちの道を人類にもたらすことができ、人をいのちの道へと導く。人がいのちの道を得ることができ、生存できるように、神は地上に来て、人の間に住む。同時に、人の間での自分の計画に沿うように、神は万物を支配する。だから、あなたが神は天と人の心にいるという教義のみを認め、人の間での神の存在の真理を認めないのなら、あなたは決していのちを得ることはないし、真理の道を得ることもない。
神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が現在働くやり方である。昔神が語った言葉の記録を現代に適用しようとするのなら、あなたは考古学者であり、あなたにぴったりの表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過ぎ去った時にした働きの痕跡を信じており、神が以前人の間で働いた時に残した神の影しか信じておらず、神が昔自分を信じる者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神の今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表している真理の道を信じていない。それゆえに、あなたは間違いなく完全に現実から遊離した空想家である。もし今、あなたがなお人にいのちをもたらすことのできない言葉に固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]だ。あなたは保守的すぎで、あまりに強情で、理性がなさすぎるからだ。
神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、あなたはまず、神は地上に来ることで人にいのちの道を与えるということを認め、そして神が人にいのちの道を与えるために地上に来るのは終わりの日なのだと認めなくてはならない。これは過去のことではない。今起こっていることなのだ。
終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水でしかないからだ。いのちの水を与えられない者は永遠に死体であり、サタンのおもちゃであり、地獄の子である。そのような者がどうして神に会うことができようか。あなたが過去にしがみつき、足踏みをしながら現状維持しようとし、現状を変え歴史を棄てようとしないなら、あなたは神に常に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚に固執して何もしないまま、座して自滅を待っている。このままで、あなたが小羊の足跡に従う者だと見なされることはあろうか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと言えようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたの手につかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む言葉は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人の人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするように導いてくれる道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないだろうか。そこに含まれる奥義を理解させてはくれないだろうか。あなたは、自分で自分を天国に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天国に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたは未だに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよと。そして誰が今働いているのかを見よと。誰が今、終わりの日に人を救う働きをしているのかを見よと。そうしなければ、あなたは決して真理を得ることはなく、決していのちを得ることもない。
キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの供給を受け入れることもなく、祝福だけを得ようと考えてはならない。キリストは、彼を真に信じる者にいのちを与えるために終わりの日にくる。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上での業を託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない報いは、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、拒むなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を償おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが拒んだのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。だから、全ての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりすることのないように。あなたにいのちを与えるのは真理以外にはなく、あなたを生まれ変わらせ、神の顔を仰ぐことができるようにしてくれるものは、真理以外にはないからだ。
あらすじ
神の足跡を探すなら
Ⅰ
神の足跡を探すなら
探さねばならない神の御心
神の御言葉神の御声
神の新しい御言葉の中
神の御声がある
神の足跡があるところには
神の御業がある
神の印があるところ
そこには神が現れる
神の現れるところには
真理、道、いのちがある
Ⅱ
神の足跡を探す時
神の真理生きる道命さえも見失ったら見つけることはできない
神の足跡そして神の現れに気づくことはできない
なんとそれは大きな過ちだろう
神は人の思いを遥かに超えて
人の思うようには現れない
神には自身の選択がある
神が働くときに神には自身の目的がある
神の御業がある神は誰にも話さない
神は誰にも伝えない
それが神の性質
人は気づかなければ
Ⅲ
神の現れを望むなら
そして神の足跡を探すなら
自分を超えて求めてはならない
自分の望みを神を自分の心に閉じ込めないで
自分の世界に閉じ込めないで
神の足跡を探し求め
神の現れを受け止めて
神の新しい御業に従い
それがあるべき道
人はみな誰も真理ではなく
真理を持たず
人は真理ではなく真理を持たず
だから探し求め受け入れながら
探し求めて受け入れて真理に身を委ねる
『言葉は肉において現れる』より
[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。