若宮八幡神社(大分県豊後高田市)を掲載しました。
若宮八幡神社(わかみやはちまんじんじゃ)
<通称>若宮様(わかみやさま)
【鎮座地】〒879-0605 大分県豊後高田市御玉1
【御祭神】大鷦鷯尊
(配祀)天照大御神 玉祖命 隼總別皇子 大葉枝皇子 小葉枝皇子 雌鳥皇子 多紀理毘賣命
市寸嶋比賣命 天之忍穗耳命 天之菩卑能命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須比命
【例祭】1月1日 元旦祭 6月30日 大祓祭 7月7日 北辰社祭 10月15日近い土曜日 秋季御神幸祭
12月31日 大祓祭 毎月1日1・15日 月並祭
【旧社格等】県社
【御由緒】
由緒記
一、祭神 大鷦鷯尊(おおささきのみこと)仁徳天皇 他15柱
一、由緒 若宮八幡神社は宇佐八幡大神の御子、大鷦鷯尊他15柱の神々をお祀りした旧県社なり。
淳和天皇の天長元年(824)豊前国宇佐郡大神朝臣蘊麿の母酒井門主女に「我と奉齊せよ」との託宣あり、文徳天皇の仁寿二年十二月(852)宇佐宮造営使正六位上藤原朝臣勝主主典、正六位上香上宿祢永貞の両人に頼み、社殿を創営する。
ご祭神の内、天照大神、玉祖神、品陀別命の三柱は、元正天皇の養老二年(718)市内字御玉に出し璞(あらたま)を御神体として祀ったものである。
元亀二年(1571)と天正七年(1579)の二度、大友義鎮や大友左兵衛督の兵火に遭い総ての財宝、牛馬を略奪されたが、文禄の頃(1592~5)竹中伊豆守重隆が高田城に在り、再び社殿を造営して復旧した。
寛文九年(1669)松平主殿頭によって封内の宗祠と定められてより、歴代領主の尊崇厚く、現代の社殿は天保四年(1933)松平忠侯のご造営によるものである。
昭和三十年(1955)桂川河川改修のため、鬱蒼たる境内林の伐採、八十㍍東方に移転し現在に至る。
尚、旧暦十月半ばに執行される「川渡し神事」は、永保四年(1084)に始められ、日本三大裸祭の一つとして既に九百年余の伝統をもっている。
平成18年10月 改修建立
(社頭由緒碑より)
大分県国東半島の北西部に位置し、周防灘に面した豊後高田市にあります。市の中心部市役所から桂川沿いに数百m上流の樹木の繁る社叢に鎮座。
一の鳥居をくぐると平坦な参道が続きます、両側には灯篭、狛犬など多数奉納されています。
参道の鳥居安政五年(1858年)の奉納です。
神門
前の小川に万延元年(1860年)建造の石造橋が架けられています、これは県指定有形文化財に指定されています。
社殿全景
神門をくぐると左に瓦葺の細長い拝殿、その奥に檜皮葺が美しい本殿が見えます。
拝殿
神門から本殿
本殿は彫刻がみごとな神門と瑞垣に囲まれています。
本殿
神門から参道
被爆くすの木二世
一の鳥居をくぐって参道の途中にあります。
『このくすの木は原爆被爆地長崎市内山王神社の被爆くすの木二世です。
「被爆くすの木のたねを拾いその二世を育て、平和の継承の象徴として日本全国及び世界の子供たちにその苗を贈る運動「プロジェクトくすの木」の一環として、長崎原爆の日にあたり、世界の恒久平和と、すべての子供たちの健やかな成長を願いここに植樹します。
2002年8月9日
豊後高田地区BBS会』
(案内板より)
さきごろ、”しょうがない”と言って辞任した大臣がいましたが、こういう方たちも全国には多数いらっしゃいます。
若宮八幡神社(わかみやはちまんじんじゃ)
<通称>若宮様(わかみやさま)
【鎮座地】〒879-0605 大分県豊後高田市御玉1
【御祭神】大鷦鷯尊
(配祀)天照大御神 玉祖命 隼總別皇子 大葉枝皇子 小葉枝皇子 雌鳥皇子 多紀理毘賣命
市寸嶋比賣命 天之忍穗耳命 天之菩卑能命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須比命
【例祭】1月1日 元旦祭 6月30日 大祓祭 7月7日 北辰社祭 10月15日近い土曜日 秋季御神幸祭
12月31日 大祓祭 毎月1日1・15日 月並祭
【旧社格等】県社
【御由緒】
由緒記
一、祭神 大鷦鷯尊(おおささきのみこと)仁徳天皇 他15柱
一、由緒 若宮八幡神社は宇佐八幡大神の御子、大鷦鷯尊他15柱の神々をお祀りした旧県社なり。
淳和天皇の天長元年(824)豊前国宇佐郡大神朝臣蘊麿の母酒井門主女に「我と奉齊せよ」との託宣あり、文徳天皇の仁寿二年十二月(852)宇佐宮造営使正六位上藤原朝臣勝主主典、正六位上香上宿祢永貞の両人に頼み、社殿を創営する。
ご祭神の内、天照大神、玉祖神、品陀別命の三柱は、元正天皇の養老二年(718)市内字御玉に出し璞(あらたま)を御神体として祀ったものである。
元亀二年(1571)と天正七年(1579)の二度、大友義鎮や大友左兵衛督の兵火に遭い総ての財宝、牛馬を略奪されたが、文禄の頃(1592~5)竹中伊豆守重隆が高田城に在り、再び社殿を造営して復旧した。
寛文九年(1669)松平主殿頭によって封内の宗祠と定められてより、歴代領主の尊崇厚く、現代の社殿は天保四年(1933)松平忠侯のご造営によるものである。
昭和三十年(1955)桂川河川改修のため、鬱蒼たる境内林の伐採、八十㍍東方に移転し現在に至る。
尚、旧暦十月半ばに執行される「川渡し神事」は、永保四年(1084)に始められ、日本三大裸祭の一つとして既に九百年余の伝統をもっている。
平成18年10月 改修建立
(社頭由緒碑より)
大分県国東半島の北西部に位置し、周防灘に面した豊後高田市にあります。市の中心部市役所から桂川沿いに数百m上流の樹木の繁る社叢に鎮座。
一の鳥居をくぐると平坦な参道が続きます、両側には灯篭、狛犬など多数奉納されています。
参道の鳥居安政五年(1858年)の奉納です。
神門
前の小川に万延元年(1860年)建造の石造橋が架けられています、これは県指定有形文化財に指定されています。
社殿全景
神門をくぐると左に瓦葺の細長い拝殿、その奥に檜皮葺が美しい本殿が見えます。
拝殿
神門から本殿
本殿は彫刻がみごとな神門と瑞垣に囲まれています。
本殿
神門から参道
被爆くすの木二世
一の鳥居をくぐって参道の途中にあります。
『このくすの木は原爆被爆地長崎市内山王神社の被爆くすの木二世です。
「被爆くすの木のたねを拾いその二世を育て、平和の継承の象徴として日本全国及び世界の子供たちにその苗を贈る運動「プロジェクトくすの木」の一環として、長崎原爆の日にあたり、世界の恒久平和と、すべての子供たちの健やかな成長を願いここに植樹します。
2002年8月9日
豊後高田地区BBS会』
(案内板より)
さきごろ、”しょうがない”と言って辞任した大臣がいましたが、こういう方たちも全国には多数いらっしゃいます。
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