九州神社紀行-ブログ

北九州近郊を中心に神社および周辺風景の撮影日記です。

立磐神社(宮崎県日向市)

2009-01-04 16:41:49 | 神社参拝ー九州
 立磐神社(宮崎県日向市)を掲載しました。

 昨年後半から本格的?に始めた全国一の宮巡拝も西日本地区はほぼ完了し、今年はいよいよ、東征です。
 そこで、神武天皇東征の際、ここで戦勝と海上安全を祈願し、住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)を奉斎したと伝えられる、立磐神社と御船出の地とされる美々津海岸を今年の最初としました。

  立磐神社(たていわじんじゃ)
<通称>立磐さん(たていわさん)
【鎮座地】〒889-1111 宮崎県日向市美々津町3419 旧日向国 児湯郡 
【御祭神】表筒男命 中筒男命 底筒男命
【例祭】 6月30日 夏祭 11月14日前の日曜日 例祭
【旧社格等】郷社
【御由緒】
 神武天皇御東遷の際、美々津港よりお船出にあたり航海の安全を祈念されてこの埠頭に海上守護神である底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱の大神を奉斎し給ふたとして第12代景行天皇の御代に創祀されたと伝えられる。
 かくて永禄の頃より地頭の崇敬者もあり神事行事も整い殷盛となっていた。然るに天正6年に至り大友氏と島津氏との耳川の合戦のため戦火にかかり宝物貴重なる文献記録など烏有に帰した。
 棟札によれば元和9年・寛文8年・宝永2年・享保3年に再興されている。高鍋藩主秋月氏の崇敬も厚く貞享3年神領7右5斗を有していたたとあり,その後も神事ある毎に寄進をうけていた。更に境内には神武天皇御腰掛岩があり、今もご霊蹟として崇拝している。
 明治4年郷社に列格、同40年神饌幣帛料供進指定された。やがて、昭和9年は時恰も神武天皇が御船出せられて2600年に相当するのでこれを記念して秩父宮殿下を総裁に仰ぎ、松平頼寿伯を会長に全国的な御東遷祭が挙行された。その記念事業として境内の拡張、社殿の修築をなし、記念碑が建立された。さらに沖の御船出の瀬戸に永久に神のみあかしを献灯する意味で竜神バエの岩上に住吉灯籠を摸した灯台が設置された。
 境内に、日本海軍発祥の地の記念碑が建立された。凡そ日本の海軍の昔を尋ねてゆけば御東遷当時の船団が古いのではないか、これこそ日本の始めであるので、この文字は時の総理大臣で而も海軍大将の米内光政氏の揮豪による。
 又は、東行巡路漕舟大航軍を挙行した。これは、昔御使用の舟を形どりて新しく船を作り、おきよ丸と命名し日向国の青年150名が漕舟して昭和15年4月18日美々津港を船出し途中天皇がその昔寄港されたという由緒あるところに寄港しながらその月28日浪波に上陸御木盾を奉持橿原神宮に奉納した末曽有の大行事であった。
 (平成祭データ)

 宮崎県日向市の南端を流れ、日向灘に注ぐ耳川河口の港町で、かつて京阪神との交流の拠点の商業港として栄えた美々津にあります。
 耳川に架かる国道10号線「美々津大橋」の南側たもとの川岸に鎮座しています。

 参道から境内
鳥居をくぐって直ぐ左の手水を過ぎると、右手に「神武天皇御腰掛岩」、左上に日本おもと愛好者建立の「神武天皇御船出伝説の歌」の碑があります。

 「神武天皇御腰掛岩」 
 お船出の際、神武天皇が座ったとされる「御腰掛岩」です。玉垣に囲まれ、前に燈籠と背の低い鳥居があります。
 岩そのものが御神体です、外で時折見掛ける「御腰掛岩」と違い意外と小さい(およそ数10cm四方)ものです。

 参道の鳥居左右に一対の狛犬があり、鳥居の左は御神木です。
正面に拝殿から幣殿、本殿です。

 拝殿 
現在の社殿は昭和9年、御船出2600年記念事業として境内整備等ともに修築されています。
 背後の橋は耳川に架かる美々津大橋です。

 本殿神武天皇東征の折、ここで戦勝と海上安全を祈願し御祭神住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)を奉斎したと伝えられています。

