ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

書き残し いろいろ

2020-12-26 14:38:13 | 出会い
 年末だからと、数年ぶりに書棚の拭き掃除をした。
すると、忘れかけていた雑誌や小冊子から、
私が執筆したものが出てきた。
 いくつかを転記し、今年を締めくくることにした。


  ① 某季刊教育誌に掲載  ~寄稿随筆から~
 
      生きる原点

 H氏は私と顔を会わすと必ず、
「先生、ぜひU村に足を運んでください。」
と言われます。
 その村は、皆様には馴染みがないかと思いますが、
N県にある「農村」と言っていいかと思います。

 この村に、私が以前勤務していたS小学校の卒業生H氏が、
『O山荘』という別邸を設けているのです。

 H氏はとうに70才を越えた方ですが、
H氏をはじめとする当時のS小の児童は、
終戦間近の昭和19年ころU村に学童疎開をしました。
 それが縁で、S小学校は村の小学校と姉妹校提携をして、
今も盛んに学校間交流をしております。

 この交流が決して絶えることがないように、
そして学童疎開という悲劇が風化することのないように、
そんな願いを込めて、10年以上前にH氏は私財を投じて
U村の旧農家を買い取り、山荘を開きました。

 私は、H氏にお会いするたびに、小学校6年生・12才の体験を、
昨日のことのように語る姿にふれ、
H氏の生きる原点が学童疎開と言う体験にあることを
思い知らされてきました。

 人間は誰でも、それぞれの長い人生の中で、
その人の生き方を決定づけるような出来事や事柄に出会うものです。
 それを私はその人の生きる原点と言ってきました。

 H氏のような強烈な出来事ではなくても、
学校生活を通してそんな原点を持つことになる子どもも
きっといると思います。

 そう考えると、私たちの1つ1つの行為の重大さに、
身の引き締まる思いがします。 


  ② 某月刊教育雑誌に掲載  ~子どもに語る例話(小学校向け)から

   くまの子ウーフは、何でできているの?

 神沢利子さんが書いた「くまの子ウーフ」のお話で、
私が一番好きなところを紹介しますね。

 ウーフは、毎朝、目をさますと決まってニワトリ小屋へ行くんです。
するとめんどりが必ず卵を一個ぽんと産むんです。
 翌日また行くと、また卵を一個産むんです。

 そんな朝をくり返しているある日、ウーフは大発見をするんです。

 「そうか、めんどりは、毎朝毎朝、卵を一個産むということは、
あのめんどりの体の中は卵だらけ、卵でいっぱいなんだ。
 つまり、めんどりの体は卵でできているんだ。」
と、ウーフは考えたのです。

 それで、そのことをウーフは、
友だちのきつねのツネタ君に話すんですね。
 「ツネタ君、めんどりはなんでできているか知っている?」
と、ききます。

 ツネタ君が、「さあ」と言うと、ウーフは、胸を張って、
「めんどりの体は、卵でできているんだよ。
だって、毎朝毎朝、卵を産むんだもの。
あの体は卵でできているに決まっている」
と、言うんです。

 そこで、ツネタ君は、
「じゃウーフ、お前は毎朝何をするんだ?」
 「うん、ぼくはオシッコ!」
「じゃ、ウーフはオシッコでできているのか?」
 「えっ。ぼくはオシッコでできているの。そ、そんなのいやだ!」

 ウーフは泣きながら、ツネタ君のところから逃げだすんです。
そして、坂道でころんでしまうんです。
 すると、足から血が出るんです。
目からは涙がいっぱい流れ出すんです。

 そこで、ウーフは、
「あっ、そうか。ぼくはオシッコだけじゃない。
血も涙も出るんだ。」
と、気がつくんです。
 そして、ウーフは泣くのをやめて、おうちに帰ります。

 おうちに着くと、ウーフはお母さんにきくんです。
「お母さん、ウーフはなんでできているか知っている?」。
 とてもやさしいお母さんは、
「さあて、ウーフはいったい何でできているのでしょうね」
と、答えます。

 そこで、ウーフは、
「お母さん、ぼくはね、ぼくでできているんだよ」
と、胸を張るんですね。

 私は、このウーフのお話をよく思い出します。
だって、ウーフはすばらしいと思いませんか。
 ウーフはいろいろと間違った考えを持ちます。
だけど、ウーフはそのときそのとき、
しっかりと自分の考えを持つでしょう。

 そして、間違いに気づくとまた新しい考えを持つ。
そうやって、本当のこと、真実にたどりつくんですね。
 皆さんが毎日している学習も、
きっとそういうものだと私は思います。


  ③ 某児童演劇協会パンフレット ~演劇教室推選文から

    子ども達の 期待に
 
 いつもは体育学習の場、朝会や集会、
入学式や卒業式などの各種行事の会場である体育館。

 そこが、その日は劇場に変わる。
ある時は、教室の自分の椅子を持って入場、
あるいは、体育用のマットが座席。

 でも、そこにはいつもとは違う特別な空気が流れている。
どの子もそれを敏感に感じ取る。

 私は、いつもその会場に、
子ども達全員が入場を済ませた頃合いを
見計らって入ることにしている。
 まだ静まりかえる前の子ども達のざわめきが、
そこにはある。
 朝会や児童集会のそれとは
一味違う子ども達のざわめきを感じるのは、
私だけだろうか。

 年に1回きりの演劇教室。
それは、子どもにとって特別な時間なはず。

 何が始まるのだろうと言った期待感。
いつも「できた」「分かった」「やりなさい」「しなけれれば」
と言った学校の時間と生活の中で、そこから解き放され、
今からは目の前で始まる人形劇や影絵劇、お芝居に、
自分の感情を泳がせることが許される。

 面白かったら笑えばいい。
悲しければ涙すればいい。
 理不尽には怒ればいい。

 その期待感が、いつもの上滑りのざわめきとは違った、
どこか落ち着きのあるしっかりとしたざわめきとして、
私の耳と心に響いてくる。

 これこそが演劇教室のあるがままの幕開け前。
私は、そこにこそ演劇教室の意義が、
全て凝縮しているように思える。
 教師はその期待感を感じ取り、
この教育活動をさらに発展継続するのを、
再認識しなければならない。

 また演劇人には、
そんな子ども達にいつも応える舞台を、
提供し続けてほしいと切望している。




  すごい降雪に ジューンベリーが 寒そう
               ※次回更新予定は 1月 9日(土)です

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