今日(10月10日)は "スポーツの日" です。
長らく "体育の日" と呼ばれていた祝日でしたが、数年前に呼称が変わりました。1964年東京オリンピックの開会式が行われたのを記念した祝日です。
その体育やスポーツですが、嫌い・苦手という人も多く居るものです。僕もその一人で、小学生のときから体育は嫌い・苦手です。いわゆる "文化系" ひとすじで生きてきました。
体育嫌いについて、京都教育大の井谷恵子名誉教授が、ジェンダーの観点から研究をされています。ちょうど、この祝日に合わせてか、朝日新聞が報じています。
国が行った調査によると、中学2年生におけるスポーツが「嫌い」「やや嫌い」の割合 は、以下の通りとのこと。
2008年調査:男子 11.6%,女子 20.7%
2021年調査:男子 12.7%,女子 24.7%
男子の8分の1,女子の4分の1が、「嫌い」「やや嫌い」と回答しているということになります。
「男子は運動・スポーツが好き・得意」と決めつけられることもしばしばありますが、実際のところは、運動・スポーツが嫌い・苦手な男子も数多く居ます。
記事中では、21歳・男子大学生Aさんが、小学生のときの忌まわしき思い出を語っています。
運動会の組体操では、男子だけが "ピラミッド" に参加することを強要され、シゴキとも形容できるような身体的苦痛に満ちた練習をさせられたそうです。
教師曰く、「男子だから、先輩たちも続けてきたから、やらなきゃいけない。やる気だ。根気だ。耐えろ。もっとつらい人がいる。チームワークだ」と。
Aさん「でも、僕は自分からそれをやりたいと思った覚えはない。強制されているとしか思えなかった」
Aさん「男ならできて当たり前だという価値観。できないのはふざけているからだという決めつけ。おかしいと思ったけど、先生たちに言う勇気はなく、もやもやした気持ちとして残った」
井谷教授の調査では、他にも運動・スポーツを嫌い・苦手とする男性たちからの声が上がっています。
『男性は体育ができて当然とされ、男らしさを競う場として体育が扱われることの圧力の存在が指摘された。そこで生じる序列が、学校生活の序列になっていたことも訴えられた。』
この調査をもとにリーフレットがまとめられています。
このリーフレットの中には、男性からの声として、たとえば以下のようなものが掲載されています。掻い摘んで紹介します。
・ 肌を見せるのが嫌で、普段もずっと襟付きの服を多く着たりして肌を隠そうとしてるのに、夏の水泳ではパンツだけで泳がなければならないのが本当にストレスだった。
・ 先生方から、体育っていうのは男の人はできて当然みたいな感じで扱われてきて、やり方など分からないまま授業がすすで行く感じがあった。
・ 体育授業等で、普通にできない(体力や技能の面で本人にとっては無理なことを要求されている)だけなのに、ふざけていると先生に勘違いされてしまったりして、辛さを感じていた時期があった。
・ 持久走大会で、体調を気にして体力をセーブして控えめに走っていたら、ものすごい怒号で怒鳴られた。
・ 学校体育を嫌だと感じるようになったのは、体育が男女別に変わった中学校入学時だと思う。小学校までの男女・上手下手関係なくワイワイしていた体育から、(運動ができるという)男らしさを競わせるような場になったギャップに絶望の日々だった。
・ 小学校は組体操がすごく盛んで、教員が団結の名のもとに無理な段数を積み上げることが常態化していた。ピラミッドと呼ばれる技も男子児童全員に強要されたものである。小学校6年生の時点で身体的な差がない(筆者註:体格・体力の面ではむしろ女子のほうが上回る時期である)のにも関わらず、男子児童だけがこの理不尽を強いられることに憤りを感じた。
・ 体育行事に協力しない生徒やできない児童は、他の児童からのいじめに耐えなければならない。「お前じゃなくもっと運動神経がいいやつがうちのクラスにいたらいいのに」と心ない言葉を何度もかけられた。
・ スポーツできる人たちがマウントを取ってくる。スポーツができる=モテるみたいな風潮があり、そのスポーツのヒエラルキーがそのまま学生生活にも直結してたように思う。
リーフレット内で井谷教授が『男性の「体育嫌い」は女性よりももっと声を上げづらい環境になっているようにも思えます』と記されているのは、確実に当たっています。そういう意味で、このような声を表出させることに成功したこの調査の価値は高いと思います。
