「東洋経済オンライン」の坂本節郎氏のコラム『60代「団塊世代」はなぜこんなに嫌われたのか 「付き合いにくい」理由が今、明らかに!』で団塊世代の特異性とプライドをくすぐることが妙味と論じています。
「団塊世代」とは、堺屋太一氏の著作「団塊の世代」で、 1947年~1949年に生まれた世代の大卒ホワイトカラーを主人公にした近未来小説からの造語で、団塊世代に該当する当方は、坂本節郎氏の論調には同感と違和感と半々ですね。
コラム『60代「団塊世代」はなぜこんなに嫌われたのか 「付き合いにくい」理由が今、明らかに!』では、冒頭に、若い世代から嫌われる団塊世代は、
“「団塊世代は、いつも自己中心でわがままで独善的だ。他を圧して自分ばかり主張する。人の意見に耳を貸さない。ほとほと暑苦しい。彼らが通り抜けた後にはペンペン草も生えない――」”
とし、団塊世代の「3つの特徴」を
“「特徴1 戦前からの「封建性」を引きずっている
1947~1951年に生まれている団塊世代は、戦前からの「古い価値観」を引きずっています。
ただ、彼らが「戦前世代」と異なる点は、「古い価値観」を引きずっていると同時に、戦後の「新しい価値観」も併せ持っているということです。
終戦直後という「時代の変わり目」に生まれ、幼い頃から民主主義教育や欧米のカルチャーに囲まれて成長した世代のため、戦前の「封建性」と、戦後民主主義による「革新性」という、相矛盾する要素がひとりの中に共存しているのです。
「封建性」が前面に押し出されると、「ペンペン草も生えない」ことになります。
「革新性」が家庭に持ち込まれると、「私生活」を大切にする新たな生活スタイルを生み出すことになります。
特徴2 数が多いため、競争意識が強い
次に、団塊世代の特徴として重要なのは、ほかの世代より圧倒的に勝る「数の多さ」です。その「同世代の人間の数の多さ」こそ、団塊世代の特徴を形成してきた最たる要素ではないかと、私は考えています。
団塊世代は人数が多く、厳しい受験戦争があり、当時は「4当5落」と言われました。「4時間睡眠なら大学に合格するけど、5時間睡眠では落ちる」と言われたほどです。
生まれた人数が飛び抜けて多いため、何事につけても激しく競争してきました。
「つねに隣人や周囲から後れを取ってはいけない」という環境の下で育った結果、強い競争意識と闘争心を身に付けざるをえなかったのです。
特徴3 「戦争の呪縛」から解き放たれても「思想の呪縛」からは自由になれない
団塊世代は、「戦争の呪縛」から解放された最初の世代です。
『戦争を知らない子どもたち』というフォークソングが流行し、「戦争なんて知らないよ」と歌いながら、公然と戦争に反対の意志を表明しました。この新たな価値観は、上の世代との「ジェネレーションギャップ」も生み出しました。
しかし、「戦争の呪縛」から解き放たれても、「思想の呪縛」からは自由になり切れなかった、それが団塊世代の特徴です。
強い自己主張、ほとばしるようなそのエネルギーは、独自の若者文化を生み出す一方で、ベトナム反戦運動や学園紛争といった「公=権威を批判する」行動へとつながっていったのです。」“
の考察は、特に、「特徴2 数が多いため、競争意識が強い」は事実でしたが、「特徴1」「特徴3」は、団塊世代の親の世代に相当すると思いますね。
確かに、同年代の人口が多く、当方の場合は、小学校入学当初は午前・午後の2部制で卒業するまでに3校が新設・分離してゆき、当方も6年次に新設校に変わり、第一回卒業生でした。
高校受験時には「4当5落」「高校浪人」の言葉がメディアに登場したのは事実で、競争意識は強かったとは思うが、本質は「適当」「無難」のドライな側面があったと思いますね。
コラムの冒頭に、“「彼ら(団塊世代)が通り抜けた後にはペンペン草も生えない――」”の解釈は偏見で、“「彼ら」”は団塊世代の前の戦中・戦前世代で、団塊時代の社会は膨張時期で猛烈競争もあり、他方でビューテイフルが言われ始め、個性・独自性、自己実現が強調されたのは、団塊世代の前の世代が経済成長を先導してきた社会で、団塊世代はその社会で「適当」「無難」でも食える社会だったのです。
「特長1」の「戦前からの「封建性」を引きずっている」は、敗戦後の混乱時に、今日生き抜くことに懸命だった世代で、戦後の団塊世代は懸命に生き抜いてきた世代の子供世代で、親の有難さを見てきており競争意識は持つが社会が膨張しており、適当さでも通用したのです。
「特長3」の「「戦争の呪縛」から解き放たれても「思想の呪縛」からは自由になれない」とあるが、戦後生まれ育ちの団塊世代に「戦争の呪縛」などなく、尖った人間は「思想の呪縛」はあったが限定的で、多くの団塊世代は中流環境で育ち、「適当に」「世間並」が社会膨張時には通用し、余力エネルギーで独自の若者文化を生み出す一方で、「公=権威を批判する」行動へとつながっていったのは「思想の呪縛」ではなく、社会に余裕度・自由度があったと思っていますね。
しかしながら、その余裕は、バブル崩壊で苦境を味わい堅実保守志向になったのです。
マアー、団塊世代の当方は、老母の在宅介護中で付き合いも限定的ですが、付き合いにくいと思われないように世間様に従順に過ごすことを心掛けていますね。
東洋経済の記事を検索していた際に、このブログに出合い当記事を拝読させていただきました。
ご面倒でなければ率直な意見をいただきたくコメントさせていただきました。
団塊の世代でも他の人の言うことに聞く耳をもった方に、一度は欺瞞も詭弁も飾りもないお話を伺ってみたいと以前から思っておりましたもので。
私は36歳・男性です。自分の父は1949年生まれの団塊世代で、自分の妻の父(義父)も団塊世代です。
どちらの父も仕事や人生観等で悩んだり相談に乗っていただいたりした際には「自分は全てのことが解っている、だから自分の言うことを聞きなさい or 自分の言っていることが正しい」といった感覚で話を進めていきます。
自分とは全く違う他人の価値観を尊重して共に生きていくこととか、他人の立場をおもんばかるとか、思考の柔軟性の無さを感じずにはいられません。
その割に自身の話は聞いてくれ聞いてくれのオンパレードです。
どちらの父も夫婦ゲンカになった時は、持論を大声でまくしたてて反論するヒマもないほどです(どちらの母も時々泣いております。ホント時々ですがね)。
父の独自で強力な考えに導かれて私自身も受験等を乗り越えてきたこともあり、基本的には父を尊敬しているのですが(因みにどちらの父も大卒です)、優しいところもありますし、しかしこの偏った性質はなんだろうと。この点に関してはどちらの父もかなり似ている(全くの別人なのに)、しかも最近になって団塊世代の引退にともなう社会保障制度上の問題や医療の2025年問題等で、団塊世代の話題に触れることも多くなり、このなんだろうという疑問が日増しに強くなってきました。
やはり時代や生きてきた環境なのでしょうか?
ネット上には恨みや憎しみでデフォルメされた意見や、公ではそこまで言えない等の規制がかかった意見ばかりなので、考察の参考にしにくく、是非とも冷静に分析・考察された意見を団塊の世代の方に伺いたいと思った次第でございます。
もし気が向かれましたら、ご意見いただけたら大変嬉しく存じます。