goo

分析から知覚へ

2012年10月03日 | 研究
「物理的現象では、全体は部分から成り、かつ部分の合計に等しい。したがって、分析によって理解することが可能である。しかし、生物的現象には、部分はなく、すべて「全体」である。部分を合計したところで全体とはならない。確かに情報そのものは分析的、概念的である。しかし、「意味」は分析的、概念的ではない。それは知覚的な認識である。-中略-300年前、デカルトは「我思う。ゆえに我あり」と言った。今やわれわれは、「我見る。ゆえに我あり」と言わねばならない。デカルト以来、重点は概念的分析におかれてきた。しかし今後は、概念的分析と知覚的認識の均衡が必要である」(ドラッカー『新しい現実』1989年)

マクルーハンは、概念conceptではなく直感perceptによって、図ではなく地に注意を向けることで、今起きている現実を知ることに努めていたが、ドラッカーもまた、デカルト以来の近代合理主義的な世界観から「新しい現実」への転換を知覚を使って認識していた。ドラッカーが日本画のコレクターにして優れた批評家であったことは有名である。ドラッカーは水墨画に見る日本人の知覚能力の独自性を高く評価していた。ドラッカーはマクルーハンのことを「知覚の人」と呼んだが、ドラッカーもまた知覚を重視した人であった。

「生物的な世界では、中心にあるのは、まさにこの知覚的な認識である。しかも知覚的な認識は、訓練し発達させることが可能である。また事実、訓練し発達させることが必要である」(『新しい現実』)

二人の著作に共通する「匂い」は、知覚を使って一挙に現実を把握しようとする方法論から来るものであった。二人の違いは、マクルーハンよりもドラッカーの方が、知覚的認識を概念的な言葉に翻訳する能力に長けていたことだろう。ドラッカーは優れた活字作家であった。職業的な違いもあるだろうが、マクルーハンは、自分同様、読者・聴衆にも知覚による世界認識を促した。マクルーハンの不連続的な言い回しはそのための装置である。意味を伝えるのではなく、聴衆が知覚を使って能動的に意味解釈することを期待した。マクルーハンは作家ではなく、説教者でありグル(導師)であった。

マクルーハン・ブームの最中、大企業経営者は、マクルーハンの言葉から次代の経営のヒントを得ようと競ってマクルーハンを招いたが、未だデカルト的世界観に囚われていた当時の経営者たちには、マクルーハンの言葉は理解不能だったようだ。当時はドラッカーのような、新しい現実と古い認識世界を行き来する「翻訳者」が必要だった。しかし、生まれた時から知覚的認識で世界を観ている今日のネット種族には翻訳は不要である。ネット世界のイノベーターたちは、サイバー文化の「守護聖人」マクルーハンの言葉で経営と未来を語っている。
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする