岐阜/医大生が指導する明光義塾長良教室&芥見教室

医大生が個別指導する全国でも珍しい塾が明光義塾長良地区、芥見地区に登場。山県市、美濃市、関市からも通塾されています

★あの頃の父親

2016年04月10日 21時43分10秒 | 日記

★散る桜

 あの頃というのでしょうか。桜の花が散るころの苦い思い出を思い起こさせる日でもありました。
 今日は親父の17回忌で朝からバタバタと走り回っていました。お酒が抜けずブログを書くのがなかなか気持ちがそうならず取り留めのないことを書くかもしれませんがお許しください。

 桜の散る頃の思い出は父親のことです。私の父親は愛媛県の住友化学に勤めていました。新居浜市と云いますと瀬戸内臨海工業地帯などと教科書に出てまいりますが工員の街で一家に自転車の保有台数が4台で日本一という数字さえ残っています。そんな中で出勤は朝の8時から夕方4時ぐらいでしょうか・・・。5時ごろにはもう帰っていたように思います。我が家はそういう意味で夕飯は早かったことを覚えています。食事をしてからまた畑に仕事に出るのです。それが普段の仕事で私はいつも話をしない父親の背中を見て育ちました。
 
 私は生まれてから体が弱くそのために父親は宗教の世界に入っていったようです。従って西日本一高い霊山の石鎚山に登ってみたり笹ヶ峰に行ったりして滝に打たれ身を清めていてくれたことを子供ながらに覚えています。
 私にはそういう霊的なことはないのですがその分早く亡くなった弟にはあったようです。実際には母親は住友病院の看護師婦長でしたので早期発見ということで治ったようです。そういうことで私は小学時代は病院生活が非常に長く勉強どころか体力に気を付けるような生活をしていました。その分入院生活が長かったということもあって幼馴染はいますが離れた病院でしたのでお見舞いに来てくれるだけが楽しみな日々だったのです。ですから当時誰も持ってはいない玩具は持っていました。電池で動く列車やロボットや高価な玩具を持っていたことは事実です。本も随分買って貰ったです。ただ毎週脊髄から水を抜くのは死ぬ思いでした。
 
 勉強はいつも母親が先生でした。そして大学に行くことが自然な流れの様に思っていたものですから父親も自然とそう考えていたようです。
 私の父親は83歳で亡くなりましたが住友化学の電気科に所属していたということもあってかテレビを買うのは非常に早かったです。今の天皇陛下がご成婚する時、朝早くからテレビ中継をしていました。朝から村中の人が集まり家に入り切れない状況になっていました。お弁当を持参で来るのです。この前年にテレビは買っていましたので当時はプロレスなどいつも我が家には誰かが押しかけていました。ですからそこで知ったことは長嶋茂雄がプロデビューして4打数4三振の場面もしっかり見ました。私が野球を始めたのはそういう彼の憧れからだったのです。いつも3番です。生まれも3日なので随分拘り家の地番まで3番にし、電話番号も3番がふんだんに入っています。

 そういう中で私は育ったのですが高校に入った翌年の1月に母親は亡くなりました。その後大学はどうするのかと当時の先生に問われましたが「行きます」といって答えたことを覚えています。父親も当然行くことを知っていましたので相談もしませんでした。それよりも私の学力が下がってきたことにひどく心配していたようですが一言も口には出さなかったです。ただ行きたい大学は親子で最初から決まっていましたので相談する必要もなかったのです。しかし、野球部に所属し夏の甲子園の準決勝で敗れ先生から普通科で野球をしているのはお前だけだといわれ勉強を勧められましたが何故は時間があっても勉強はしませんでした。その間小説を読み漁り曲を作りもうどうしていいのかわからないような悶々とした日々を送っていたのです。

 その頃にある先生と親密になり日本文学に傾注していくようになってしまったのです。勉強をしないで小説を書くことしか頭になかったです。当然学力はすごい勢いで下がりました。ですから勉強を始めたのは3年の夏休み位でしょうか・・・。それでも父親との約束の大学は先生からは大丈夫と言われていましたので私はあまり勉強はしなかったのです。将来は作家になろうと考えていました。

