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「書くこと」と日本語

2012年10月05日 | 研究
「漢字とアルファベットの最大の違いは、前者が書き言葉を中心とする言語世界を形成し、それとともにあるのに対して、後者は話し言葉を中心にした言語世界を形成し、それとともにあるという点です」(石川九楊『縦に書け』)

日本人は対面コミュニケーションを好む。世界で最も情報通信環境が整備された国でありながら、ビジネスにおいても学術においても、「直接会って話さないと十分なコミュニケーションができない」という人が多い。電話だけの会話ではストレスを感じるのである。欧米のビジネスマンは、電話一本で大きな商談の話しもするし、政治の世界でも国のトップ同士のホットラインで、一触即発の事態も回避できる。単に双方が英語ができるという話でもなさそうだ。

相手の顔が見えれば、日本人でも「会話」だけで深いコミュニケーションできるかといえばそうでもない。日本ではテレビ会議はシステムとしてはずっと前から完成されているが、なかなか利用が広まらない。欧米ではもっと上手にテレビ会議、web会議を使いこなしている。この違いを「日本人は対面コミュニケーションを好むから」と文化の問題で片付けてしまうことが多いが、問題はその「文化」がどこから来たかである。

日本語は、子音、母音が少なく、その結果、同音異義語が多い。「はかる」と読む漢字は、「図る」、「謀る」、「謀る」、「計る」、「量る」など、実に137種もあるという(笹原宏之『訓読みのはなし』)。漢字二文字の漢語になると同音異義語だらけである。「きかん」には、期間、機関、器官、気管、帰還、基幹、季刊、既刊、奇観があり、「しこう」には、嗜好、思考、志向、施行、試行、至高があるといった具合である。口頭では「文脈」を理解しないと単語の意味が決まらないのが日本語である。誤解を避けるために「私立」を「わたくしりつ」、「首長」を「くびちょう」、「化学」を「ばけがく」と言い換える工夫もされているが、いずれにしても日本語では、電話一本で親しくない相手と微妙なニュアンスの会話を成立させるのは困難なのかも知れない。相手と親しければ、少しは聞き手の想像力で相手の意図を補えるが、そうでない相手とは難しい。音声だけの日本語は、対面あるいは書かれた文字という補助手段がないと正確に意図を伝えることができない言語なのではないか。日本語は曖昧と言われるが、音声だけでは言葉の意味が定まらないのでは、曖昧にならざるを得ない。テレビでは人物の発言に字幕を重ねることがしばしば見られるが、「音声の日本語」の欠点を補う工夫であろう。アルファベット文化圏では、発言に字幕は重ねない。

電子メール、携帯メールの普及によって電話で人と話す機会は激減している。「話す」よりも「書く」方が伝わるのである。そう考えれば、オフィスで隣同士で会話せずにメールを送り合うコミュニケーションも一概に否定できないということか。
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