青い空が大好きな゛bluesky531゛の徒然日記

日常の出来事を日記風に徒然なるままに書いています。

泣いた映画『母と暮らせば』

2015-12-15 08:45:14 | お出かけ

■『母と暮らせば』チラシ

 

■『母と暮らせば』チケット

■仙台MOVIX

 

 12月12日、山田洋次監督、吉永小百合・二宮和也出演の『母と暮らせば』が封切られました。

 前評判の高い映画で、予告編や、最近、山田洋次監督が出演していたテレビ、新聞の特集などを見ていたこともあり是が非でも見たいと思っていました。

 上映の初日、仙台市太白区長町のMOVIX仙台で初回の9時55分から始まる映画を見てきました。

 チケットは、当日、土曜日でもあったことから混むのではと思いネットで予約をしていました。

 12時50分からの上映がありましたが、既に予約で一杯になっていました。流石、前評判の高い映画と思いながら記事欄を見ると、12月12日12時50分から上映前に舞台挨拶の中継があるというスケジュールになっていました。

 舞台挨拶の中継を見て映画鑑賞をしたいと思いましたが、12月12日12時50分のチケットは、インターネットで12月9日午前0時から販売、窓口販売は12月9日午前8時30分、インターネット販売で完売した際には窓口販売はございませんとあり、既にチケットは売り切れになっていました。

 事前に舞台中継があると知っていればタイミング良く予約できたのにと残念に思いました。これもアンテナを高くして情報を収集しなければ出来ないことで、これから気を付けて情報収集をしたいと思いました。

 山田洋次監督が掲載されていた新聞記事を読んでみると、12月12日は、映画人にとっては特別の日のようでした。

 巨匠小津安二郎監督の誕生日であり、ちょうど60年後、没した日で、その日に全国公開されるという運命の日で、山田洋次監督は、同じ日になったのは偶然で、何か縁を感じるというコメントを残されていました。

 山田洋次監督は、終戦70年という年にこの企画に巡り合ったことに幸運な縁と運命すら感じているという情熱が入った作品で、更に、井上ひさしさんが、『父と暮らせば』と対になる作品を『母と暮らせば』という題で長崎を舞台に作りたいと言われていたことを知り、山田洋次監督が形にしたいと考えて脚本を書き下ろし、生涯で一番大事な作品を作ろうという思いで映画の制作にあたった映画でした。

 一昨年の夏に企画され、今年の7月に最後のロケをし、原爆と平和と伝える映画だから、戦後70年の年にぜひ公開したいと急ピッチで具体化され、海が見える高台に立つ長崎の黒崎教会が最後のロケ地で、エキストラも地元の方にお願いして作り上げたということでした。

 1948年(昭和23年)8月9日、長崎で助産婦をして暮らす伸子(吉永小百合)の前に、3年前に原爆で死んだ息子・浩二(二宮和也)が亡霊となってひよっこり現れるという映画の展開で、1945年(昭和21年)8月9日午前11時02分、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して投下した原子爆弾の凄まじい閃光と爆風と轟音と、あっ言う間に溶けていくインク瓶の映像が余りにもリアルで背筋が凍るような映像から映画が始まりました。

 戦後70年という大事な節目のこの時期に封切られた『母と暮らせば』は、戦争の悲惨さだけでなく、今、我が国や全世界が抱えている平和という諸課題にどう向き合っていくかいろいろなことを考えさせられた映画でした。

 山田洋次監督作品には、人間ドラマの展開で、やさしさ、悲しさ、嬉しさ、楽しさなど庶民的な中で生活の匂いがプンプンするものが多くありますが、『母と暮らせば』の作品は、たっぷり泣かせていただきました。坂本龍一氏の音楽も心に沁みて良かったと思いました。

 朝早い時間帯の9時55分からの上映でしたが、約100名を超える観客で前評判通りの高い映画と思いました。

 『母と暮らせば』は、見た人でなければ分からない大きな思いが残るもので全ての人に見ていただきたいし、是非、多くの若者にも見て欲しいと思いました。

 映画の最後に映し出された、「井上ひさしさんに捧げます。」という言葉は、山田洋次監督の強い思い入れのある作品という気持ちが伝わってきました。