 母親はいませんでしたので食事はいつも父親が作ってくれていました。今考えますと本当に何か手助けして置けばよかったと悔いていますがその時にはすでに世にいなくなっていました。母親が亡くなって2年後父親は再婚することになりました。私は俗にいうマザコンみたいなものですから反対はしませんでしたが心では認めてはいませんでしたがそれでも親戚の方は再婚を勧めていくものですから結局大学進学と再婚は重なって来たのです。

 私の大学はと云いますと失敗に終わりました。今のようなセンター試験はなく学校の成績で判断されるような時代でしたので自分で先生もいいというのだからと納得していましたが失敗したのです。再婚するということで私は家には居場所がなくなりました。浪人をすればよかったのですが言えなくて結局友人が進めてくれた某大学が3月末にあることをしり香川大学で受験し何とか家を脱出したのでした。

 私は母親の影響が非常に強かったということもあって再婚した後妻とはあまり良好な関係は築けませんでしたがそれは父親が亡くなる直前まで続きました。私たちの結婚は家で式を挙げましたがその後何かにつけ反対されるものですから実家には帰りませんでした。転勤は18回もしましたので所在すら分からなかったのじゃないかと思われる節もありました。弟がいましたのでそちらに面倒を将来見てもらおうとしたのでしょう。私は家には近寄らなくなりました。そして知ったのは弟の死でした。亡くなる少し前に本人から電話をもらったのですがかなりきついようでした。心臓の不整脈がおこり心不全で亡くなったのですが早死にでした。39歳でした。母親が早く亡くなったといいましても42歳でしたのでもっと早かったのです。

 その後、後妻も亡くなっていくのですが私は体がかなり無理をしていたということもあって体調を壊してしまいました。そして、1年ほど父親を一人にしていましたので実家に帰って食事の世話などをしましたがこの1年間が親との話が毎晩ゆっくりできた時でもありました。父親は脳梗塞で倒れ麻痺もかなりしていましたがリハビリを自分でしかなり克服していました。しかし、毎日の三度の食事となりますとままならずホームヘルパーさんに頼るしかありませんでした。

 1年間父親と話をしてやっと大学に行った18歳の頃からのわだかまりが溶け親子に帰ったような気がしました。その時にこの明光義塾に参加をしたのでした。1999年2月のことです。しかし、教室をオープンして一年後父親は亡くなりました。心不全でした。
 私は岐阜から四国の新居浜まで550キロほどですがノンストップで帰りましたがその時見たものは道路に散った桜の花びらでした。

 桜は綺麗ですが散っていく桜の侘しさは何とも言えないものがあります。その年の暮れ岐阜新聞主催の年末恒例の絵画チャリティがありましたがそこで見たものは『垂井の春』という市田美佐子女史の一枚の油絵でした。迷わず買った私は部屋に掲げていますが桜を見るといつもあの頃の父親を思い出すのです。

 学力で、財力で仮に父親に勝ったとしても本当に親を越えることはできるでしょうか・・・。私は決して親は超えることはできないと考えています。若い時は古いとか何かと批判的でしたが今思うに父親の背中を見て育った自分が恥ずかしい気になります。もしもやり直しが出来るなら・・・。出来っこないことを考えてしまいますが般若心経を唱えてご冥福を祈るばかりです。思いっきり殴られたことも今では懐かしいです。

 そんなことであまり書きたくないことも書きましたがいつかは書かなくてはいけないと思いその日が今日の17回忌に思いを乗せて書かせてもらいました。今言えることはいい親父だったということです。あまり話はしませんでしたが親父の背中はよく見せてもらいました。感謝の一言です。桜・・・それは私には親父そのものの思い出でした。親父ありがとう! 合掌。

<今日の言葉>
『男子は生あるかぎり理想を持ち、理想に一歩でも近づくべく坂を登るべきである』
                           坂本龍馬

<今週のYouTube>
JUJUの『YOU』を選びました。

https://www.youtube.com/watch?v=NMw5DgVbvY0

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<詳細>
http://mm-homepage.com/dozan/

長良教室 058-210-1730
芥見教室 058-244-0170


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