きのうは義父の命日でした。
平成9年に亡くなったので 丸25年になります。去年二十五回忌をしましたが、コロナで親戚は来れず、夫と私と二人で ささやかな二十五回忌を営みました。
義父が亡くなった日は湯平の秋祭り『白熊(はぐま)祭り』の一日目の夜でした。小雨が降っていました。
父は町内の病院に入院していましたが、あまり良い状態ではなく、その晩 母と夫は父のそばにいました。
私は店番、子供二人は秋祭りの子供太鼓に出ていました。
昔の右田薬局で長女が太鼓を叩いていたら折れるはずのない、桐のばちが折れました。付き添いの近所の奥さんがびっくりしたそうです。今になって思えば、虫の知らせだったのかもしれません。
夫が車で迎えに戻り、私と娘二人を乗せ 雨の中 病院に向かいました。雨のせいなのか、夫があまり スピードを出しません。
『まさか その夜に亡くなるとは思ってなかったから』と後から話していました。
孫二人を待っていたかのように、二人の孫が着いたのを確認するように 義父は亡くなりました。今思えば、先生が酸素吸入を続け、強心剤を打ち 家族が集まるまで もたせてくれたのだと思います。義父も孫にお別れをするために頑張っていたのだと思います。母は『○○ちゃんが来たよ、○○ちゃんが来たよ』と必死で呼びかけ、父もわかったようでした。母が気丈に振る舞っていたのが心に残っています。
母は入院中はずっと付き添いで介護していました。私たちは母を毎日送り迎えしました。今のコロナの時代では面会もかないませんから 最後までそばにいて、看取れたことは 幸いだと思います。
翌日は雨がひどくなり 遠い親戚も時間をかけて夜遅く到着しました。翌日は嵐になり、川から水が庭に上り、消防団から遺体を移動しましょうと勧められましたが 母は頑として受け入れませんでした。胆が座っていました。
親戚の一部はお寺に避難しましたが、翌日 天気は回復し 無事葬儀を終えることが出来ました。
香典返しは 今は使われなくなったテレフォンカードと父の書いた『湯平郷土史第三巻』と句集『はんぱの記』でした。
父の原稿は字がうますぎるのか、崩しすぎるのか、よく読めません。私が誤字脱字を修正し、疑問点を質問するために病床に通いました。印刷会社も校正と印刷を早めて下さり 亡くなる前に父に届けることができました。本を二冊手にして 父は満足そうでした。父は自分の死期が迫っていたことを察していたのか、地区民以外で贈呈したい方々の名簿を書いて私たちに託しました。
父は多趣味で奉仕の心を持った人でした。八幡出身の父は 湯平の人が快く自分達を受け入れて商売をさせてくれたことを感謝していました。大火で焼失した湯平の歴史を掘り起こし 湯平郷土史を三巻まで製本したのは湯平への感謝の証だと思います。
地域、社会にも貢献し、お寺にも奉仕し、亡くなっても いろんなことで名を残しています。亡くなって 25年経っても地域の人に忘れられないなんて幸せな父です。