公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

今読ん 『虚業成れり』長塚英雄

2022-09-08 18:11:00 | 今読んでる本
 
も参考にしながら裏側の戦後を読んでいる。なるほどね。神が田村敏雄に近づくのは外貨という商売道具が不足していたからか。そのせいで初期メンバーが離れてゆく。時代からサンモトヤマの茂登山氏

「江戸っ子長さんの舶来屋一代記」 茂登山長市郎 著 - 公開メモ    DXM 1977

「江戸っ子長さんの舶来屋一代記」 茂登山長市郎 著 - 公開メモ DXM 1977

追補2019年10月1日株式会社サンモトヤマ日本に初めて「GUCCI」を紹介した老舗セレクトショップ破産手続き開始決定受けるTDB企業コード:980437777負債9億7150万円追補昨年20...

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と似たような構図だったわけだな。一方は外タレ一方は舶来ブランドいずれも外貨なしにはできない商売。
 
最終的に函館からの人間は去ってゆく。私が思うソ連からの工作はむしろ後で、狸穴に粘着していたのは神のグループからだったのか。

中国核実験から四年後中ソの対立が明確になる1968年頃神と有吉佐和子がどうしていたかは興味深いところ。非常に危険だったのではないか。ボリショイサーカスを呼んだ翌年昭和三四年1959年9月、中国を訪れた当時のソ連第一書記兼首相のフルシチョフは、予定されていた中ソ共同宣言を発表しないで帰国した。これを機に一気に中国とソ連の対立が表面化しはじめていた。中共支那が核爆発実験に成功する1964年AFAは内部崩壊するが、同時に神の配慮で有吉佐和子とは離婚。表向きの原因は拡張一本路線と自転車操業、経営能力の限界もあるが有吉佐和子が神を操縦し人間関係の傷を大きくし、不信任状に発展していったと思われる。
雌伏の二年間ここに廖 承志(りょう しょうし、リャオ・チョンヂー、1908年9月25日 - 1983年6月10日)は中華人民共和国政治家。が1964年に鍼療養の中国大陸旅(有吉中国長期滞在と被ってはいないと思っていたがちゃんと中国で娘玉と佐和子に会っている。これも廖 承志の口添えだろうと思う)の提案者として現れてくる。この男、かのLT貿易の創業者で田村敏雄の産み出した宏池会ルートの裏側で田中角榮を中共支那国交回復演出工作した対日本特級工作員だ。なぜか廖 承志が死んだ一年後に有吉佐和子は急死している。

有吉佐和子: 国外で関係の深かった中国では老舎夏衍謝冰心など作家の他、政府要人、特に廖承志と親しく、また唐家璇1965年の有吉滞在時に通訳を務め、『有吉佐和子の中国レポート』では「唐少年」と呼ばれている。老舎の妻と娘は『人民日報』に有吉の追悼文を寄稿している[17]

門田隆将さんが『日中友好侵略史』に書いたようにこの路線は中共側の工作による。周恩来と廖承志が親中の作家 有吉佐和子氏を通じて池田大作会長に直接メッセージを伝える事に成功したのは57年前。公明は完全に中共の代弁者に。

廖 承志は毎日(東京日日)の浅海も家族丸ごと取り込んだ。

個人的に思うこと:この背景から早い段階で有吉佐和子は中共側のAFAを通じたソ連日本の工作の妨害を裏で手伝っていたのではないかと思われる。

引用元1
《 
 

『虚業成れり』でも書いたが、AFAを財団法人するために、暗躍したのが、田村敏雄だった。当時AFAにとって最大の懸案は、マスコミ数社にしか許されていなかったドル購入枠の規制をどうくぐり抜けるかであった。AFAは、時には闇ドルを購入し、調達せざるを得なかった。財団法人化することで、この規制を逃れることができたのだが、このために、神は、当時政権をめざしていた宏池会事務局長の田村に接近し、多額の政治資金を納めていた。神の側近木原の話によると、田村からは、急に金の調達を依頼され、よく金を届けていたというし、神自身、自伝『怪物魂』で数千万の金を池田政権のために、投入したと語っている。
 田村は、金を運んでくる木原に対して「池田が政権をとったら、ドル枠を撤廃してやるぞ」と語っていたというが、実際に池田政権誕生後、ドル枠は撤廃されることになる。ただ皮肉なことに、これはいままでAFAほか数社が、牛耳っていた呼び屋業界に、風穴をあけることになり、多くの新会社の進出を許すことになったのだが・・・。
 呼び屋が、一政治家に多額の政治資金を提供するということは、当然見返りを期待してのものであり、あの時代神にとってドル枠撤廃という大きな目的があったのは間違いない。しかし『危機の宰相』を読むと、金、そして利権とは別の、ないなにか大きな絆が、神と田村のあいだにあったのではないかと思うようになった。それは「幻」へ賭ける思いではなかったのではないだろうか。

 『危機の宰相』の第6章「敗者としての田村敏雄」に、詳しく彼の敗北の歴史が書かれてある。池田と同期に大蔵省に入省した田村は、1932年満州に渡る。大蔵省での自分の未来に絶望し、見切りをつけたことが大きかったのだが、彼なりに前年建国した満州国にある夢を抱いての事だったと沢木は書き、田村自らが書いた数少ない満州時代への思いを振り返った文章を引用している。

 「形は侵略であり、征服であっても、精神はそうでない、いや、たとえ一部の精神はそうであっても、独立国とした以上、これをほんとうの独立国、新しい意味と理想とをもった独立国にしたいと日夜心をくだき、努力をしたということは、夢破れた今日、やっぱり、ひょうたんはコマは出なかったと知ると共に、いっそう、当時のこころもちをなつかしみ、自らのはかなき努力をあわれむ気持ちがするのです」

 日本の敗戦と共に、現地でソ連軍に捕らわれた田村は、5年間の抑留生活を強いられ、1950年帰国している。帰国した田村は、一時大蔵省のPR出版業務をする外郭団体の理事長に就任するが、54年に辞職、池田勇人の個人後援会「宏池会」をつくり、池田を総理にするための本格的活動に専念する。
 この経緯について、沢木はこう書いている。》

 「満州での挫折とシベリアでの抑留ですべてのエネルギーが喪われてしまったと田村は自分で思い込んでいた。しかし、政治家池田と結びついた田村には、池田を総理にすることでもう一度だけ満州で果たせなかった「夢」を実現しよという情熱が甦ってくる。池田を宰相に仕立てたいと考えるようになったのだ」

引用元2

「日本とユーラシア」2004年7月15日号 (長塚英雄)

50年代大衆公演の成功と神彰のAFA (長塚英雄・日本ユーラシア協会事務局長)

 

「波乱万丈」という言葉で言い表すとすれぱ、月並みすぎる。壮絶な、常識人からすれぱ無鉄砲な人生といえるかもしれない。神彰(じん・あきら)の人生はそれほどある種の感動を伴うユニークなものである。

だから著者・大島幹雄氏がコツコツと取材した神彰の人生ドラマは、人を惹きつける。
 実は、日ソ協会はこの神彰氏に大変お世話になっている。戦後の日ソ文化交流の草創期の歴史において彼が果たした役割には大きなものがある。著者のような「呼び屋」どうしの感動とは別に客観的にみても評価される人物であるように思う。
 私はこの本を手がかりに、日ソ協会初期の文化.交流において、会員・市民に感動を与えた低料金による大衆公演の「仕掛け」を知った。神氏=アート・フレンド・アソシエーション(AFA)は、次々招へいするソ連芸術家グループの来日公演ーステージを無料で協会に提供していた。国交回復直後だから日ソ友好親善のためという大義名分があったとはいえ、ソ連大使館やソ連本国との契約交渉をうまくすすめるために唯一の窓口だった協会との付き合いは必要だったともいえなくもない。神彰氏と直接に接触して無料公演を実現していたのは堀江邑一先生(常務理事)だった。堀江先生の要望に一度たりともノーと神彰氏は言わなかったと聞いている。