運動が苦手な人,体育嫌いな人,体力が無い人という集合で見たとき、男性はマイノリティ(少数者)です。
マイノリティを大切にするのがリベラルであるならば、この問題も社会の中で大切な問題として扱ってほしいものです。
体育やスポーツというのは、男性差別との関連が深いものです。
運動が苦手な男子,体育・スポーツが嫌いな男子,体力がない男子というのは、そうでない男子に比べて、自尊感情が低くなりやすいと思います。
体育会系でマッチョな男たちによる、不健全な同調圧力・抑圧の構造は、変えていかなければならないと考えます。
また、男性に対して一律に運動が好き・得意であると決めつけたり、一律に体力的に優位であることを期待するのは、ジェンダーハラスメントです。
(これは、何も男性間に限られた問題ではありません。女性から男性に対するハラスメントも多数行われています)
※ 男性のみを対象とした徴兵制は、最大にして最悪の男性差別ですが、ここにもこの問題が関連してきていると僕は考えています。
1994年度から高校の家庭科が男女とも必修となりましたが、それ以前の約30年間にわたり、普通科の高校では、男子に女子の倍近くの時数の体育授業を課していました。家庭科を学ぶ機会を奪われ、体育を押し付けられていました。これは、体育会系・マッチョな男子にとっては良かったのかもしれませんが、そうでない男子にとっては迷惑あるいは苦痛でしかなかったものと思います。
☆ 高等学校「家庭科」の変遷 ~男子の家庭科を学ぶ権利が奪われていた時代~(2022年8月)
また、女性の体力の平均値を下回る男性も社会の中には存在します。
マスキュリズムの活動を進めていく上では、その存在を可視化していくことが、大きな益につながるでしょう。
☆ 体力の男女比較 ~〈 手弱男 〉の存在を可視化する試み~(2014年7月)
運動が苦手な男子,体育が嫌いな男子でも、抑圧や攻撃・ハラスメントを受けることなく、自分らしく生き生きと暮らせる社会になることを願っています。
長らく "体育の日" と呼ばれていた祝日でしたが、数年前に呼称が変わりました。1964年東京オリンピックの開会式が行われたのを記念した祝日です。
その体育やスポーツですが、嫌い・苦手という人も多く居るものです。僕もその一人で、小学生のときから体育は嫌い・苦手です。いわゆる "文化系" ひとすじで生きてきました。
体育嫌いについて、京都教育大の井谷恵子名誉教授が、ジェンダーの観点から研究をされています。ちょうど、この祝日に合わせてか、朝日新聞が報じています。
国が行った調査によると、中学2年生におけるスポーツが「嫌い」「やや嫌い」の割合 は、以下の通りとのこと。
2008年調査:男子 11.6%,女子 20.7%
2021年調査:男子 12.7%,女子 24.7%
男子の8分の1,女子の4分の1が、「嫌い」「やや嫌い」と回答しているということになります。
「男子は運動・スポーツが好き・得意」と決めつけられることもしばしばありますが、実際のところは、運動・スポーツが嫌い・苦手な男子も数多く居ます。
記事中では、21歳・男子大学生Aさんが、小学生のときの忌まわしき思い出を語っています。
運動会の組体操では、男子だけが "ピラミッド" に参加することを強要され、シゴキとも形容できるような身体的苦痛に満ちた練習をさせられたそうです。
教師曰く、「男子だから、先輩たちも続けてきたから、やらなきゃいけない。やる気だ。根気だ。耐えろ。もっとつらい人がいる。チームワークだ」と。
Aさん「でも、僕は自分からそれをやりたいと思った覚えはない。強制されているとしか思えなかった」
Aさん「男ならできて当たり前だという価値観。できないのはふざけているからだという決めつけ。おかしいと思ったけど、先生たちに言う勇気はなく、もやもやした気持ちとして残った」
井谷教授の調査では、他にも運動・スポーツを嫌い・苦手とする男性たちからの声が上がっています。
『男性は体育ができて当然とされ、男らしさを競う場として体育が扱われることの圧力の存在が指摘された。そこで生じる序列が、学校生活の序列になっていたことも訴えられた。』
この調査をもとにリーフレットがまとめられています。
このリーフレットの中には、男性からの声として、たとえば以下のようなものが掲載されています。掻い摘んで紹介します。
・ 肌を見せるのが嫌で、普段もずっと襟付きの服を多く着たりして肌を隠そうとしてるのに、夏の水泳ではパンツだけで泳がなければならないのが本当にストレスだった。
