昨日は3月11日。忘れられない、忘れてはいけない日になってから、丸2年。
私なりにいろんな思いもありますが、被災した方たちの思いとはかけ離れたものであるだろうと、書く事に躊躇を感じています。
私も今回ほどの被害や打撃を受けた経験はないのですが、たぶん伊勢湾台風だったのだろうと思いますが、私が保育園に通い出したころ、水害にあったことがありました。
私の父親は仕事がら、台風などの災害が予想される時には出勤しなくてはいけなかったので、天竜川沿いのよく氾濫する地域に住んでいた私たちは、そういう時には父親不在の、母親と弟と3人で過ごす不安な夜でした。
その日もいつも通りに保育園に行き、雨の中母親が弟をおぶって迎えに来てくれました。強い風雨で、そして、坂道になっているいつもの道が滝のように水が落ちてきて、子どもの足ではとても登れなくなり、母親が私を片手で抱き上げ、歯を食いしばって、片手に荷物と私たちが濡れないように傘をさしかけながら、坂道をあがりました。
途中で、昔は農耕の為の牛をどの家でも飼っていたのですが、その牛が、足を踏ん張って動かないのを、おんおん泣きながら引っ張るおじさんを見ました。そのおじさんはクワの実を採りに桑畑に入ると手にカマを持って追いかけてくる怖いおじさんでした。
その怖いおじさんが泣いている。泣きながら動かない牛を動かそうとしていましたが、坂を流れる水と天竜川から上がってくる水が後ろに迫ってきて、母親に必死にしがみつきながら、心の中でおじさん、逃げて!と叫んでしました。
一緒に保育園に通っていた友達の家が流されてその一家の親子4人は亡くなり、何日か高台の家の軒先だったのか、納屋だったのか、飼育小屋だったのか、そんなところで父親の迎えを待った記憶があります。
坂を流れる濁流。
私たちを抱える母親の顔。
牛を引くおじさんの顔。
これは、50年以上たった今でもはっきりと覚えています。
その時の母親の顔が、辛い事があった時、踏ん張れる原動力でした。特に子育ての時、私も何があっても頑張らなくてはと思いました。
ある時に、その時の事を母親に話しました。
こういう事があったね。だから私、頑張れたんだよって。
その時の母親の反応は私の思っていたものとは違い「え?そんなことがあったかしら?」
覚えてないの?私は鮮明に覚えているんだけどと言うと
「ああ~、もしかしたら伊勢湾台風の時かな?そう言えばそんなことがあったね。今まで忘れていた。」
「私、あの時のお母さんの顔があったから、子育て出来たんだよ。」というと、母親は笑いながら「当たり前の事じゃない。特別な事じゃないよ。」
と言いました。
私、そっちの方が、お母さんすごいって、思いました。
もしかしたら、もっと大変なことがあったのかもしれません。
子どもを抱えて避難するなんて、母親にとっては大したことではなかったのかもしれません。
会社勤めの父親に代わり、痩せた段々畑を耕し、田んぼをおこす方が大変なことだったのかもしれません。
幼かった私たちは、従兄弟に面倒を見てもらいながら田んぼの周りで遊んでいる楽しい時間だったんですから。
でも、やっぱり私にとってはあの時の母親の顔は特別なものです。
これからもあの時の顔を思い出して、山も谷も越えて行けるのではないかと、そう思っています。
母親としての自分は、子供たちからみてどうなのかな? って
考えます。 後ろ姿で教えてきたものがあるのかないのか?
そんなことは話したことがありませんが・・・