引用2 上野破魔児の証言 一部
「私はね、大正3年の生まれなのですが、大正9年に父親に連れられて、大陸に渡りました。それからは終戦までずっと大陸暮らしです。ハルビン学院を卒業して入ったのが、いまの日本交通公社。満州各地に支店がありましてね。ハルピン、大連、満州里、新京などあちこち転々としました。
 神と会ったのは、いつ頃だったのだろう。たぶん昭和16年頃だと思います。ハルピン案内所の副所長をしていた時に『上野さん、とんでもない若い社員がいるんですけど、面倒見てくれませんか』と頼まれたのですが、それが神だったのです。
 実際にこの男、とにかく仕事をしない。ぼけっと何もしないで机の前に座っているだけ、ちょっと目を離すと、スケッチブックをもってフラッと出かけてしまう。それに加えてぶっきらぼうで、とてもカウンターに立たせて、客の相手なんかさせられないわけですよ。
 『どこへ行くですか。エッ、聞こえないな、はっきり言って下さいよ、切符はいるんですか』こんな調子ですよ。客とすぐに喧嘩になってしまうんだから、とても客相手はさせられないですよ。しようがないから、案内所の中の装飾とか、ポスター描かせるとかやらせていました。
 絵は確かにうまかった。私も絵を描いてましたからね、わかるんですけど、ほんとうにうまかった。
 パリに留学するための資金づくりに大陸に来たって言ってたけどね、あんな暮らしじゃ金なんかたまるわけがない。実際人を食ったような男でしたね。
 でも憎めないとこはあったね。」

 上野は最初にあった神の印象を思い起こしてくれた。まるで手に負えないやんちゃな弟のことのことを思い出すような語り口だった。
 上野は終戦まで満州各地を転々とするのだが、上野以外に神のような問題児を使える人間はいなく、結局上野と一緒に神も、奉天、新京と渡りあるくことになる。

「確か奉天の案内所で働いていたときだったね。私はどうしても営口の案内所を見なくてはいけなくて、神を奉天に置いてきたんだ。その時だったね。北原白秋の一番弟子で、「たき火」なんかの唱歌を書いた巽聖歌という詩人を連れて、営口に来たのは。神は得意気に巽を私に紹介していましたよ。
 その時に神が、『上野さん、調査宣伝課の課長に殴られちゃった』というから、どうしたんだと聞くと『何か俺のことが気に入らないんだと殴ってきたんだ』と言う。『お前、殴り返したのか?』って聞くと、『殴ってもしあないし、殴られ放しにさせておいた』って言うから少しは安心してね。上司を殴り返したら、そのまま会社になんかいれませんからね、とにかく困った奴だったね。」

 上野はある時神の画才を見込んで、どうだカレンダーをつくってみないかと、誘ったことがあった。この時神は、珍しくやる気になって、出来上がってきたものを得意気に上野に見せる。満州の子どもたちが描いた満州の風景の絵が12枚あった。上野は、旅行会社のポスターなのに、これじゃ、満州の紹介にしかならないじゃないかと言うと、神はその場でその絵を破り捨て、上野を驚かせる。
 神の気性の激しさを物語るエピソードといえよう。
 上野は、『お前どうやって満人に絵を描かせた、ただではないだろう』と問いただすと、悪びれず『用度の奴に一杯飲ませて、消しゴムやらクレヨンをもらって、それを配った』という返事に、上野は呆れ、一言自分に相談してからやらないとダメじゃないかと、説教したという。

 「癖になるからね、とにかくあいつはなんでもかんでも、自分勝手にやるんだな、でもこのアイディアにはちょっとは感心したんだけどね」

 上野がいなければ、神はとてもこの会社で働き続けることはできなかったのではないだろうか。



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