・ 先生方から、体育っていうのは男の人はできて当然みたいな感じで扱われてきて、やり方など分からないまま授業がすすで行く感じがあった。
・ 体育授業等で、普通にできない(体力や技能の面で本人にとっては無理なことを要求されている)だけなのに、ふざけていると先生に勘違いされてしまったりして、辛さを感じていた時期があった。
・ 持久走大会で、体調を気にして体力をセーブして控えめに走っていたら、ものすごい怒号で怒鳴られた。
・ 学校体育を嫌だと感じるようになったのは、体育が男女別に変わった中学校入学時だと思う。小学校までの男女・上手下手関係なくワイワイしていた体育から、(運動ができるという)男らしさを競わせるような場になったギャップに絶望の日々だった。
・ 小学校は組体操がすごく盛んで、教員が団結の名のもとに無理な段数を積み上げることが常態化していた。ピラミッドと呼ばれる技も男子児童全員に強要されたものである。小学校6年生の時点で身体的な差がない(筆者註:体格・体力の面ではむしろ女子のほうが上回る時期である)のにも関わらず、男子児童だけがこの理不尽を強いられることに憤りを感じた。
・ 体育行事に協力しない生徒やできない児童は、他の児童からのいじめに耐えなければならない。「お前じゃなくもっと運動神経がいいやつがうちのクラスにいたらいいのに」と心ない言葉を何度もかけられた。
・ スポーツできる人たちがマウントを取ってくる。スポーツができる=モテるみたいな風潮があり、そのスポーツのヒエラルキーがそのまま学生生活にも直結してたように思う。
リーフレット内で井谷教授が『男性の「体育嫌い」は女性よりももっと声を上げづらい環境になっているようにも思えます』と記されているのは、確実に当たっています。そういう意味で、このような声を表出させることに成功したこの調査の価値は高いと思います。
運動が苦手な人,体育嫌いな人,体力が無い人という集合で見たとき、男性はマイノリティ(少数者)です。
マイノリティを大切にするのがリベラルであるならば、この問題も社会の中で大切な問題として扱ってほしいものです。
体育やスポーツというのは、男性差別との関連が深いものです。
運動が苦手な男子,体育・スポーツが嫌いな男子,体力がない男子というのは、そうでない男子に比べて、自尊感情が低くなりやすいと思います。
体育会系でマッチョな男たちによる、不健全な同調圧力・抑圧の構造は、変えていかなければならないと考えます。
また、男性に対して一律に運動が好き・得意であると決めつけたり、一律に体力的に優位であることを期待するのは、ジェンダーハラスメントです。
(これは、何も男性間に限られた問題ではありません。女性から男性に対するハラスメントも多数行われています)
※ 男性のみを対象とした徴兵制は、最大にして最悪の男性差別ですが、ここにもこの問題が関連してきていると僕は考えています。
1994年度から高校の家庭科が男女とも必修となりましたが、それ以前の約30年間にわたり、普通科の高校では、男子に女子の倍近くの時数の体育授業を課していました。家庭科を学ぶ機会を奪われ、体育を押し付けられていました。これは、体育会系・マッチョな男子にとっては良かったのかもしれませんが、そうでない男子にとっては迷惑あるいは苦痛でしかなかったものと思います。
☆ 高等学校「家庭科」の変遷 ~男子の家庭科を学ぶ権利が奪われていた時代~(2022年8月)
また、女性の体力の平均値を下回る男性も社会の中には存在します。
マスキュリズムの活動を進めていく上では、その存在を可視化していくことが、大きな益につながるでしょう。
☆ 体力の男女比較 ~〈 手弱男 〉の存在を可視化する試み~(2014年7月)
運動が苦手な男子,体育が嫌いな男子でも、抑圧や攻撃・ハラスメントを受けることなく、自分らしく生き生きと暮らせる社会になることを願っています。
それが軍隊なら、貴賤上下関係なく同一に徹底的にしごかれるものです。
中には要領も悪く運動神経も良くない人達もいますが、全員が同じように出来るまでしごかれるのが軍隊だそうです。
私も運動が苦手で体育の授業やマラソン大会や体育祭辛い思いもしましたが、海外の徴兵体験者に聞きましたら、出来ない人達は特別にしごかれ、汗と涙と小便と糞と全て出すまで厳しくされたようですので、きっと私も同じ体験をしたことでしょう。