沼隈文化財研究所

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「池之坊墳墓群発掘調査」報告会

2011年11月23日 | 報告

「池之坊墳墓群発掘調査報告」

―福山市北部の発掘調査報告―
日時:平成23年<2011>11月12日(土)13:30~
<於>新市歴史民俗博物館
[報告]山岡 渉 福山市教育委員会文化課


    (発掘調査報告中の山岡氏)

 (報告講演要旨)

1.[第2号墓の状況]
 2号墓の墳丘上に整然と木棺墓が埋葬されていたものと考えられる。
 大きな土壙墓の回りに、小さな土坑があちらこちらと向いて、
散在して造られていた。
 その後に大きな土坑が頂上部に整然と、このような主体となるような
木棺墓が造られた。と考えられる。
 2号墓の一番の特徴は、墳丘の裾の部分に平坦部が水平に造られて、
元々は、しっかりとしていた段が築かれていて、長い年月の間に崩壊し、
現在の様な状況となっている。
 西側・東側の谷の部分にも同じ様に段が構築されていた状況を
窺う事ができる。この様な段で2号墓は、囲まれていた事が解かる。
2号墓には、殆んど土器は出土していないが、試掘調査の折に、
この様な土器が出土していて、この土器から「弥生時代中期の終わり頃」に
段で区切られた土壙墓が築かれたものと考えています。2号墓は、A地点の北側になる。


                  (A地点 B地点 発掘調査区)

2.[B地点(第3号墓・第4号墓)]
 [第4号墓について]
 北と南に尾根を区切るように溝で区切られ区画され、
その真ん中に三つだけ掘られた後があり、石が残っていてこれが最後に作られた石棺となる。
先に二つあった掘り方を最後に作られた石棺が切り合って、作られた状況を確認しました。
 この4号墓の特徴は、先程の2号墓と違っていて、尾根を大きな溝で区切り、
明確に四角に築いていて、三つだけしか墓を築いていない。
 2号墓の方は、台上に沢山の穴が掘られていて、土坑が築かれている。
4号墓の方は、三つしか築かれていない。
 しっかりとこの三つだけを築く意識が働いている事が解かる。これが最大の特徴と言える。


[第3号墓について]
 4号墓より、2号墓に区域が近づいている。
 地山の南と北に区画溝があって2号墓へ近づいている。
3号墓の特徴は、地山の両側に区画溝を築き、
 その中心部へ三つの埋葬されたと思われる土坑を確認しました。
 真ん中に一つ、それに直行するように両側に一つずつ、土坑が築かれている。
 4号墓と違って、同じ様に埋葬施設を作るが、重なり合わず、
それぞれが人としての権威を尊重している事が窺われる。
この状況から、4号墓と3号墓との造り方の意識の差で、
4号墓より3号墓の方が、新しいと考えられる。
 この様に考えて、2号墓⇒4号墓⇒3号墓とお墓の造り方が変わってきた事が確認出来た。
 3号墓からは、試掘調査でおそらく東側に頭を向けていたと思われるが、
そこから鉄が出土し、この当時、鉄を保有することは、
それなりの権威を持っていたことが窺われる。
 4号墓の南側の溝と3号墓の北側の溝の区画溝は、
4号墓の溝が埋まった後に3号墓の溝が構築されている事が、
発掘して土層の状況を確認し、この事により、
3号墓より4号墓の方が古いことを、確認をしている。
 B地点の4号墓、3号墓の一段下がったところに7基の土壙墓を確認している。
 これらの土壙墓は、恐らく4号墓、3号墓の区域に納めて入れなかったもが葬られた、
墓坑と考えられる。
 A地点の2号墓から下がってB地点の4号墓、
3号墓へと墓域が続いて行ったと考えられる。


                   (B地点、3号墓 4号墓)


3.[A地点、第1号墓と第5号墓について]
 A地点の2号墓の下に1号墓と5号墓がある。
 2号墓からの尾根を区画する溝を構築し、2号墓が石棺で築かれている。
 石棺は一基で他は木棺若しくは土壙墓が築かれている。
 一定の区域の中に、石棺墓・木棺墓が築かれている状況は、
4号墓の状況と似ているが、4号墓に比べ1号墓は、
埋葬主体部の重なりが見えない。
 この1号墓を区画する溝から「器台」が出土している。
 この「器台」は、先祖や神にものを捧げるために造られている。
 この様な「器台」は弥生時代の中期にもあるが、
大体は弥生時代の後期に造られている。
 今回出土の「器台」の型式が「弥生時代後期」のものに似ているので、
大体「弥生時代後期」と考えている。
 1号墓は、弥生時代後期になって造られたと考えている。
 2号墓は、弥生中期の終わり頃に造られて1号墓は、弥生後期に造られていることが解かった。
 2号墓⇒1号墓へと時代が新しくなっている。

[5号墓について]
 調査区の南端になり、1号墓から下り斜面に溝を切り区画している。
 南側は、傾斜がきつくなるので、溝で区域を区切っている。
 その区域の中に沢山の土壙墓や石棺墓(2基)が築かれていた。
 5号墓の特徴は、1号墓に似ているが元々木棺墓があったのを
後から石棺墓を築いた形跡を確認している。
 石棺を築くときに、木棺が有った事が判り、
木棺墓のあった片方の段を利用し短い石で石棺の側石を用いている。
 もう一方の側石部分は、木棺のあった硬い部分を掘り下げて石棺を築いている。
 この部分は、元々木棺墓が有った区域を1号墓からの斜面に溝を区切り、
その区域の中央に石棺墓を新しく築いている状況を確認している。
 これは、1号墓より新しい造り方ではないかと考えている。
 2号墓⇒1号墓⇒5号墓⇒から斜面の下にある古墳へと続いて行く
のではないかと考えられる。
 これらから、2号墓を中心にして、弥生時代中期から造られ始めて、
北側の4号墓5号墓、南側の1号墓5号墓と時代を下りながら造られて行き、
最後に南側の「池之坊古墳群(第1号古墳~第3号古墳)」
へと続いて行ったと考えられるのではないか。


                  (A地点、1号墓 5号墓)



             (特殊器台)


           (出土鉄製品 やりがんな)

 最後に、調査区からの景観の写真を撮り、この景観から中条の谷の良い場所を利用し、
「池ノ内墳墓群」から「池ノ内古墳群」へと力を持った人達の墓域へと繋がっていったことが想定されます。
 以上が「池之坊墳墓群」の調査から、弥生時代中期から始まるお墓の変遷により、
古墳時代へと力を持っていった状況を観る事が出来る貴重な遺迹だと感じています。

(☆注 資料は、報告会配布資料による)
                                 概略以上(文責 椿庵遍照)


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