  社殿全景
 創建は景行天皇乙酉年(西暦85)創祀と伝承されています。

  社殿全景
 社殿は巨大な岩の上に鎮座され、境内周囲にも多くの巨岩がごろごろとあります。

 境内社、吉松稻荷大明神境内左、巨岩の傍にひっそりとあります。

 御神木社殿左前にあります、太い幹には苔などがびっしりと付いています。
 根元の幹の空洞に小さな鳥居があり、その奥にご神体?の小さな石が置いてあります。

  境内から美々津大橋
耳川に架かる国道10号線の通る橋です、わが国最初の「やじろべえ工法」で昭和42年(1967)建設されました。上流はJR日豊線の鉄橋です。

 拝殿から参道

 「日本海軍発祥の地」碑
 参道入口にあります。神武天皇御親率の東征水軍御進発の聖地であることから「日本海軍発祥の地」とされ、紀元2600年の記念事業として建立されました。
「日本海軍発祥之地」の揮毫は、時の総理大臣米内光政大将によるもの、宮崎平和台公園の「八紘一宇」の塔と同じく当時の第一人者日名子実三氏の設計です。

  神武天皇御親率の東征水軍御進発の聖地
「日本海軍発祥之地」碑
 建立・昭和17年(紀元二千六百二年】9月10日 
 復元・昭和44年(紀元二千六百二十九年)9月12日
  建立・復元の経緯と碑文の由来
 日本海軍は、天皇が統帥された海軍でありました。このことから国が、神武天皇御親率の水軍が、はじめて編成され、進発した美々津の地を「日本海軍発祥之地」と定め、紀元二千六百年記念事業の一環として建立されました。碑文の文字は、時の内閣総理大臣海軍大将米内光政閣下の揮毫により、碑面に刻記されたのであります。この碑は、大東亜戦争の終戦直後進駐米軍によって碑文が破壊されましたが、昭和44年に至り地元有志の強い要望により、防衛庁(海上自衛隊)などの協力を得て、現在のとおり復元されたのであります。
 平成4年9月12日 「日本海軍発祥之地」碑顕彰保存会
   (碑前案内板より) 

  海軍両爪錨
 紀元2600年記念事業の一環として「日本海軍発祥の碑」とともに昭和17年(1942)建造されたもの、重さ2t・高さ3m・幅3mあります。

  海軍両爪錨展示碑文
当地は、神武天皇が大水軍を編成され、御親率されて御東行の御船出をされた日本海軍発祥の地と伝えられている。
昭和十五年(1940)には皇紀二六〇〇年記念を祝い、日本海軍協会、大日本海洋少年団、大阪毎日新聞社主催により、
軍船「おきよ丸」を造船し、この美々津港から大阪中ノ島まで神武天皇東行の聖蹟を巡航し橿原神宮に神楯を奉献した。
この日を記念して企画された「日本海軍発祥の碑」の建立と「両爪錨」の製造が昭和十七年、(1942)にに実現したのである。
爾来、この錨は、太平洋戦争から戦後の混乱期を経て昭和二十七年(1952)に創設された海上自衛隊に移管されていたものである。
 そして、その錨が半世紀余を経た今、海上自衛隊のご厚意により、生誕地である日本海軍発祥の地に帰還したことは、日本海軍史の象徴といえるこの錨と神武天皇御船出の地の奇しき因縁を感じるのである。
ここに、わが国の平和と安全を希求し、国民の財産とと生命を守るため日夜、刻苦精励されている海上自衛隊の一層の
ご発展を祈りながらこの錨を平和のシンボルとして世界中に発信して行くことを誓うものである。
  平成十四年十一月吉日
 (案内板より)

 美々津海岸
神武天皇の乗った船は、右の大きな岩礁七ッ八重と左の黒ハエの間を通って出て行かれと、境内を清掃されていた方にお聞きしました。

  美々津港灯台
 七ッ八重には紀元2600年記念祭で建設され、「神のみあかし灯台」と呼ばれた灯台がありました。またそばに小祠も見えます。

 美々津海岸全景
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