公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

「江戸っ子長さんの舶来屋一代記」 茂登山長市郎 著

2017-10-12 18:30:00 | 今読んでる本

追補2019年10月1日

株式会社サンモトヤマ

日本に初めて「GUCCI」を紹介した老舗セレクトショップ
破産手続き開始決定受ける
TDB企業コード:980437777

負債9億7150万円

追補昨年2017年12月に亡くなったようです。御冥福をお祈りします。
茂登山長市郎さん96歳(もとやま・ちょういちろう=サンモトヤマ会長)昨年12月15日、肺炎のため死去。お別れの会は2月20日午後0時半、東京都千代田区内幸町1の1の1の帝国ホテル「富士の間」。


見逃した人に再放送のチャンスですよ。




BSプレミアム 25日9:00
26日0:45-




いずれ感想を書こう、最近読んだ本の中でもとびきり面白い。




サンモトヤマ 銀座本店
〒104-0061 東京都中央区銀座6-6-7 並木通り
電話番号 03-3573-0003
(朝日ビルは建て替え中につき、一時移転している)

こういう講演書籍は珍しい。飾ったり編集したりしていないように思えるくらいあけすけに経験を語っている。主義として江戸っ子と自己紹介するところには多分ご本人は抵抗したのだろうと思うが、馬鹿の代名詞として江戸っ子を受け入れたのだろう。江戸っ子のどこが馬鹿かというと、ご本人曰く勘定がときどき感情になってしまうところだそうで、そこがまた江戸文化の奥深さというところだろう。
銀座みゆき通りをブランドのショーウィンドウに変えたのはこの人の貢献であることは間違いない。大気汚染で傷みの激しかったサン・ジョヴェンニ洗礼堂の東門の扉、『天国の扉』のレプリカを寄贈した人もこの人である。欧米文化を日本に紹介したこういう人物がいること(94歳存命のはず)はなかなか知ることがない。外為法違反の逮捕歴があるから天皇陛下から勲章は貰えないだろうし、商売人だから本を書くこともない。その意味で珍しい本である。
闇市取引からはじめて元手を増やし、やがて外貨不足の日本人が目にすることも手にすることも出来なかった外国製品(舶来品)を手に入れ販売することを生業とする、舶来屋の創業はかなり危ない橋をわたっている。しかし意外にもエルメス、グッチ、セリーヌ、エトロなどの日本人の買い手はいくらでもいた。川端康成、柴田錬三郎、今東光、三島由紀夫、三船敏郎、新珠三千代、森光子





などの有名人や、有名でなくてもお金を持ってる日本人はいっぱいいた。電通の吉田秀雄常務がやがて第4代社長(電通になってから数えると初代、鬼十則で有名)なる頃も早くからの常連だった。

当時個人が限度を超えてドルを貯めこむことは違法であったし、ドルを贅沢品の輸入に”無駄”使いすることは産業育成国策に反していた(1969年 4月には外貨持出制限額が700ドルに緩和され,71年6月には3,000ドル, 72年11月には制限がなくなるが、それよりも十数年前の事情は大変厳しかった。)。

引用

https://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa45/ind110102/003.html


昭和44年のわが国の国際旅行収支は, 〔IV-9表〕のとおり,受取は,対前年比17%,2,200万ドル増の1億4,800万ドルと順調な伸びを示した。一方,支払は,44年4月から観光渡航などの1回の外貨持ち出し制限額が700ドルに引き上げられたこと,ヨーロッパなどへの長距離旅行が増加したことなどにより,対前年比44%,7,400万ドル増の2億4,100万ドルと急激な伸びを示し,収支は9,300万ドルの大巾な赤字となつた。

  このように,44年の国際旅行収支は赤字巾を大きく拡大したが,経済社会の国際化の動きのなかで,国際親善,国際交流に重要な意義を有する国際観光については,海外旅行を制限することなく,海外観光宣伝,宿泊施設の整備,その他の積極的な外客誘致方策をいつそう強化して国際観光を振興する必要がある。

