稲光の中、すべての動物は真の姿を明らかにする。そして、わたしの光に照らされて、人間もまた、かつての聖さを取り戻した。ああ、過去の堕落した世界がついに汚い水の中へと崩れ去り、水面の下に沈み、溶けて泥となった。ああ、わたしの創った全人類が、ついに再び光の中でよみがえり、存在のための基礎を見出し、泥の中でもがくことをやめた。ああ、わたしの手の中のもろもろの被造物よ。それらがどうしてわたしの言葉によって新たにならないことがあろうか。どうして、光の中でその機能を果たさないことがあろうか。地はもはや、動きがなく沈黙してはいない。天はもはや荒涼として悲しいところではない。天と地とは、もはや虚無で隔てられてはおらず、ひとつになって、決して再び裂かれることがない。この喜ばしい時、この歓喜の瞬間、わたしの義と聖とが宇宙全域に広まり、すべての人間が終わりなくほめたたえる。天の町々は喜びに笑い、地上の王国は喜びに舞い踊る。この時に、誰が喜ばずにいようか。そして、この時、誰が泣かずにいるのか。地は、そのはじめは天のものであった。そして、天は地とは、ひとつであった。人間は天と地とを結ぶ絆であり、その聖さのおかげで、その再生のおかげで、天はもはや地から隠されてはいない。そして、地はもはや天に対して沈黙していない。人類の顔は安堵の笑顔に飾られ、心には限りない甘美さが満ちる。人間は互いに言い争うことがなく、また、殴り合うこともない。わたしの光の中で他の人々と平和的に生きない者がいるだろうか。わたしの日々にわたしの名を汚す者が誰かいるだろうか。人間はみな畏敬のまなざしをわたしに向け、その心が沈黙のうちにわたしに叫んでいる。わたしは人間のあらゆる行いを探った。清められた者の中に、わたしに逆らうものは誰もいない。わたしを裁く者もいない。人間はみな、わたしの性質に満たされている。誰もがわたしを知るようになり、わたしに近づき、わたしを愛する。わたしは人間の霊の中に確固として立ち、人間の目に最も高い頂きに上げられ、その血管を血として流れる。人間の心の喜びにあふれる高揚が地のいたるところを満たし、空気は爽やかに澄み、濃い霧が地面を包むことは、もはやない。そして、太陽がまばゆく輝く。
今、わたしの国を見なさい、わたしがすべての王として支配する領域を。創造の初めから今のこの時まで、わたしの子らがわたしの導きに従い、人生の多くの苦難、世にあるまことに多くの不正を経験し、世の浮き沈みを経てきたが、今はわたしの光の中で暮らしている。誰が昨日までの不正にすすり泣かずにいられるだろう。誰がここに至るまでの苦難に涙を流さずにいられよう。そしてまた、この機会をとらえて自らをわたしに捧げない者が、誰かいるだろうか。この機会をとらえて、胸にあふれる熱情を吐露しないものがいるだろうか。今この時に、自分たちの経験したことを語らない者がいるだろうか。今この時に、すべての人間は自身のもっとも良い部分をわたしに捧げている。どれほどの人々が、昨日までの無知な愚行を悔いる思いに苦しみ、どれほどの人々が昨日までの欲求に嫌悪せずにいられるだろう。人間はみな自身を知り、サタンの行いとわたしのすばらしさを見て、心の中にわたしのための場所を設けた。もはやわたしが人々の間で避けられ、放棄されることはない。わたしの偉大な働きがすでに成し遂げられ、もはや妨げられることがないからである。今日、わたしの国の子らの中に、自分自身について心配していない者が、誰かいるだろうか。わたしの働きが行われる方法について心配する種を持たない者が誰かいるだろうか。心からわたしのために身を捧げている者が、誰かいるだろうか。あなたがたの心の中の不純物は減っているだろうか。それとも、増えているだろうか。もし心の中の不純物が減りも増えもしないのなら、わたしはそのような人を必ず見捨てよう。わたしの求めるのは、わたしの心にかなう聖徒であって、わたしに逆らう汚れた霊ではない。わたしは人間に多くを求めないが、人間の心の内はまことに複雑なため、人間にはわたしの心にすみやかに従ったり、直ちにわたしの願うことを満たしたりはしない。人間の大多数は、最後に勝利の冠を手にしようと、密かに努力している。大多数の人間は、再びサタンの手に落ちることを恐れ、一瞬たりともたゆむことのないよう、全力で努力している。彼らはもはや、わたしに恨みを抱かず、わたしの前で常に忠誠を示そうとしている。わたしは、実に多くの人の心からの言葉が語られるのを、実に多くの人が、苦難の中で経験した痛みが語られるのを聞いてきた。人々が最も苦しい中でゆらぐことなくわたしに忠誠をささげるさまを、わたしは見てきた。また、実に多くの人が、険しい道を歩むとき、出口を求めて苦闘するさまを見てきた。そうした中で、その人たちは、けっして不平を言わなかった。光を見出すことができず、落胆することはあっても、けっして不満を言わなかった。しかし、わたしはまた、実に多くの人々が心の底から悪態をつき、天を恨み、地を呪うのを見た。また、実に多くの人々が苦しみのただ中で絶望に諦めきり、屑入れにゴミを放り込むように身を捨てて、塵芥に覆われるのをも見た。わたしは実に多くの人が互いに言い争うのを聞いた。地位の変化に「顔」の変化が伴い、仲間との関係が変わって、友人たちが友であることをやめ、敵対するようになり、互いを責めるようになった。大多数の人々は、わたしの言葉を機銃の弾丸のように使って相手を不意打ちし、世界のいたるところが、平穏を打ち破るやかましい騒ぎに満ちるようになった。幸い、こうして今日に至っている。そうでなければ、どれほどの人々が止むことのない機銃掃射の中で死んでしまったか、わからない。
