新潟久紀ブログ版retrospective

新潟独り暮らし時代50「鈴木辰治ゼミへの留学生(その7)」

●鈴木辰治ゼミへの留学生(その7)

 時は昭和60年秋。新潟大学経済学部鈴木辰治ゼミのゼミ長として、日系三世ブラジル人の留学生の世話を教授から頼まれたものの、半年足らずの留学期間中を振り返ると、逆に私の方がお世話になってしまっていたようだ。
 そもそも、新潟大学への留学生とは言え、彼は私より5歳以上も年上で、サンパウロの大学を卒業して地元の有名企業に勤めているエリートであり、日常生活に不自由しない程度の日本語も出来てコミュニケーションに問題も無く、私から何か世話をするとか支援するなどということがおこがましいとさえ思える相手だった。
 更に私は、実家を離れてアパート暮らしで生活費に余裕がなくバイトで忙しくしていたので、他人の事を思いやる余裕が無かった。なので、秋が深まり悪天候が続くようになる頃に外出が少なくなってきた留学生の彼が、自室に閉じこもりがちでは心身に良くないと、私に飯でも一緒に食いに行こうと電話をしてきてくれる有様だった。
 一緒に出向く食事も、ブラジルではエリートで財力に余裕のある彼は身に付いたレベルのレストランを選ぶので、貧乏学生の私は単価の高さに内心たじろぐのだった。そんな私を推察して、何度となく食事代を奢ってもらったものだ。その上、日本に居る親戚筋が見附市で農家をやっているとのことで、送られてくる自家用米が余るので私に何キロもくれるという。支援すべき留学生から奢ってもらったりする上に、米どころ新潟県人でありながら米を貰うとは。本末転倒でお恥ずかしい限りだった。
 それでも、気立ての良い彼は、私が何もしてやれないことに文句や不満を言うこともなく、いつも明るく冗談まじりで楽しく対応してくれた。ラテン系の地で培われた気質というのだろうか、顔つきはどう見ても東洋人なのだが、話しのウイットやエスプリ、身のこなしや所作からは、日本人においてネガティブと感じる島国的な考え方や村社会的な行動から見ると魅力的なものが感じられて、私はいつも感心させられた。
 そんな彼が3月までの日本留学を終えて新潟を発つ日がやってきた。私は、貧乏ながらも何か新潟の思い出になるものをお土産に持たせたいと思ったのだが、私の懐事情を熟知し、中途半端な荷物も増やしたくない彼は、早々からそれを辞退していた。それでも当日、私が中古の愛車で新潟駅まで送るくらいしかできない事とお土産が何も無いことを改めて詫びると、新幹線の待合室において彼は、「どうせブラジルへのお土産をくれるなら沢口靖子が欲しいね。彼女は日本女優の宝だから無理か」と冗談を言って笑わせてくれた。最期の最期に「それならば」と、私が自分が好きな洋楽曲を編集していつもウォークマンで聞いていたカセットテープを貰おうかと言ってくれた。地球の裏側までの旅の時間を埋める一つにさせてもらうよ。これぞ雪国といわんばかり止むこと無く何時までも降り続きそうな雪を目に焼き付けるように眺めてから、彼は新潟を後にした。

(「新潟独り暮らし時代50「鈴木辰治ゼミへの留学生(その7)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代51「鈴木辰治ゼミ1年目の打ち上げ」」に続きます。)
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