引用終わり🔚


日比谷時代の占領下では国内でドルを持っていてもPXぐらいでしか使えない。この人には知恵と地の利があった有楽町は将校も多く、パンパンの街だった。それゆえドル決済者パンパン銀行で通貨交換が出来たのだ。暗いだけではなかった戦後のイメージが膨らんでくる。。。幸田真音の「舶来屋」もカートにいれたが、この一冊で十分かな。


パンパンとは、第二次世界大戦後の混乱期日本で、主として在日米軍将兵を相手にした街頭の私娼街娼)である。「パンパン・ガール」「パン助」「洋パン」ともいう[1]。一般にこの言葉が広まったのは戦後のことであるが、日本海軍内では戦中から使用されていたともいう[2]

特殊慰安施設協会(RAA)の廃止に伴い職を失った売春婦が街頭に立ちパンパンとなったといわれるが、RAA廃止前からも見られていたともいう[1]

外国人男性を相手にする事からしばしば国賊、売国奴扱いされパンパンの仕事を辞めた後も後ろ指を刺され社会的に差別される事が当たり前であった。註


NHK街頭取材*藤倉修一の隠し録りインタビューより 『ガード下の娘たち』は、むしろ安易な「答え」を否定する作品である。「東京をパンパンのいない街にしよう」といったステレオタイプなメッセージに予定調和的に落ち着くことを拒否する作品である。藤倉の「無念流」は空っぽという意味ではない。むしろ安手のイデオロギーを拒否する生活者のリアリズムが詰まっている。「下町育ちのガラッパチ」は、人間が関わっている以上「上から目線」ではわりきれないことが多いことを生活者としてよく知っていた。そのことを独特の形で表現してみせたところに、『ガード下の娘たち』ならではの作品性があり、藤倉ならではの作家性があった。


*藤倉 修一(ふじくら しゅういち、1914年3月12日 - 2008年1月11日)は、日本のアナウンサー、放送評論家。昭和中期のラジオ全盛期にNHKに勤務し、第1回NHK紅白歌合戦の白組司会を務めたことで知られる。1945年より、ラジオ番組『街頭にて』(のちの『街頭録音』)の専属インタビュアーとなる。マイクを避ける人々を柔和な語り口で呼び止める様子などが反響を呼ぶ。1947年には、日本のドキュメンタリー番組の先駆けである『社会探訪』(『世相録音』から改称)を担当。同年11月から司会を担当したクイズ番組『二十の扉』は1960年まで放送されて長く人気を博し、回答者が問題に正解した際に藤倉が発する「ご名答」は流行語となった。


註 豊かになった実力者たちは後ろ指など刺されることはなかった。


パンつながり

浪花千栄子 なにわちえこ 『水のように』

それ以来、何十年、どうやら三度のものにもことかくということだけはなくなりまして、今日まで過ごさせていただきましたが、あんなおいしいにおいというものには、ついぞその後出会ったことがなく、それをともするとゆるみがちな、心のむちといたしているのですが、そのかますの中のおいしいにおいのもとは、サンドイッチに使ったパンの切れっぱしで、都心の洋食屋さんから集められた、つまりは残飯の一種というわけですが、ぶたの飼料になるものだとは、あとで知ったことでした。私は、弟をたたき起こすようにして、そのパンの切れっぱしを示し、無我夢中で手づかみにしてかぶりつきました。こうばしい、ほんのりと甘いような、そしてかめばかむほど、味わい深く、そしてほどよいかみごたえ、たぶん、弟もそうだったと思いますが、私たちはこの世で一番の幸福を感じて、うっとりしながらむさぼるように、そのパンの耳をかじったことでございました。  そのうち夜はしらじらと明けはなれてきました。私たちは、その小屋でぐっすり一夜を明かしたわけです。私も弟も、ようやく人ごこちがつき、食べるテンポものろくなりだしたころ、気がついて前の方を見ると、ひとりのおじいさんがジロジロ私たちをながめまわしながら、不思議そうに近づいてきました。 「お前らどこの子や!」


養豚家のこのおじさんに結局親切にされ、生き延びる。私も学生の頃パン屋に犬の餌をもらい受けに行った。自分たちが食べるのだけれど。



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