わたしから出た言葉に従い、全人類の状態に合せて、わたしの国は着実に地上に降りてきた。もはや人は憂うることなく、他の人のことを「考慮に入れ」たり、人々のことを「心配する」ことがない。そこで、諍いごとはもうなく、わたしから出た言葉に従い、現代の様々な「武器」もまた、使われなくなる。人間は再び他の人間との間に平和を見出し、人間の心は再び調和の精神を放ち、もはや誰も、密かな攻撃に身構えることがない。すべての人類は正常な状態に戻り、新たな生活を始める。新たな境遇の中、多くの人は周囲を見回し、真新しい世界に入ったかのように感じる。そのため、すぐに新しい環境に馴染むことはできないし、正しい道に踏み出すこともできない。そこで、人間に関しては、「意欲はあっても、肉は弱い」ということになる。わたしは人間のように苦難の苦さを味わうことはなかったが、人間の弱点については、すべて心得ている。わたしは人間の必要を詳らかに知り、人間の弱さに関するわたしの理解は完璧である。そのため、わたしは人間の短所をからかったりはしない。ただ、不正な行いに対処し、適正な「指導」をして、誰もが正しい道を歩めるようにする。そうして、人間はさまよう孤児であることをやめ、家のある、愛される赤子となる。それでも、わたしの行いは原則に基づいている。もし人間がわたしの内の幸いを享受したがらなければ、わたしにできることは、彼らの欲求のままに底なしの淵に送り込むことだけである。その時点では、誰一人、もはや心に不平を抱えていてはいけない。わたしの采配の中に、誰もが、わたしの義を見ることができなければならないのだ。わたしは、わたしを愛するよう、人間に強いることはしない。また、わたしを愛したからといって、人間を打つこともしない。わたしの内には完全な自由、完全な解放がある。人間の運命はわたしの掌中にあるが、わたしは人間に自由意志を与えた。それはわたしに左右できるものではない。そのようにして、人間はわたしの行政のために「厄介な事態に陥る方法を考え出す」ことなく、かえって、わたしの寛容さを頼みにし、「解放を勝ち取る」のだ。そうして、多くの人は、わたしに束縛されるというよりは、解放されて、自分の道を求めていくことになる。
わたしは常に人類を寛大に扱い、けっして解決不能の問題を与えなかったし、誰をも困難な状況に追いやらなかった。そうではないか。まことに多くの人々はわたしを愛していない。しかし、そうした態度に悩むのではなく、わたしは人間に自由を与え、苦しみの海で泳ぎ回る余地をもたせてやった。人間は優れた器ではないのだ。人間はわたしの手の中にある祝福を見るが、それを楽しもうとはせず、サタンの手から災厄を掴み取りたがる。そうして、サタンに「滋養」としてのみ込まれるはめになる。もちろん、中には、その目でわたしの光を見て、現在の霧の中に生きてはいても、そのせいで光への信仰を失わず、障害だらけの道ではあるが、霧の中を手探りし、探し求める事を続ける人々もいる。人々がわたしに逆らうとき、わたしは激しい憤りを注ぐので、大勢が不服従のせいで死ぬだろう。人間がわたしに従うとき、わたしは彼らの目から隠されている。そのようにして心の深いところに愛、甘言によるのではない、わたしに喜びをもたらす愛が湧くようにする。いったい何度わたしは、人間がわたしを求めるとき、真の信仰が生まれ出るようにと、目を閉じ、沈黙を守ったことか。しかし、わたしが話さなければ、人間の信仰はすぐさま変化し、そこで、見えるのはまがい物の「商品」ばかりということになる。人間が心からわたしを愛したことは、けっしてなかったからだ。わたしが姿を現したとき初めて、人間はみな、おおげさな「信仰」表明をする。しかし、わたしが秘密の場所に隠れていると、彼らの心は弱く、臆病になる。まるで、わたしを不快にさせるのを恐れるかのように。あるいは、わたしの顔を見ることができないと、あれこれと試してみて、実際、わたしが存在していないという結論になったりする。どれほどの人がそうした状態にあり、どれほどの人がそういう心持ちでいることか。しかし、これはみな、人間がすべて、内にある恥ずべきものを隠すのに巧みだからである。そのため、人々は自身の弱点を見るのをいやがり、あからさまに自分の自尊心を隠そうとするときにだけ、わたしの言葉の真実であることを認める。
1992年3月17日
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